第6話 あんたがたどこさ
十時になる前に、こちらから行く。
そう決めたはずなのに、部屋を出る直前になって、足が止まった。
本当に行くのか。
あの女の子がいる場所へ。
あの街灯の下へ。
自分から。
考えれば考えるほど、馬鹿げていた。
けれど、部屋にいても同じだった。
窓を叩かれる。
声が聞こえる。
眠れば夢の中に出てくる。
逃げても、隠れても、どうせ見つかる。
なら、こちらから終わらせるしかない。
私は玄関の鍵を手に取った。
それから、机の上に置いていた封筒を見た。
昨夜、ほとんど眠れないまま書いたものだった。
この部屋に入ってから何が起きたのか。
夜十時に、公園墓地へ続く坂道の街灯の下に女の子が現れること。
その子に話しかけてしまったこと。
それから毎晩、窓を叩かれるようになったこと。
夢の中にまで出てくるようになったこと。
私が消えたら、丘の上の街灯と、この部屋を調べてほしいこと。
全部、書いたつもりだった。
朝、私はその封筒を阿部さんに渡していた。
もし明日の朝、私が部屋に戻っていなかったら、会社に連絡してほしい。
この手紙を渡してほしい。
そう頼んだ。
阿部さんは嫌そうな顔をした。
それでも、最後には受け取ってくれた。
だから、もしもの時には、少なくとも何かは残る。
そう思いたかった。
私は部屋の中を見回した。
鞄。
着替え。
充電器。
机の上の書類。
全部、そのまま置いていく。
スマートフォンと鍵だけをポケットに入れた。
玄関の鍵は、閉めないことにした。
もし戻れなかったら、阿部さんが部屋を確認できるように。
そんなことを考えている自分が、ひどく嫌だった。
それでも、鍵は開けたままにした。
私は部屋を出た。
廊下は静かだった。
阿部さんの部屋の前を通る時、少しだけ足が遅くなった。
中にいるのかどうかは分からない。
声をかけることはしなかった。
階段を下り、外へ出る。
夜の空気は湿っていた。
海が近いせいか、風にかすかな潮の匂いが混じっている。
私は坂道の方を見た。
オレンジ色の街灯が、ぽつん、ぽつん、と丘の上まで続いている。
その一番上の方。
公園墓地の入口に近い街灯の下。
そこに、まだ女の子はいなかった。
時計を見る。
九時五十分。
十時まで、あと少しだった。
私は歩き出した。
坂道は、夜になると昼間より長く感じた。
急な坂ではない。
けれど、ゆるやかな道がだらだらと続いている。
街灯と街灯の間には、濃い影が落ちていた。
歩くたびに、自分の靴音だけが聞こえる。
こつ。
こつ。
こつ。
あの手毬の音は、まだしなかった。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
あの音が聞こえたら、もう引き返せない気がした。
私は何度も後ろを振り返った。
マンションの二階の窓が見える。
私の部屋は暗かった。
カーテンも閉まっている。
あそこにいれば、今日も窓を叩かれていたのだろうか。
そう考えた時、足が止まりそうになった。
でも、止まらなかった。
九時五十八分。
私は、街灯の近くまで来ていた。
そこは、初めて女の子に声をかけた場所だった。
オレンジ色の光が、丸く地面を照らしている。
その外側には、公園墓地の入口が暗く口を開けていた。
私は周囲を見回した。
誰もいない。
女の子もいない。
手毬の音もしない。
もしかすると、来ないのではないか。
そんな考えが頭をよぎった。
けれど、すぐに否定した。
来ないわけがない。
あの子は、毎晩来た。
窓の外にも来た。
夢の中にも来た。
ここに来ないはずがない。
十時になった。
スマートフォンの画面に表示された数字が、静かに変わった。
その時だった。
街灯の影が、揺れた。
私は息を止めた。
オレンジ色の光の外側。
闇の中から、小さな影がすっと出てきた。
女の子だった。
おかっぱ頭。
古い和服。
胸には、手毬を抱えている。
何度も見た姿だった。
けれど、目だけが違っていた。
白目がなかった。
真っ黒な目だった。
墨を流し込んだような黒い目が、まっすぐ私を見ていた。
女の子は、にこにこと笑っていた。
「来てくれた」
声は、嬉しそうだった。
心の底から喜んでいるようだった。
「お兄さん、来てくれた」
私は喉を鳴らした。
声が出にくかった。
