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夜十時の手毬  作者: サザルト


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3/21

第3話 そのまま仕事に行った。

 本当なら休みたかった。


 けれど、休む理由をどう説明すればいいのか分からなかった。


 夜中に、窓の外に女の子が浮いていました。


 その子が窓を叩いていました。


 朝になったら、窓ガラスいっぱいに小さな手形が残っていました。


 そんなことを会社に言えるはずがなかった。


 私はいつも通りの時間に部屋を出て、いつも通り会社へ向かった。


 けれど、仕事にならなかった。


 ほとんど眠れていないせいで、頭がぼんやりしている。


 書類の数字を打ち間違える。


 メールの宛先を確認し忘れる。


 上司に呼ばれても、すぐに返事ができない。


 午前中だけで、私は何度も小さなミスをした。


「笠間、大丈夫か?」


 昼前、隣の席の同僚に声をかけられた。


「顔色悪いぞ」


「ああ……ちょっと寝不足で」


「無理すんなよ」


 そう言われても、無理をしない方法が分からなかった。


 眠れない理由を話すことはできない。


 部屋に帰りたくない理由も言えない。


 仕事中も、私は何度もスマートフォンを見た。


 マンスリーマンションの管理会社の番号は、契約書に載っている。


 緊急連絡先もあった。


 水漏れや鍵の故障、不審者などがあれば電話するように、と書かれていた。


 けれど、電話をかけたところで、何と言えばいいのだろう。


 窓の外に女の子が来ます。


 その子は二階の窓の外に浮いています。


 お化けかもしれません。


 そんなことを言って、まともに取り合ってもらえるとは思えなかった。


 そもそも、あのマンションには管理人さんが常駐しているわけではない。


 朝、掃除をしていた人を私は管理人さんと呼んでいたが、実際には管理会社の人だったのだと思う。


 共用廊下や入口の掃除をしに来たり、部屋の点検や書類の確認をしたり、二日に一回くらい見かけるだけだった。


 しかも、いつも同じ人とは限らない。


 私が見た限りでも、二人くらいが交代で来ていた。


 昨日話した人が今日も来るとは限らない。


 電話で呼んだとして、あの人が来てくれる保証もない。


 そんなことばかり考えているうちに、またミスをした。


 午後になる頃には、上司から露骨に心配されるようになっていた。


「今日はもう帰って休んだらどうだ」


 そう言われた時、私は反射的に首を横に振りそうになった。


 帰りたくなかった。


 あの部屋に戻りたくなかった。


 けれど、帰らないならどこへ行くのか。


 ホテルに泊まるか。


 漫画喫茶で夜を明かすか。


 誰かの家に泊めてもらうか。


 どれも現実的ではなかった。


 仕事で来ている町に、親しい知り合いはいない。


 ホテルに泊まる理由を会社に聞かれたら困る。


 自分の部屋があるのに、怖いから帰れませんとは言えない。


 結局、私は定時まで会社にいた。


 何度も時計を見た。


 時刻が進むたびに、胃の奥が重くなっていく。


 帰宅時間が近づいていた。


 今日、部屋に戻ったらどうすればいいのか。


 昨日の女の子は、どうやって私の部屋を見つけたのか。


 私が声をかけたからなのか。


 目が合ったからなのか。


 それとも、最初から分かっていたのか。


 そして、今日も来るのか。


 来るとしたら、何時に来るのか。


 やはり、十時なのか。


 私は頭の中で何度も考えた。


 十時前に電気を消しておけばいいのではないか。


 ベランダにも出ず、窓にも近づかなければいいのではないか。


 カーテンを閉めて、こちらに気づかれていないふりをすれば、諦めてくれるのではないか。


 けれど、昨日はカーテンを閉めていても来た。


 窓を叩かれた。


 声も聞こえた。


