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夜十時の手毬  作者: サザルト


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5/21

第5話 同じ部屋

 朝になった。


 結局、ほとんど眠れなかった。


 眠っても、あの女の子は出てくる。


 起きていても来る。


 眠っても来る。


 それが分かってしまったせいで、私は布団の上に座ったまま、しばらく動けなかった。


 体は重かった。


 頭の奥がじんじんしている。


 目を閉じると、すぐにあの夢の続きが始まりそうだった。


 だから、横になることもできなかった。


 今日は、管理会社の人に会わなければならない。


 昨日、あの女性は言っていた。


 少し時間をください。


 何か分かれば、必ずお伝えします。


 その言葉だけが、今の私には頼りだった。


 私は顔を洗い、服を着替えた。


 食欲はなかった。


 それでも何か飲まなければと思い、水だけを口に含んだ。


 喉を通る水が、ひどく冷たく感じた。


 部屋を出る前に、窓を見た。


 カーテンは閉まっている。


 窓の鍵もかかっている。


 それなのに、そこに何かがいる気がした。


 私はすぐに目を逸らした。


 時刻は七時を少し過ぎたところだった。


 いつもなら、管理会社の人は七時半から八時頃に来ることが多い。


 昨日の女性が来るとは限らない。


 別の人かもしれない。


 あるいは、今日は誰も来ないかもしれない。


 それでも、部屋で待っているよりはましだった。


 部屋にいると、窓のことばかり考えてしまう。


 窓の向こうにいる女の子のことばかり考えてしまう。


 私は逃げるように部屋を出た。


 一階の入口近くに立ち、道路の方を見ながら待った。


 朝の町は、普通だった。


 車が通る。


 通勤らしい人が歩いていく。


 どこかの家から、洗濯物を干す音が聞こえる。


 そのすべてが、遠いもののように感じた。


 私だけが、夜十時の中に取り残されているようだった。


 軽ワゴン車が通るたびに、私は顔を上げた。


 胸が跳ねた。


 だが、管理会社の車ではなかった。


 七時半を過ぎた。


 まだ来ない。


 七時四十五分。


 まだ来ない。


 八時近くになっても、昨日の女性は現れなかった。


 私は何度も道路を見た。


 何度もスマートフォンの時刻を確認した。


 手の中のスマートフォンが、汗で湿っていた。


 来ない。


 来てくれない。


 昨日、調べると言ってくれたのに。


 何か分かったら伝えると言ってくれたのに。


 もしかすると、調べている途中なのかもしれない。


 今日は別の現場へ行っているだけかもしれない。


 そう考えようとした。


 けれど、悪い考えばかり浮かんでくる。


 あの人も、怖くなって逃げたのではないか。


 私に関わるのをやめたのではないか。


 そう思った時、二階から扉の開く音がした。


 私は反射的に振り返った。


 階段を下りてきたのは、阿部さんだった。


 仕事へ行くところらしく、鞄を持っている。


 私と目が合った瞬間、阿部さんはわずかに顔をしかめた。


 そして、何も言わずに横を通り過ぎようとした。


「阿部さん」


 私は声をかけた。


 阿部さんは足を止めなかった。


「待ってください」


 私は追いかけるように言った。


「お願いします。少しだけでいいんです」


 阿部さんは、それでも歩こうとした。


 私は思わず、その背中に向かって声を張り上げた。


「管理会社の人に聞きました」


 その言葉で、阿部さんの肩がぴくりと動いた。


「阿部さんの同僚が、行方不明になったって」


 阿部さんは、ゆっくり振り返った。


 顔色が変わっていた。


 私は一歩近づいた。


「知ってるんですよね」