「……遊んで、あげる」
女の子の笑顔が、さらに大きくなった。
「ほんと?」
「ああ」
「ほんとに?」
「遊べば、もう部屋には来ないのか」
女の子は、首を傾げた。
それから、くすくす笑った。
「遊ぼ」
答えになっていなかった。
けれど、私はもう一つだけ聞かずにはいられなかった。
「どうして、私なんだ」
女の子が瞬きをした。
真っ黒な目が、じっとこちらを見る。
「どうして、私だけに来るんだ」
「だって」
女の子は、手毬を胸に抱え直した。
「あそこのおうちの人、みんな見てくれないんだもの」
「あそこのおうち?」
私は、坂の下に見えるマンスリーマンションを思い浮かべた。
「マンションのことか」
女の子は、こくんと頷いた。
「みんな、見ないふりするの。聞こえないふりするの。私がいても、知らないふりするの」
その言葉に、阿部さんの顔が浮かんだ。
管理会社の人の顔も浮かんだ。
見ても近づかないでください。
声もかけないでください。
こちらを見ているようでも、見ないふりをしてください。
「でも」
女の子は、嬉しそうに笑った。
「お兄さんだけ、見てくれた」
私は息を呑んだ。
「お兄さんだけ、来てくれた。お兄さんだけ、話しかけてくれた」
「違う。私はただ」
「だから、お兄さんと遊ぶの」
女の子は、当然のように言った。
「お兄さんは、私を見てくれたから」
背中が冷たくなった。
私がしたことは、ただ声をかけただけだった。
夜に子供が一人でいると思って、放っておけなかっただけだった。
けれど、この子にとっては、それで十分だったのだ。
女の子は手毬を地面に落とした。
ぽん。
乾いた音がした。
ぽん。
ぽん。
女の子は、手毬をつきながら歌い始めた。
「あんたがたどこさ」
聞いたことのある歌だった。
子供の頃、誰かが歌っていた気がする。
女の子は歌に合わせて、手毬をつく。
右手でつく。
左手で受ける。
手毬が浮いている間に、小さく手を叩く。
またつく。
片足を上げ、その下を手毬がくぐる。
くるりとその場で回る。
そして、何事もなかったように手毬を受ける。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
その動きは、滑らかだった。
人間の子供の遊びに見える。
けれど、どこかがおかしかった。
速すぎる。
正確すぎる。
失敗する気配がまったくない。
女の子は歌い終えると、手毬を抱えて私を見た。
「お兄さんも」
「私が?」
「うん。いっしょに」
女の子は、手毬を差し出した。
私は受け取るしかなかった。
手毬は軽かった。
けれど、妙に冷たい。
布で作られているはずなのに、濡れた石を持っているような冷たさだった。
「歌って」
「歌?」
「あんたがたどこさ」
私は震える声で歌い始めた。
歌詞を全部覚えているわけではなかった。
ところどころ曖昧だった。
それでも、女の子は嬉しそうに笑っている。
私は手毬をついた。
ぽん。
ぎこちない音だった。
もう一度つく。
ぽん。
歌に合わせて、手を変える。
手毬が浮いている間に、拍手をする。
できた。
少しだけ安心した。
次に、片足を上げる。
足の下をくぐらせようとした。
けれど、手毬は思ったより低く跳ねた。
足に当たり、横へ転がった。
失敗した。
私は息を呑んだ。
女の子は、何も言わなかった。
ただ、にこにこ笑っていた。
「もう一回」
「ああ」
「次は、ちゃんとね」
私は頷いた。
何度か繰り返すうちに、少しだけ慣れてきた。
怖い。
怖いのに、できるだけ失敗しないよう必死になっている自分がいた。
女の子は楽しそうだった。
私がうまくできると、ぱちぱちと手を叩いた。
「お兄さん、上手」
その声だけ聞けば、本当にただの子供だった。
けれど、黒い目が笑っている。
その目を見るたびに、私は手毬を落としそうになった。
しばらく遊んだあと、女の子がふいに言った。
「リサ」
私は顔を上げた。
街灯の影が、また揺れた。
公園墓地の入口の暗がりから、小さな人影が出てきた。
女の子と同じくらいの背丈だった。
髪の長い少女に見える。
けれど、顔に表情がなかった。
泣いているわけでもない。
笑っているわけでもない。
ただ目を開けたまま、こちらへ歩いてくる。
動きもぎこちなかった。
膝や肘が、あとから思い出したように曲がる。
