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夜十時の手毬  作者: サザルト


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4/21

第4話 ほとんど眠れなかった。

 目を閉じるたびに、耳の奥で声がする気がした。


 『また来るね。』


 あの声が、何度も蘇る。


 外が明るくなってからも、私は布団の中でじっとしていた。


 眠れたのか、眠れていないのかも分からない。


 体は重い。


 頭の奥がぼんやりしている。


 それでも、今日はどうしても管理人さんに会わなければならなかった。


 管理人さん、と私は呼んでいる。


 けれど、あの人はマンションに常駐しているわけではない。


 このマンスリーマンションの管理会社の人で、掃除や点検のために時々やって来るだけだった。


 毎日来ることもあれば、二日に一回くらいのこともある。


 しかも、いつも同じ人とは限らない。


 私が見た限りでも、二人くらいの人が交代で来ていた。


 だから、今日あの女性に会えるかどうかは分からなかった。


 それでも待つしかなかった。


 どうせ眠れない。


 部屋にいても、あの窓が目に入るだけだ。


 私は顔を洗い、服を着替えた。


 時計は七時前だった。


 いつも管理会社の人が来るのは、早ければ七時半頃だったと思う。


 私は部屋を出て、一階の入口近くで待つことにした。


 朝の空気は、昨日の夜とはまるで違っていた。


 道路を車が通る。


 遠くで誰かが自転車のベルを鳴らした。


 近所の家の玄関が開く音も聞こえる。


 普通の朝だった。


 普通の町だった。


 それなのに、私は落ち着かなかった。


 何度も道路の方を見た。


 軽ワゴン車が通るたびに、胸が跳ねた。


 七時半を少し過ぎた頃、一台の軽ワゴン車がマンションの前で止まった。


 白い車だった。


 側面に管理会社の名前が小さく入っている。


 運転席から降りてきたのは、この前の女性だった。


 私は思わず、駆け寄りそうになった。


 けれど、あまりに必死に見えたらおかしいと思い、何とか足を止めた。


 女性は掃除道具を降ろそうとして、私に気づいた。


「あら。おはようございます」


「おはようございます」


 自分の声が、かすれていた。


 女性はすぐに私の顔を見て、表情を変えた。


「どうかしましたか。顔色が悪いですよ」


 その言葉で、私はもう黙っていられなくなった。


「あの、この前、嘘をつきました」


「嘘?」


「女の子のことです」


 女性の手が止まった。


 掃除道具を持ったまま、こちらを見る。


 私は唾を飲み込んだ。


「見ただけって言いましたけど、本当は話しかけました。とっさのことで、子供が一人でいたから、どうしたのかと思って」


 女性の顔が強ばった。


「話しかけたんですか?」


「はい」


 私は頭を下げた。


「すみません。あの時は、なんだか言えなくて」


「それで……大丈夫なんですか?」


 女性の声は小さかった。


 大丈夫なわけがなかった。


 私は首を横に振った。


「大丈夫じゃないです。寝られないんです」


 言葉が勝手に出てきた。


「夜になると来るんです。十時になると、窓の外に来て、ずっと叩くんです。遊ぼうって言うんです。昨日なんて、窓が外れるんじゃないかと思うくらい揺れて」


 女性は黙って聞いていた。


 驚いているようでもあり、やはり知っていたようでもあった。


「一言、声をかけただけなんです」


 私は情けない声で言った。


「それだけなのに、なんでこんなことになるんですか?」


 女性は、しばらく答えなかった。


 やがて、ゆっくりと掃除道具を車の横に置いた。


「私も、あの子が何なのかまでは知りません」


「知らないんですか」


「はい。昔から、あの坂の上に出るとは聞いています。夜十時頃、街灯の下で手毬をついている女の子を見たという話は、何度もありました」


 私は息を詰めた。


 やはり、私だけではなかった。


「でも、見ただけなら何も起きないことが多いんです」


「じゃあ、話しかけたら」


「それは……」


 女性は言いにくそうに視線を落とした。


「声をかけたあと、すぐに出ていった人がいます。連絡が取れなくなった人もいます」


「連絡が取れなくなった?」


「はい」


「それって、行方不明ってことですか」


 女性ははっきりとは頷かなかった。


 けれど、否定もしなかった。


「だから言ったんです。声をかけない方がいいって」


「でも、それなら入居した時に教えてくれればよかったじゃないですか」


 責めるつもりはなかった。


 けれど、声には怒りが混じっていたと思う。


 女性は苦しそうな顔をした。


「そうですね。言えばよかったのかもしれません。でも、最初からそんな話をしたら、誰も借りません。それに、見ない人は本当に見ないんです。何年住んでいても、一度も見ない人もいます」


「私は見ました」


「はい」


「声もかけました」


「はい」


 女性は小さく頷いた。


「阿部さんには話しましたか?」


「話しました。でも、何も教えてくれませんでした」


「そうですか」


 女性は、マンションの二階の方を見た。


「あの人も、思い出したくないんだと思います」


「どういうことですか」


「昔、阿部さんの同僚の方も、似たようなことになったそうです」


「同僚?」


「ええ。仕事でこの町に来て、このマンションに入っていた人です。夜、女の子を見たと話していたそうです。そのあと、だんだん様子がおかしくなって、最後は会社にも来なくなったと聞きました」