 考えれば考えるほど、不安だけが膨らんでいった。


 それでも、帰らないわけにはいかなかった。


 私は会社を出て、マンスリーマンションへ戻った。


 部屋に入ると、まず窓を確認した。


 昨日の手形は、朝に濡れたティッシュで拭いた。


 完全に消えたわけではない。


 光の角度によっては、まだ指の跡が薄く残っているように見えた。


 私はそれを見ないようにして、すぐに風呂へ入った。


 夕食も早めに済ませた。


 食べた気はしなかったが、とにかく胃に何かを入れた。


 明日の準備もした。


 鞄の中身を確認し、着替えを出し、スマートフォンの充電器を差した。


 やるべきことを全部済ませてしまえば、少しは落ち着くと思った。


 けれど、落ち着かなかった。


 時間だけが残った。


 まだ夏とはいえ、夕方を過ぎると、丘へ続く坂道の街灯が一つずつ灯り始める。


 オレンジ色の光が、等間隔に坂道を照らしていく。


 ぽつん。


 ぽつん。


 ぽつん。


 その光の列が、公園墓地の入口の方まで続いていた。


 私はベランダには出なかった。


 部屋の中から、カーテンの隙間越しに外を見ていた。


 女の子はいない。


 街灯の下には、誰もいない。


 私はそれを何度も確認した。


 スマートフォンで動画を流した。


 メールも確認した。


 意味もなくニュースを開いた。


 けれど、何を見ても頭に入ってこない。


 視線はすぐに、坂道の街灯へ戻ってしまう。


 いない。


 まだいない。


 いない。


 そうやって確認しているうちに、時間だけが過ぎていった。


 九時半。


 九時四十分。


 九時五十分。


 私は部屋の明かりをすべて消した。


 天井の照明も、テレビも、台所の小さな明かりも消した。


 部屋に誰もいないように見せたかった。


 もし、あの女の子が明かりを目印に来るのなら、こちらに気づかれないようにしたかった。


 ただ、スマートフォンの光だけは残っていた。


 気づいていなかったわけではない。


 画面の明かりで外から見えるかもしれないとは、少し考えた。


 けれど、ここから街灯までは距離がある。


 まさか、そんな小さな光にすぐ気づくとは思っていなかった。


 それに、もし来るとしても、昨日のようにしばらく時間がかかるはずだと思っていた。


 私はカーテンの隙間から、坂道の街灯を見ていた。


 十時を少し過ぎた頃だった。


 オレンジ色の街灯の下に、小さな影が現れた。


 さっきまで何もなかった場所だった。


 私は息を止めた。


 あの女の子だった。


 遠くて表情までは見えない。


 そう思った瞬間、女の子の顔がこちらを向いた。


 一瞬、目が合った気がした。


 そんなはずはなかった。


 あれだけ離れている。


 こちらは暗い部屋の中にいる。


 窓のそばにいるのだって、外から見えるはずがない。


 けれど、女の子は確かにこちらを見た。


 そして、笑った。


 次の瞬間、女の子が地面を蹴った。


 小さな体が、街灯の下からふわりと浮き上がる。


 一瞬、ただ跳ねただけに見えた。


 けれど違った。


 女の子は空中で半回転し、そのままこちらへ向かって飛んできた。


 私は動けなかった。


 坂道を歩けば、ここまで十分はかかる。


 けれど、空をまっすぐ飛べば、そんな距離は関係なかった。


 女の子は、ものすごい速さで近づいてきた。


 髪を振り乱し、口を大きく開けていた。


 声は聞こえない。


 それでも、何かを叫んでいるのは分かった。


 おぞましくも、恐ろしかった。


 私はそこでようやく、スマートフォンの光を消していなかったことを思い出した。


 画面はまだ、手の中でぼんやり光っていた。


 消さなければ。


 そう思った時には、もう遅かった。


 女の子は、窓の外にいた。


 私は慌ててカーテンを閉めた。


 閉めた瞬間、窓の外に小さな影が落ちた。


 間に合ったのかどうかも分からなかった。