生きている子供にも見えた。
店先に置かれた古いマネキンにも見えた。
その中間の、どちらとも言えないものだった。
「はい、お嬢様」
声は平坦だった。
感情の抑揚がない。
けれど、その声は確かに人間の女の子の声に聞こえた。
リサと呼ばれた少女は、女の子の前に立った。
「リサもやって」
「はい、お嬢様」
「お兄さんが歌ってくれるから、それに合わせてね」
女の子は、私を見た。
「歌って」
私は逆らえなかった。
震える声で、また歌い始めた。
「あんたがたどこさ」
リサが手毬をつく。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
動きは上手かった。
片手を変える。
拍手をする。
またぐ。
回る。
けれど途中で、手毬がわずかにずれた。
リサの手が空を切る。
手毬が地面を転がった。
その瞬間、女の子の顔が変わった。
今までにこにこ笑っていた顔から、表情が抜け落ちた。
そして、次の瞬間、鬼のような顔になった。
「だめ」
女の子の声が、低くなった。
「リサ、だめ」
「申し訳ありません、お嬢様」
リサが頭を下げた。
その声は、さっきまでと同じように平坦だった。
けれど、肩だけが小さく震えていた。
「もう一度だけ、お願いします」
「だめ」
「お嬢様」
「だめ」
女の子は、いつの間にか小さな木槌を持っていた。
どこから出したのか分からなかった。
次の瞬間、それをリサの頭へ振り下ろした。
乾いた音がした。
リサが悲鳴を上げた。
高く、細い声だった。
それは、マネキンが出す音ではなかった。
作り物が壊れる音でもなかった。
痛みに耐えきれない、人間の声だった。
「痛い、痛いです、お嬢様」
リサは地面に倒れながら、何度もそう言った。
「ごめんなさい。もう失敗しません。ごめんなさい」
女の子は答えなかった。
もう一度、木槌を振り下ろす。
乾いた音がした。
リサの悲鳴が、途中で裏返った。
手毬が、ころころと私の足元まで転がってきた。
私は後ずさった。
声が出なかった。
リサの体は、糸の切れた人形のように崩れ落ちていた。
けれど、倒れたあとも小さく震えていた。
死んでいるようにも見える。
まだ生きているようにも見える。
どちらなのか、分からなかった。
女の子は、また私の方を向いた。
その顔は、もう元の無邪気な笑顔に戻っていた。
「大丈夫」
女の子は言った。
「人形だから」
「人形……?」
「うん。だから大丈夫」
何が大丈夫なのか、分からなかった。
リサは地面に倒れたまま、動かない。
いや、よく見ると、指先だけがかすかに動いていた。
女の子はリサの体を足先で少し押した。
まるで邪魔なおもちゃをどけるような仕草だった。
「もっと遊ぼ」
女の子は笑った。
「お兄さんも、失敗しちゃだめだよ」
背中に冷たいものが走った。
私は手毬を握りしめた。
もうやめたい。
帰りたい。
そう思った。
けれど、足が動かなかった。
女の子の黒い目が、私を見ている。
私はまた歌った。
手毬をついた。
失敗しないように。
絶対に失敗しないように。
何度も、何度も。
女の子は楽しそうに手を叩いた。
「上手」
「お兄さん、上手」
「じゃあ、次はお友達」
女の子は振り返った。
「佐藤」
その名前を聞いた瞬間、私の手が止まった。
佐藤。
阿部さんの同僚。
同じ部屋に住んでいたという男。
女の子に声をかけ、そのあと行方不明になった人。
公園墓地の暗がりから、大人の男が出てきた。
背広姿だった。
顔色は青白い。
目は開いている。
けれど、そこに意志のようなものはなかった。
歩いているのに、歩かされているように見えた。
生きて動いているのか。
死んだ体を無理に立たされているのか。
私には、分からなかった。
その男は、ぎこちない足取りで街灯の下まで来ると、女の子の前で立ち止まった。
「佐藤さん……?」
思わず、私は呟いた。
男は反応しなかった。
女の子が手毬を渡す。
「次は、あんたね」
佐藤と呼ばれた男は、ゆっくり頷いた。
「はい、お嬢様」
その声を聞いた瞬間、私は吐き気を覚えた。
声に感情はなかった。
けれど、それは人間の声だった。
人間が、感情だけを抜かれて、言わされているような声だった。
