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夜十時の手毬  作者: サザルト


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2/21

第2話 窓を叩く音

 とん。


 最初は、気のせいだと思った。


 どこかで家具が鳴ったのかもしれない。隣の部屋の生活音かもしれない。古い建物なら、夜中に小さな音くらいする。


 そう自分に言い聞かせて、私は布団の中でスマートフォンを見ていた。


 眠ろうと思っていたのに、眠れなかった。


 管理人さんの言葉が、ずっと頭の中に残っていたからだ。


 あそこにいる子供には、絶対に話しかけないでください。


 本当の子供じゃありません。


 私は、画面を眺めながら、意味のない動画を流していた。テレビもつけていた。部屋の中に音があれば、少しは落ち着くと思った。


 けれど、内容なんて何も頭に入ってこない。


 時計を見る。


 午後十時を少し過ぎていた。


 昨日、あの女の子を見たのも、たしかこのくらいの時間だった。


 その時だった。


 とん。


 また音がした。


 私はスマートフォンを握ったまま、動きを止めた。


 今のは、聞き間違いではなかった。


 窓の方から聞こえた。


 とん。


 軽い音だった。


 強く叩いているわけではない。


 小さな手で、窓ガラスをそっと叩いているような音だった。


 とん。


 とん。


 私はゆっくりと顔を上げた。


 部屋のカーテンは閉めてある。


 その向こうに窓がある。


 そして、窓の外に足場はない。


 ここは二階だ。


 ベランダはあるが、私の部屋の窓の外に人が立てるような場所はない。普通なら、誰かが窓を叩くことなんてできない。


 それなのに。


 とん。


 とん。


 とん。


 音は続いていた。


 私はしばらく迷った。


 見てはいけない。


 そう思った。


 管理人さんは言っていた。


 見ても近づかないでください。


 声もかけないでください。


 こちらを見ているようでも、見ないふりをしてください。


 それでも、見ないわけにはいかなかった。


 このまま音だけを聞き続けている方が、ずっと怖かった。


 私は布団から出た。


 足の裏が床についた瞬間、ひやりとした。


 スマートフォンを握ったまま、ゆっくり窓に近づく。


 とん。


 すぐ近くで音がした。


 私は息を止めた。


 カーテンに指をかける。


 少しだけ開けた。


 窓の外に、女の子がいた。


 私は声を出せなかった。


 昨日、街灯の下にいた女の子だった。


 おかっぱ頭。


 古い和服。


 胸に抱えていたはずの手毬は、今は見えなかった。


 女の子は、窓の外に浮いていた。


 立っているのではない。


 ぶら下がっているのでもない。


 ただ、そこに浮いていた。


 二階の窓の高さに、体をまっすぐこちらへ向けて、宙に浮いていた。


 髪が乱れていた。


 昨夜、街灯の下で見た時は、黒い髪がきれいに揃っていた。けれど今は、髪が顔の横にばらばらと広がっている。風もないのに、髪だけがゆらゆらと揺れていた。


 女の子は笑っていた。


 にこにこ、というより、嬉しくてたまらないという顔だった。


 私と目が合った。


 その瞬間、女の子の口が大きく開いた。


「みぃつけた」


 耳元で言われたように聞こえた。


 窓ガラスを挟んでいるはずなのに、声ははっきり届いた。


 私は一歩後ずさった。


 女の子は、嬉しそうに笑った。


 くすくす。


 くすくす。


 小さな笑い声が聞こえる。


 そして、また窓を叩いた。


 とん。


「お兄さん」


 とん。


「あそぼ」


 とん。


「ねえ」


 とん。


「あそぼ」


 女の子は、こちらを見たまま言った。


 声は幼い。


 けれど、その声を聞いていると、腹の底が冷えていくようだった。


 私は慌ててカーテンを閉めた。


 勢いよく閉めたせいで、カーテンレールがしゃっと鳴った。


