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夜十時の手毬  作者: サザルト


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7/21

第7話 開いた窓

 翌朝、阿部は笠間の部屋の前に立っていた。


 まだ、会社へ行くには少し早い時間だった。


 廊下は静かだった。


 いつもなら、隣の部屋から物音が聞こえることもある。


 玄関の開く音。


 水を流す音。


 鞄を持って出ていく気配。


 けれど、その朝は何も聞こえなかった。


 阿部は呼び鈴を押した。


 返事はなかった。


 もう一度押す。


 やはり、返事はない。


 阿部は扉を叩いた。


「笠間さん」


 声は、思ったより小さくなった。


「笠間さん、いますか」


 何も聞こえない。


 阿部はしばらく迷っていた。


 このまま出勤してしまえばいい。


 そう思った。


 見なかったことにすればいい。


 関わらなければいい。


 昨日までの自分なら、そうしたかもしれない。


 けれど、笠間は言っていた。


 もし明日の朝、自分が部屋に戻っていなかったら。


 鍵は開けたままにしておきます。


 部屋を見てください。


 阿部はゆっくり息を吐いた。


 それから、ドアノブに手をかけた。


 鍵は開いていた。


 笠間が言っていた通りだった。


 そのことが、阿部にはひどく怖かった。


 阿部は息を止めて、ドアを開けた。


「笠間さん」


 部屋の中は静かだった。


 靴はあった。


 鞄もあった。


 机の上には書類が置かれていた。


 スマートフォンの充電器も、着替えも、そのままだった。


 生活の跡はある。


 さっきまで誰かがいたような気配もある。


 けれど、笠間はいなかった。


 阿部は奥へ進んだ。


 そこで足を止めた。


 窓が開いていた。


 カーテンが、朝の風を受けて、ゆっくり波打っている。


 白い布が、ふくらんではしぼむ。


 また、ふくらむ。


 その向こうに、明るい空が見えた。


 阿部はしばらく、ただそれを見ていた。


 窓の外に何かがいるわけではない。


 手形が残っているわけでもない。


 ただ、窓が開いているだけだった。


 けれど、それがたまらなく怖かった。


 荷物は残っている。


 窓は開いている。


 本人だけがいない。


 佐藤の時と同じだった。


 阿部は、その場でしばらく動けなかった。


 朝の風が、カーテンを揺らしている。


 部屋の中に、ふわりと外の匂いが入ってくる。


 普通の朝の匂いだった。


 それなのに、この部屋だけが、どこか別の場所につながっているように思えた。


 やがて、阿部は震える手でスマートフォンを取り出した。


 笠間から預かった封筒には、会社の電話番号が書かれていた。


 阿部はその番号に電話をかけた。


 声がうまく出なかった。


 それでも、どうにか事情を伝えた。


 笠間が部屋に戻っていないこと。


 荷物は残っていること。


 窓が開いていること。


 本人から、何かあったら会社に連絡してほしいと頼まれていたこと。


 電話の向こうの相手は、最初は戸惑っていた。


 だが、笠間の名前を出すと、すぐに確認しますと言った。


 それから一時間もしないうちに、会社の人間がやって来た。


 阿部はマンションの入口でその人を迎えた。


 相手は笠間の上司だと名乗った。


 岩瀬という、四十代くらいの男だった。


 きちんとしたスーツを着ていたが、どこか慌てて出てきたような様子もあった。


「朝からすみません」


 上司はそう言って頭を下げた。


「笠間のことで、ご連絡いただいたそうで」


「はい」


 阿部は封筒を取り出した。


「笠間さんから預かっていました」


「笠間から?」


「はい。もし自分に何かあったら、会社に渡してほしいと」


 上司は封筒を受け取った。


 阿部は、うまく説明しようとした。


「できれば、力になってあげたかったんです。でも、私にもどうすればいいのか分からなくて。笠間さんは、ずっと何かに怯えていて」


「怯えていた?」


「はい。夜になると、何かが来ると言っていました」


 上司の眉が少し動いた。


 阿部は続けた。


「部屋には荷物が残っていました。窓が開いていて、本人だけがいなくて。これは、前にも同じようなことが」


 その途中で、上司は封筒を開けた。


 便箋を取り出し、その場で読み始める。


 阿部は口を閉じた。


 上司は、便箋に目を通しながら、少しだけ難しい顔をした。


「……そういうことでしたか」


「え?」


 阿部は上司を見た。


「そういうこと、とは」


「笠間は、仕事に耐えられなかったようですね」


 阿部は、意味が分からなかった。


「仕事、ですか」


「はい」


 上司は便箋を見たまま言った。


「業務に向いていなかった。これ以上ご迷惑をおかけできないので、退職させていただきたい。そう書いてあります」


「違います」