佐藤は手毬をつき始めた。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
動きは鈍かった。
それでも、必死に合わせているように見えた。
私は歌わされた。
あんたがたどこさ。
声が震えて、何度も詰まりそうになった。
佐藤は途中で失敗した。
手毬が指先から外れた。
転がった。
女の子の顔が、また変わった。
「だめ」
佐藤は震えた。
「申し訳ありません」
「だめ」
「もう一度、お願いします」
佐藤の声は、かすれていた。
「今度はできます。だから」
「だめ」
女の子は木槌を振り上げた。
私は目を逸らした。
乾いた音がした。
佐藤の叫び声が夜の坂道に響いた。
それは大人の男の声だった。
喉が裂けるような声だった。
「やめてくれ」
佐藤が言った。
「頼む。やめてくれ。痛い。痛いんだ」
女の子は聞いていなかった。
もう一度、音がした。
佐藤の声が潰れたように途切れた。
もう一度。
もう一度。
何か硬いものが割れるような音が混じった。
私は耳を塞ぎたかった。
けれど、女の子がこちらを見ている気がして、できなかった。
「大丈夫」
女の子は明るく言った。
「人形だから」
佐藤だったものは、街灯の外へ引きずられていった。
誰が引きずったのかは分からない。
暗がりの中に、小さな影がいくつも見えた。
マネキンのように立っているもの。
子供の形をしたもの。
大人の背丈をしたもの。
顔から表情だけが抜け落ちているもの。
壊れた腕をだらりとぶら下げているもの。
どれも人間に見えた。
けれど、人間だとは思いたくなかった。
私はそこで初めて気づいた。
公園墓地の入口の暗がりには、たくさんの影がいた。
みんな、こちらを見ていた。
目があるものもいた。
目がないものもいた。
顔そのものが崩れているものもいた。
それでも、全員がこちらを見ていると分かった。
女の子は何も気にしていないようだった。
「次は、お兄さん」
私は手毬を受け取った。
もう腕が震えていた。
歌う。
つく。
手を変える。
拍手をする。
またぐ。
回る。
何度も繰り返す。
少しでも間違えたら、あの木槌が振り下ろされる。
そう思うと、呼吸がうまくできなかった。
女の子は嬉しそうに笑っている。
「上手」
「お兄さん、上手」
「もっと」
私はもう、自分が何回やったのか分からなかった。
手の感覚が薄れている。
足もふらついていた。
それでも続けた。
続けるしかなかった。
やがて、またぎのところで、手毬が足に当たった。
しまった。
そう思った時には、もう手毬は地面を転がっていた。
女の子が、ぴたりと笑うのをやめた。
私は息を止めた。
「お兄さん」
女の子が言った。
「次に失敗したら、どうなるか分からないよ」
私は何度も頷いた。
「分かった。分かったから」
「もう一回」
「分かった」
手毬を拾う。
手が震えていた。
私は歌った。
声はかすれていた。
手毬をつく。
ぽん。
ぽん。
手を変える。
拍手。
またぐ。
そこで、失敗した。
今度は完全に失敗だった。
手毬は跳ねず、足元で止まった。
女の子の黒い目が、私を見た。
「だめ」
私は逃げようとした。
反射的に、後ろへ走り出そうとした。
その瞬間、右手に激しい痛みが走った。
木槌だった。
女の子が、私の手を叩いていた。
骨まで響くような痛みだった。
「ああっ」
私は叫んだ。
手毬が地面に落ちる。
私はそのまま坂道の方へ逃げようとした。
けれど、足が止まった。
周りに、いた。
小さな影が、いくつも。
マネキンのように立っているもの。
子供のような背丈のもの。
大人のような形をしたもの。
顔のないもの。
壊れた腕をぶら下げているもの。
全員が、こちらを見ていた。
逃げ道はなかった。
「お兄さん」
女の子の声が背後からした。
「だめだよ」
私は振り返れなかった。
「逃げちゃだめ」
手毬の音がした。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
その音が、やけに遠く聞こえた。
次の瞬間、いくつもの小さな手が、私の体に触れた。
冷たかった。
ひどく冷たかった。
私は叫ぼうとした。
けれど、声は出なかった。
耳元で、女の子が笑った。
「お兄さんは、今日から私のお父さんね」
その言葉を最後に、私の記憶は途切れた。