 そのまま窓の鍵を確認した。


 鍵はかかっていた。


 それでも、私はもう一度、強く押し込むようにして鍵をかけ直した。


 手が震えていた。


 カーテンの向こうで、また音がする。


 とん。


 とん。


 とん。


 私は耳を塞ぎたくなった。


 でも、耳を塞いでも聞こえる気がした。


 私はスマートフォンを握りしめ、友人とのメッセージアプリを開いた。


 とにかく、誰かに言いたかった。


 自分一人で抱えていたら、この恐怖に押し潰されると思った。


『今、変なことが起きてる』


 そう打った。


 すぐに返事が来た。


『なに?』


『窓の外に女の子がいる』


 送ってから、自分でもおかしな文章だと思った。


 案の定、友人は笑うような返事を寄こした。


『まだ夢見るには早いぞ』


『女の子が遊びに来たってこと?』


『お前、いつからそういう話するキャラになったんだよ』


 違う。


 そうじゃない。


 私は何度も打った。


『本当にいる』


『二階の窓の外』


『浮いてる』


『昨日、墓地のところで見た子』


『さっきから窓を叩いてる』


 返ってくるのは、冗談混じりの返事ばかりだった。


『動画撮れよ』


『怖い話始まった?』


『寝ぼけてんじゃないの』


『てか窓の外に女とか普通に事件だろ』


 誰も本気にしていなかった。


 当たり前だ。


 私だって、友人から同じことを言われたら信じない。


 けれど、こちらにとっては冗談ではなかった。


 私はちらりと窓の方を見た。


 カーテンがわずかに揺れていた。


 窓ガラスが、かすかに震えている。


 かた。


 かた。


 かた。


 外で、まだ叩かれている。


 音は小さい。


 けれど、確実に続いていた。


 私はヘッドホンをつけた。


 動画の音量を上げる。


 それでも足りなかった。


 さらに上げた。


 音量を最大に近づけて、耳の中を人工的な音で埋めた。


 ヘッドホンは外せなかった。


 外した瞬間、あの声が聞こえる気がした。


 お兄さん。


 あそぼ。


 みぃつけた。


 私は布団に潜り込んだ。


 頭からすっぽりかぶり、スマートフォンの画面だけを見つめた。


 友人たちからは、まだ軽い調子のメッセージが届いていた。


『ガチで怖がってる?』


『盛りすぎだろ』


『明日それネタにしろよ』


 私は返事を打つ気力もなくなった。


 布団の中で、体を丸めた。


 時計を見る。


 午後十時だった。


 昨日、あの女の子を見た時間。


 今日、窓を叩かれている時間。


 同じ時間だった。


 私は震えながら、朝まで起きているつもりだった。


 寝てはいけないと思った。


 けれど、恐怖と緊張は、ずっと続くものではなかった。


 ヘッドホンから流れる音。


 スマートフォンの光。


 布団の中の息苦しさ。


 それらが混ざって、いつの間にか意識がぼやけていった。


 気づいた時には、朝だった。


 時計は六時を少し過ぎていた。


 部屋の中は薄明るい。


 ヘッドホンは片耳から外れていた。


 スマートフォンは布団の横に落ちている。


 私はしばらく動けなかった。


 昨日のことが、夢だったのではないかと思った。


 そうであってほしかった。


 しかし、カーテンを見ると、胸の奥が重くなった。


 私はゆっくり起き上がった。


 窓に近づく。


 カーテンを開けるか迷った。


 開けなければ、何も見なくて済む。


 けれど、確認しなければ、もっと怖い。


 私は息を止めて、カーテンを開けた。


 窓ガラスに、手形がついていた。


 小さな手形だった。


 一つではない。


 二つでもない。


 窓ガラスいっぱいに、小さな手の跡が張り付いていた。


 白く乾いたような跡。


 指の形。


 掌の形。


 それが何度も何度も、内側を覗き込むように残っている。


 私は叫びそうになった。


 声を出しかけて、慌てて口を押さえた。


 誰かに聞こえたら困る。


 でも、誰かに聞いてほしかった。