 自分でも、声が震えているのが分かった。


「阿部さんは、知ってるんですよね。前にも同じことがあったって」


 阿部さんは黙っていた。


 その沈黙が、肯定に思えた。


「お願いします」


 私は頭を下げた。


「教えてください。何でもいいんです。何か知っているなら、教えてください」


「……仕事なんで」


「このままだと、私もそうなるかもしれないんです」


 私は顔を上げた。


 情けない顔をしていたと思う。


 けれど、もうどう見られてもよかった。


「怖いんです」


 言葉が勝手に出てきた。


「本当に怖いんです。夜になると来るんです。窓を叩くんです。夢の中にも出てくるんです。眠っても逃げられないんです」


 阿部さんの顔が歪んだ。


 聞きたくない。


 そう言いたそうだった。


 それでも私は止まれなかった。


「一言、声をかけただけなんです。子供が夜に一人でいたから、心配になっただけなんです。それなのに、毎晩来るんです。遊ぼうって。お兄さん、あそぼって」


「やめてください」


 阿部さんが小さく言った。


「その話は」


「助けてください」


 私は、ほとんどすがるように言った。


「お願いします。何でもいいんです。何か知っているなら、教えてください。私、もうどうすればいいのか分からないんです」


 阿部さんは目を逸らした。


 その顔には、迷惑そうな色もあった。


 けれど、それ以上に、怯えがあった。


「無視していたのは、悪いと思っています」


 しばらくして、阿部さんは小さく言った。


「でも、俺も怖いんです」


「怖い?」


「関わったら、自分もあいつみたいになるかもしれない」


 阿部さんの声は、かすれていた。


「そう思うと、何も言えなかった」


 私は言葉を失った。


 阿部さんは、私の後ろにあるマンションを見上げた。


「あなたの部屋に、俺の同僚も住んでいました」


 胸の奥が冷たくなった。


「同じ部屋、だったんですか」


「そうです」


 阿部さんは頷いた。


「佐藤ってやつでした」


「佐藤さん」


「人懐っこくて、誰とでもすぐ話せるやつでした。俺とは会社の同期で、この町に来た時も、あいつは何でも楽しそうにしていました。知らない土地でも、飯屋を探したり、近所の人に話しかけたり、そういうのが苦にならないやつだった」


 阿部さんは、少しだけ目を細めた。


 懐かしむようでもあり、苦しむようでもあった。


「優しいやつでもありました。夜に子供が一人でいたら、たぶん放っておけなかったんだと思います」


 私は何も言えなかった。


 それは、私と同じだった。


 私も、子供が一人でいると思った。


 だから、声をかけた。


 夜十時の公園墓地の近くで、手毬をついている和服の女の子。


 そんなものを見て、おかしいと思ったのに。


 それでも、もし本当の子供だったらと思ってしまった。


「あれは、そういうところにつけ込むんだと思います」


 阿部さんが言った。


 その声には、はっきりとした怒りが混じっていた。


「子供を心配する気持ちとか、放っておけない気持ちとか、そういうものに」


「佐藤さんは、どうなったんですか」


「最初は、あなたと同じようなことを言っていました」


 阿部さんは視線を落とした。


「夜、女の子を見た。声をかけた。そしたら部屋に来るようになった。窓を叩く。遊ぼうと言う。そんな話をしていました」


「それで」


「俺は、まともに聞きませんでした」


 阿部さんは自嘲するように笑った。


「怖い話のネタか、寝不足でおかしくなっているんだと思ったんです。仕事も忙しかったし、佐藤も冗談っぽく話すところがあったから」


「でも、本当だった」


「今なら、そう思います」


 阿部さんは拳を握った。


「あいつはだんだん眠れなくなって、仕事でミスをするようになって、最後は会社に来なくなりました。電話にも出ない。部屋を見に行ったら、荷物はそのままで、本人だけいなかった」