 私は言葉を失った。


 それは、今の自分と同じだった。


「その人は、どうなったんですか?」


「分かりません」


「分からない?」


「部屋にはいなかったそうです。荷物は残っていたと聞いています」


 朝の空気が、急に冷たくなった気がした。


 荷物は残っていた。


 人だけがいない。


 私は自分の部屋を思い浮かべた。


 鞄。


 服。


 充電器。


 窓。


 あの小さな手形。


「僕はどうすればいいんですか?」


 声が震えた。


「このままだと、僕もその人みたいになるんですか」


 女性はすぐには答えなかった。


 それが、余計に怖かった。


「笠間さん」


 やがて、女性は静かに言った。


「少し、時間をください」


「時間?」


「私も詳しいことを調べてみます。古い記録や、以前ここを担当していた人に聞けるかもしれません。何か分かれば、必ずお伝えします」


「本当ですか」


「はい。だから、数日だけ待ってください」


 数日。


 その言葉に、私は不安になった。


 数日も耐えられるのか。


 今夜も来るかもしれない。


 明日も来るかもしれない。


 それでも、何もないよりはましだった。


 誰かが信じてくれた。


 誰かが調べてくれると言ってくれた。


 それだけで、少しだけ息ができる気がした。


「お願いします」


 私は頭を下げた。


「お願いします。本当に」


 女性は困ったように、けれど真剣な顔で頷いた。


「今日は、できるだけ窓を見ないでください。声が聞こえても、返事をしないでください」


「はい」


「それと、もし何かあったら、緊急連絡先に電話してください。私が出られるとは限りませんが、記録は残ります」


「分かりました」


 それだけ聞いて、私は会社へ向かった。


 その日は、昨日よりはましだった。


 寝不足なのは変わらない。


 頭も重い。


 けれど、管理会社の人が調べてくれる。


 そう思うと、少しだけ落ち着いた。


 仕事のミスも昨日ほどではなかった。


 同僚からはまだ心配されたが、私は何とか一日を乗り切った。


 夕方、会社を出る頃には、強い眠気が来ていた。


 ここ二日、まともに眠れていない。


 歩きながらでも、目を閉じればそのまま倒れそうだった。


 そして私は、ふと思った。


 十時になると、あの女の子は来る。


 それなら、十時になる前に寝てしまえばいいのではないか。


 起きているから怖い。


 窓を見てしまうから怖い。


 声を聞いてしまうから怖い。


 眠ってしまえば、少なくともその間は何も見なくて済む。


 そう考えると、少しだけ気が楽になった。


 私は部屋に帰ると、すぐに風呂に入った。


 夕食も早めに済ませた。


 歯を磨き、明日の準備もした。


 スマートフォンは枕元から離して置いた。


 余計な光を出さないためだった。


 カーテンは閉めた。


 窓の鍵も確認した。


 部屋の明かりを消す。


 時計はまだ八時半だった。


 いつもなら眠れる時間ではない。


 けれど、その日は体が限界だった。


 布団に入ると、すぐに意識が沈んでいった。


 夢を見た。


 坂道にいた。


 夜だった。


 オレンジ色の街灯が、ぽつん、ぽつん、と並んでいる。


 その下に、女の子がいた。


 おかっぱ頭。


 古い和服。


 手毬。


 姿は、これまで見た時とほとんど変わらなかった。


 けれど、顔が違った。


 目が、真っ黒だった。


 白目がなかった。


 黒い玉のような目が、二つ、こちらを見ていた。


「お兄さん」


 女の子が言った。


「あそぼ」


 私は逃げた。


 坂道を下る。


 足がもつれる。


 後ろから、手毬の音が聞こえる。


 ぽん。


 ぽん。


 ぽん。


「待って」


 声は近かった。


「あそぼ」


 私は振り返らなかった。


 走って、走って、どこかの建物の陰に隠れた。


 息を殺した。


 見つかりませんように。


 そう願った。


 けれど、頭上から笑い声がした。


 きゃはははは。


 私はゆっくり見上げた。


 女の子が、宙に浮いていた。


 逆さまではなかった。


 ただ、空中に立っているように浮かんでいた。


 真っ黒な目で、こちらを覗き込んでいる。


「みぃつけた」


 女の子は笑った。


 私はまた逃げた。


 何度も逃げた。


 路地に隠れた。


 建物の影に入った。


 車の後ろにしゃがみ込んだ。


 けれど、どこに隠れても、女の子は見つけた。


 飛んでくる。


 浮かんでくる。


 笑いながら、私を見つける。


「みぃつけた」


「お兄さん」


「あそぼ」


 その繰り返しだった。


 どれくらい逃げたのか分からない。


 夢の中なのに、息が苦しかった。


 足が痛かった。


 喉が焼けるようだった。


 女の子は、ずっと楽しそうだった。


 私が逃げれば逃げるほど、嬉しそうに笑った。


 きゃは。


 きゃはは。


 きゃははは。


 私は叫びながら目を覚ました。


 部屋は暗かった。


 カーテンは閉まっている。


 窓も閉まっている。


 鍵もかかっている。


 けれど、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。


 全身が汗で濡れていた。


 息が荒い。


 心臓が痛いほど鳴っている。


 時計を見る。


 まだ夜中だった。


 眠ったはずだった。


 十時になる前に、あの女の子を見ずに済むように寝たはずだった。


 けれど、寝ても駄目だった。


 起きていても来る。


 眠っても来る。


 私は布団の上で、しばらく動けなかった。


 これが、いつまで続くのだろう。


 そう思った。


 答えはどこにもなかった。

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