 管理人さんには、話しかけていないと嘘をついた。


 いまさら、本当は話しかけましたとは言いづらい。


 なら、阿部さんにもう一度聞くしかない。


 阿部さんは、何か知っている。


 昨日の反応は、明らかにそうだった。


 しかし、今はまだ朝六時過ぎだ。


 いくら何でも早すぎる。


 私は台所で水を飲んだ。


 何か食べようと思ったが、喉を通らなかった。


 パンを一枚出して、半分も食べられなかった。


 時計を見る。


 六時半。


 まだ早い。


 私は椅子に座って、何度も同じことを考えた。


 あれは何なのか。


 どうして私の部屋に来たのか。


 なぜ窓の外に浮いていたのか。


 どうすればいいのか。


 管理人さんに言うべきか。


 でも、嘘をついたことを責められるかもしれない。


 阿部さんに聞くべきか。


 でも、昨日の様子を見る限り、話したがらないかもしれない。


 それでも、聞くしかなかった。


 私は部屋の中で耳を澄ませた。


 隣の二〇五号室から物音がする。


 しばらくして、扉の開く音がした。


 私は反射的に立ち上がった。


 自分の部屋の扉を開け、廊下に出る。


 阿部さんが、鍵をかけようとしているところだった。


「阿部さん」


 私が声をかけると、阿部さんはびくりと肩を揺らした。


 振り返った顔には、明らかに迷惑そうな色が浮かんでいた。


「笠間さん。どうかしたんですか?」


 そこで私は、初めて自分がかなりひどい顔をしていることに気づいた。


 寝不足で、髪も乱れている。


 けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。


「昨日のことなんです。もう一度、聞きたいんです」


「昨日?」


「公園墓地の、女の子のことです」


 阿部さんの表情が一瞬で変わった。


 今度は驚きではなかった。


 不機嫌そうな顔だった。


「朝から、そういう話はやめてくれませんか?」


「お願いします。教えてください」


 私は頭を下げた。


「本当に困ってるんです」


「困ってるって、あなた、見ただけなんでしょう?」


 阿部さんは声を低くした。


「見ただけなら、普通は問題にならないはずです」


 私は息を呑んだ。


 やはり、何かある。


 見ただけなら問題にならない。


 つまり、それ以外なら問題になるということだ。


 阿部さんは私を見た。


「話しかけたり、してないですよね」


 私は黙った。


 それだけで、阿部さんには伝わったのだと思う。


 阿部さんの顔から、血の気が引いた。


「……話しかけたんですか?」


「すみません」


 私は小さく言った。


「昨日、近くまで行って、声をかけました。その子、何も答えなくて、墓地の方に走って行って。それで昨日の夜、部屋に来たんです」


「やめてください」


 阿部さんが、はっきりと言った。


「その話、私は聞きたくありません」


「でも」


「私に話しかけないでください」


 その言い方は、冷たかった。


 怒っているというより、巻き込まれることを本気で恐れているようだった。


「すみません。仕事に行きます」


「阿部さん、お願いします。何でもいいんです。あれが何なのかだけでも」


「知りません」


 阿部さんはそう言って、私から目を逸らした。


「知っていても、言いません」


 そして、階段の方へ早足で歩いていった。


 私は廊下に一人残された。


 追いかけることはできなかった。


 足が動かなかった。


 朝の廊下は明るい。


 外からは車の音も聞こえている。


 昨日の夜のような暗さはない。


 それなのに、私は寒かった。


 窓ガラスについた小さな手形。


 宙に浮いていた女の子。


 嬉しそうな声。


 みぃつけた。


 お兄さん、あそぼ。


 私は、いったい何に話しかけてしまったのだろう。


 そんなことを考えながら、しばらくその場から動けなかった。

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