 次の瞬間。


 とん。


 窓が鳴った。


 とん。


 とん。


 とん。


 昨日と同じ音だった。


 小さな手で、窓ガラスを叩く音。


「お兄さん」


 声が聞こえた。


 私は息を詰めた。


 窓ガラスのすぐ向こうからだった。


「ねえ」


 とん。


「あそぼ」


 とん。


「あそぼ」


 とん。


 私はヘッドホンをつけた。


 音楽を流す。


 音量を上げる。


 それでも声が入り込んでくる気がした。


 耳の外ではなく、耳の奥に直接触れられているようだった。


 とん。


 とん。


 とん。


 窓ガラスが震え始めた。


 かた。


 かた。


 かた。


 昨日より強い。


 私は思わず窓に近づいた。


 近づきたくなかった。


 けれど、窓枠が揺れているのが見えた。


 このままでは、鍵が壊れるかもしれない。


 窓ガラスが割れるかもしれない。


 枠ごと外れるかもしれない。


 私は両手で窓枠を押さえた。


 ヘッドホンをしたまま、必死に窓を押さえつける。


 ガタガタガタ、と窓全体が揺れた。


 小さな手で叩いているだけのはずなのに、まるで外から大人が何人も揺さぶっているようだった。


「お兄さん」


 声がする。


「あそぼ」


 ガタガタガタ。


「あけて」


 ガタガタガタ。


「ねえ、あけて」


 私は歯を食いしばった。


 どうして誰も来ないのか。


 こんな音がしているのに。


 夜十時を過ぎたマンションで、窓がこんなに揺れているのに。


 隣の阿部さんは気づかないのか。


 下の階の人は気づかないのか。


 誰かが文句を言いに来てくれればいい。


 うるさいと怒鳴ってくれればいい。


 何でもいい。


 誰かが来てくれれば、この異常な状態に気づいてくれる。


 私一人の妄想ではないと分かってくれる。


 そう思った。


 けれど、誰も来なかった。


 廊下も、隣室も、下の階も、静まり返っていた。


 聞こえているのは、窓が揺れる音だけだった。


 それと、女の子の声。


「あそぼ」


「あそぼ」


「あそぼ」


 私はどれくらいそうしていたのか分からない。


 手のひらが痛くなった。


 腕が震えた。


 足も震えていた。


 それでも、窓枠から手を離せなかった。


 やがて、揺れが少しずつ弱くなった。


 ガタガタという音が、かたかたになり、やがて止まった。


 女の子の声も聞こえなくなった。


 私はしばらく、そのまま窓枠を押さえていた。


 また急に揺れるかもしれないと思ったからだ。


 けれど、何も起きなかった。


 部屋の中には、ヘッドホンから漏れる音だけがあった。


 私はゆっくり手を離した。


 全身から力が抜けた。


 時計を見る。


 午前零時を過ぎていた。


 二時間近く、私は窓を押さえていたことになる。


 ようやく諦めてくれた。


 そう思った。


 私はヘッドホンを外した。


 耳が痛かった。


 音量を上げすぎたせいで、頭の中がじんじんしている。


 そのままベッドに倒れ込んだ。


 眠れるとは思わなかった。


 それでも、横にならずにはいられなかった。


 目を閉じた。


 その瞬間だった。


 耳の奥で、声がした。


「また来るね」


 私は飛び起きた。


 部屋を見回す。


 誰もいない。


 カーテンは閉まっている。


 窓も閉まっている。


 鍵もかかっている。


 それなのに、声は確かに聞こえた。


 近くにいるわけではなかった。


 窓の外からでもなかった。


 もっと内側だった。


 耳の奥に、直接囁かれたようだった。


 また来るね。


 私はその言葉を頭から追い出そうとした。


 けれど、消えなかった。


 朝までは、まだ長い時間があった。


 今日もまた、まともに眠れそうになかった。

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