 阿部は思わず言った。


「そんなはずありません」


 上司は顔を上げた。


「違う、とは?」


「笠間さんは、そんなことを書くために、その手紙を渡したんじゃないはずです」


 上司は少し困ったような顔をした。


「ですが、本人の字ですよね」


 阿部は息を呑んだ。


 中は見ていなかった。


 笠間から受け取った封筒を、そのまま持っていただけだった。


 だから、本当は何が書かれていたのか、阿部には分からない。


 分からないはずだった。


 それでも、分かっていた。


 違う。


 笠間は、仕事が嫌で逃げたのではない。


 この部屋で何かが起きた。


 あの坂の上で何かが起きた。


 阿部は、上司の手元にある便箋を見た。


「その手紙」


 阿部は、ようやく声を絞り出した。


「少し、見せてもらえませんか」


 上司は一瞬ためらった。


 けれど、阿部があまりにも真剣な顔をしていたからか、便箋をこちらへ向けた。


「個人情報もありますから、少しだけですよ」


「はい」


 阿部は便箋を見た。


 そこには、たしかに笠間の字が並んでいた。


 短く、丁寧な文章だった。


 業務に向いていなかったこと。


 これ以上、会社に迷惑をかけられないこと。


 精神的にも限界であること。


 退職させてほしいこと。


 お世話になりました、という言葉。


 それだけが、書かれていた。


「そんな……」


 阿部の口から、声が漏れた。


 笠間の字だった。


 笠間が書いたものに見えた。


 だが、違う。


 違うはずだった。


 笠間は、そんなことを書くために、あの封筒を渡したのではない。


 もし自分に何かあったら。


 会社に渡してください。


 そう言った時の笠間の顔を、阿部は覚えていた。


 怯えていた。


 追い詰められていた。


 それでも、何かを残そうとしていた。


 なのに、そこに書かれているのは、ただの退職願だった。


 上司は便箋を戻しながら、小さく息を吐いた。


「確かに、最近の笠間は少し様子がおかしかったんです」


 阿部は顔を上げた。


「様子が?」


「ええ。落ち着きがないというか、何か考え込んでいるというか。仕事中もぼんやりしていることが増えていました。ミスもありましたし、顔色も悪かった」


 上司は封筒を手にしたまま、困ったように眉を寄せた。


「寝不足だとは言っていましたが、理由は話しませんでした。こちらも忙しさで追い詰めてしまっていたのかもしれません」


「違います」


 阿部はもう一度言った。


「そうじゃないんです」


「阿部さん」


 上司の声は、責めるものではなかった。


 むしろ、落ち着かせようとしているようだった。


「お気持ちは分かります。ただ、本人がこう書いていますので」


「でも、笠間さんは」


「結局、こういうことだったんですね」


 上司は便箋を封筒に戻した。


「仕事が合わず、誰にも言えずに追い込まれていた。そう考えるのが自然かと思います」


 自然。


 その言葉が、阿部には気持ち悪かった。


 自然ではなかった。


 荷物を残していなくなることが、自然なはずがない。


 窓を開けたまま消えることが、自然なはずがない。


 昨夜、あれほど怯えていた笠間が、ただ仕事が嫌で逃げたなどということが、自然なはずがない。


 だが、上司にとっては違った。


 手紙がある。


 本人の字がある。


 最近様子がおかしかったという事実もある。


 だから、それで説明がついてしまう。


 阿部は、背筋が冷たくなるのを感じた。


「笠間は、退職という形で処理します」


 上司は淡々と言った。


「部屋の方は、社内で確認しておきます。持ち物もこちらで整理します」


「いや、違うんです」


「ご連絡いただき、ありがとうございました」


 上司は丁寧に頭を下げた。


「阿部さんには、ご迷惑をおかけしました」


「違うんです」


 阿部はそう言った。


 けれど、その先の言葉が続かなかった。


 何が違うのか。


 どう違うのか。


 自分は何を見たのか。


 何を知っているのか。


 言葉にしようとすればするほど、すべてが曖昧になっていく。


 佐藤は、何も残さずいなくなった。


 笠間は、手紙を残していなくなった。


 けれど、その手紙は、笠間が残そうとしたものではなくなっていた。


 違いはそれだけだった。


 二人とも、いなくなった。


 そのことだけは、同じだった。


 笠間は消えた。


 部屋には荷物が残っていた。


 窓は開いていた。


 手紙は、退職願になっていた。


 それだけだった。


 それだけしか、残っていなかった。


 上司はもう一度軽く頭を下げ、マンションの中へ入っていった。


 阿部は入口に立ったまま、動けなかった。


 朝の風が、二階の開いた窓から入っている。


 カーテンが、まだ揺れている。


 笠間さんは、どうしてしまったのか。


 その問いだけが、阿部の頭の中に残り続けた。

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