「警察は」


「来ました。でも、事件かどうかも分からなかった。鍵も壊れていない。争った跡もない。財布もスマートフォンも一部残っていた。でも本人はいない」


 私は自分の部屋を思い浮かべた。


 鞄。


 服。


 充電器。


 机の上の書類。


 カーテン。


 窓。


 あの女の子。


「私はどうすればいいんですか」


 声が震えた。


「このままだと、私も佐藤さんと同じになりますよね」


 阿部さんは答えなかった。


 その沈黙だけで、十分だった。


「助けてください」


 私は、もう一度言った。


「何でもいいんです。佐藤さんが最後に言っていたこととか、何か手がかりになることがあれば」


「すみません」


 阿部さんは、低い声で言った。


「俺には、助けられません」


「阿部さん」


「本当に申し訳ないと思っています。でも、俺も怖いんです。これ以上関わったら、今度は自分のところにも来るんじゃないかって」


 そう言って、阿部さんは深く頭を下げた。


「すみません」


 それは拒絶だった。


 けれど、冷たい拒絶ではなかった。


 自分も恐怖から逃げるための、必死の拒絶だった。


 だから私は、それ以上、責めることができなかった。


 阿部さんは顔を上げ、逃げるように歩き出そうとした。


「待ってください」


 私は、また呼び止めた。


 阿部さんの足が止まる。


 振り返った顔には、疲れたような色が浮かんでいた。


「まだ、何か」


「これを預かってください」


 私は鞄から封筒を取り出した。


 昨夜、ほとんど眠れないまま書いたものだった。


 この部屋に入ってから何が起きたのか。


 夜十時に、公園墓地へ続く坂道の街灯の下に女の子が現れること。


 その子に声をかけてしまったこと。


 それから毎晩、窓を叩かれるようになったこと。


 夢の中にまで出てくるようになったこと。


 全部、書いたつもりだった。


「もし、明日の朝、私が部屋に戻っていなかったら」


 そう言ってから、自分の声が震えていることに気づいた。


「会社に連絡してください。封筒の中に、会社の番号も書いてあります」


「笠間さん」


「鍵は、開けたままにしておきます。もし私がいなかったら、部屋を見てください。荷物が残っていて、私だけがいなかったら、この手紙を会社の人に渡してください」


 阿部さんは、封筒を見つめたまま動かなかった。


「そういうのは、困ります」


「分かっています」


「俺を巻き込まないでください」


「すみません」


 私は頭を下げた。


「でも、他に頼める人がいないんです」


 阿部さんは、長い間黙っていた。


 その沈黙が、苦しかった。


 断られたら、どうすればいいのか分からなかった。


 私は封筒を持ったまま、頭を下げ続けた。


「お願いします」


 声がかすれた。


「本当に、お願いします。何も残らないのが怖いんです。私がいなくなって、何もなかったことにされるのが怖いんです」


 阿部さんが息を呑む気配がした。


「佐藤さんの時も、そうだったんじゃないですか」


 私は顔を上げられないまま言った。


「誰にも分からないまま、いなくなったんじゃないですか」


「……やめてください」


「すみません」


「そういう言い方は、卑怯ですよ」


「分かっています」


 それでも、封筒を下げることはできなかった。


「でも、お願いします」


 阿部さんは、ひどく嫌そうに顔を歪めた。


 それでも、拒み切れないというように、ゆっくり手を伸ばした。


 封筒を受け取る。


 その手は、少し震えていた。


「渡すだけです」


「はい」


「中は見ません。何かあったら、会社に渡す。それだけです」


「それでいいです」


 阿部さんは封筒を鞄に入れた。


「何も起きないといいですね」


 そう言った声は、少しもそう思っていない声だった。


 管理会社の車は、結局来なかった。


 昨日の女性が来なかったのは、仕事が忙しいからなのか。


 それとも、私のことを調べるためにどこかへ行っているのか。


 そう思いたかった。


 そうでも考えなければ、立っていられなかった。


 私は会社へ向かった。


 その日も、仕事にはほとんど集中できなかった。


 阿部さんの話が、頭から離れない。


 佐藤さん。


 同じ会社員。


 同じように仕事でこの町へ来た。


 同じマンション。


 同じ部屋。


 同じように、女の子に声をかけた。


 そして、いなくなった。


 まるで、自分の少し先の未来を聞かされたようだった。


 昼休み、私はスマートフォンで駅前のホテルを調べた。


 泊まれそうなところはいくつかあった。


 だが、何日も泊まるわけにはいかない。


 会社に理由を聞かれる。


 出張中に会社名義で借りている部屋があるのに、なぜ自費でホテルに泊まるのかと聞かれたら答えられない。


 会社に泊まることも考えた。


 だが、それも無理だった。


 この町には、夜を明かせるようなネットカフェもなさそうだった。


 駅前まで行けば何かあるかもしれない。


 けれど、それも一晩だけだ。


 一晩逃げても、明日が来る。


 明後日が来る。


 いつまで逃げればいいのか分からない。


 管理会社の人は、数日待ってほしいと言った。


 明日になれば、何か分かるかもしれない。


 明日の朝には、きっと来てくれるかもしれない。


 何の根拠もなかった。


 それでも、私はそう考えた。


 そうやって少しでも良い方に考えなければ、とても普通に生活できなかった。


 夕方になった。


 会社を出る時間が近づく。


 私は席に座ったまま、何度も考えた。


 今日はどうする。


 また部屋に戻って、窓を押さえて、夜が明けるのを待つのか。


 それとも、眠るのか。


 眠っても駄目だと分かったばかりだった。


 あの女の子は、夢の中にも出てくる。


 起きていても逃げられない。


 眠っても逃げられない。


 隠れても見つけられる。


 誰も助けてくれない。


 なら、どうすればいい。


 その時、ふと、別の考えが浮かんだ。


 遊んでほしいだけなら。


 遊んでやればいいのではないか。


 馬鹿げていると思った。


 危ないに決まっている。


 阿部さんの同僚も、それでいなくなったのかもしれない。


 管理会社の人も、声をかけるなと言っていた。


 窓を見ないで、返事をしないで、と言っていた。


 それなのに、こちらから会いに行くなんて、どう考えても正気ではない。


 けれど、その考えは消えなかった。


 毎晩、部屋で震えているだけでは何も変わらない。


 逃げても来る。


 眠っても来る。


 夢の中にまで来る。


 誰も助けてくれない。


 なら、もう、こちらから終わらせるしかないのではないか。


 女の子は毎晩言っている。


 お兄さん。


 あそぼ。


 あそぼ。


 それなら。


 一度だけ遊んでやれば、満足するのではないか。


 そうすれば、もう来なくなるのではないか。


 根拠は何もない。


 ただの願望だった。


 分かっていた。


 そんなことで助かる保証など、どこにもない。


 それでも私は、その考えにすがりついた。


 ほかに、すがれるものがなかった。


 会社を出る頃には、腹を決めていた。


 今日は、部屋で待たない。


 十時になる前に、こちらから行く。


 あの女の子がいつも立っている、坂道の上の街灯の下へ。


 行けば終わる。


 遊べば終わる。


 終わってくれ。


 終わってほしい。


 私は何度も、そう自分に言い聞かせた。

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