第2話 窓を叩く音
とん。
最初は、気のせいだと思った。
どこかで家具が鳴ったのかもしれない。隣の部屋の生活音かもしれない。古い建物なら、夜中に小さな音くらいする。
そう自分に言い聞かせて、私は布団の中でスマートフォンを見ていた。
眠ろうと思っていたのに、眠れなかった。
管理人さんの言葉が、ずっと頭の中に残っていたからだ。
あそこにいる子供には、絶対に話しかけないでください。
本当の子供じゃありません。
私は、画面を眺めながら、意味のない動画を流していた。テレビもつけていた。部屋の中に音があれば、少しは落ち着くと思った。
けれど、内容なんて何も頭に入ってこない。
時計を見る。
午後十時を少し過ぎていた。
昨日、あの女の子を見たのも、たしかこのくらいの時間だった。
その時だった。
とん。
また音がした。
私はスマートフォンを握ったまま、動きを止めた。
今のは、聞き間違いではなかった。
窓の方から聞こえた。
とん。
軽い音だった。
強く叩いているわけではない。
小さな手で、窓ガラスをそっと叩いているような音だった。
とん。
とん。
私はゆっくりと顔を上げた。
部屋のカーテンは閉めてある。
その向こうに窓がある。
そして、窓の外に足場はない。
ここは二階だ。
ベランダはあるが、私の部屋の窓の外に人が立てるような場所はない。普通なら、誰かが窓を叩くことなんてできない。
それなのに。
とん。
とん。
とん。
音は続いていた。
私はしばらく迷った。
見てはいけない。
そう思った。
管理人さんは言っていた。
見ても近づかないでください。
声もかけないでください。
こちらを見ているようでも、見ないふりをしてください。
それでも、見ないわけにはいかなかった。
このまま音だけを聞き続けている方が、ずっと怖かった。
私は布団から出た。
足の裏が床についた瞬間、ひやりとした。
スマートフォンを握ったまま、ゆっくり窓に近づく。
とん。
すぐ近くで音がした。
私は息を止めた。
カーテンに指をかける。
少しだけ開けた。
窓の外に、女の子がいた。
私は声を出せなかった。
昨日、街灯の下にいた女の子だった。
おかっぱ頭。
古い和服。
胸に抱えていたはずの手毬は、今は見えなかった。
女の子は、窓の外に浮いていた。
立っているのではない。
ぶら下がっているのでもない。
ただ、そこに浮いていた。
二階の窓の高さに、体をまっすぐこちらへ向けて、宙に浮いていた。
髪が乱れていた。
昨夜、街灯の下で見た時は、黒い髪がきれいに揃っていた。けれど今は、髪が顔の横にばらばらと広がっている。風もないのに、髪だけがゆらゆらと揺れていた。
女の子は笑っていた。
にこにこ、というより、嬉しくてたまらないという顔だった。
私と目が合った。
その瞬間、女の子の口が大きく開いた。
「みぃつけた」
耳元で言われたように聞こえた。
窓ガラスを挟んでいるはずなのに、声ははっきり届いた。
私は一歩後ずさった。
女の子は、嬉しそうに笑った。
くすくす。
くすくす。
小さな笑い声が聞こえる。
そして、また窓を叩いた。
とん。
「お兄さん」
とん。
「あそぼ」
とん。
「ねえ」
とん。
「あそぼ」
女の子は、こちらを見たまま言った。
声は幼い。
けれど、その声を聞いていると、腹の底が冷えていくようだった。
私は慌ててカーテンを閉めた。
勢いよく閉めたせいで、カーテンレールがしゃっと鳴った。
そのまま窓の鍵を確認した。
鍵はかかっていた。
それでも、私はもう一度、強く押し込むようにして鍵をかけ直した。
手が震えていた。
カーテンの向こうで、また音がする。
とん。
とん。
とん。
私は耳を塞ぎたくなった。
でも、耳を塞いでも聞こえる気がした。
私はスマートフォンを握りしめ、友人とのメッセージアプリを開いた。
とにかく、誰かに言いたかった。
自分一人で抱えていたら、この恐怖に押し潰されると思った。
『今、変なことが起きてる』
そう打った。
すぐに返事が来た。
『なに?』
『窓の外に女の子がいる』
送ってから、自分でもおかしな文章だと思った。
案の定、友人は笑うような返事を寄こした。
『まだ夢見るには早いぞ』
『女の子が遊びに来たってこと?』
『お前、いつからそういう話するキャラになったんだよ』
違う。
そうじゃない。
私は何度も打った。
『本当にいる』
『二階の窓の外』
『浮いてる』
『昨日、墓地のところで見た子』
『さっきから窓を叩いてる』
返ってくるのは、冗談混じりの返事ばかりだった。
『動画撮れよ』
『怖い話始まった?』
『寝ぼけてんじゃないの』
『てか窓の外に女とか普通に事件だろ』
誰も本気にしていなかった。
当たり前だ。
私だって、友人から同じことを言われたら信じない。
けれど、こちらにとっては冗談ではなかった。
私はちらりと窓の方を見た。
カーテンがわずかに揺れていた。
窓ガラスが、かすかに震えている。
かた。
かた。
かた。
外で、まだ叩かれている。
音は小さい。
けれど、確実に続いていた。
私はヘッドホンをつけた。
動画の音量を上げる。
それでも足りなかった。
さらに上げた。
音量を最大に近づけて、耳の中を人工的な音で埋めた。
ヘッドホンは外せなかった。
外した瞬間、あの声が聞こえる気がした。
お兄さん。
あそぼ。
みぃつけた。
私は布団に潜り込んだ。
頭からすっぽりかぶり、スマートフォンの画面だけを見つめた。
友人たちからは、まだ軽い調子のメッセージが届いていた。
『ガチで怖がってる?』
『盛りすぎだろ』
『明日それネタにしろよ』
私は返事を打つ気力もなくなった。
布団の中で、体を丸めた。
時計を見る。
午後十時だった。
昨日、あの女の子を見た時間。
今日、窓を叩かれている時間。
同じ時間だった。
私は震えながら、朝まで起きているつもりだった。
寝てはいけないと思った。
けれど、恐怖と緊張は、ずっと続くものではなかった。
ヘッドホンから流れる音。
スマートフォンの光。
布団の中の息苦しさ。
それらが混ざって、いつの間にか意識がぼやけていった。
気づいた時には、朝だった。
時計は六時を少し過ぎていた。
部屋の中は薄明るい。
ヘッドホンは片耳から外れていた。
スマートフォンは布団の横に落ちている。
私はしばらく動けなかった。
昨日のことが、夢だったのではないかと思った。
そうであってほしかった。
しかし、カーテンを見ると、胸の奥が重くなった。
私はゆっくり起き上がった。
窓に近づく。
カーテンを開けるか迷った。
開けなければ、何も見なくて済む。
けれど、確認しなければ、もっと怖い。
私は息を止めて、カーテンを開けた。
窓ガラスに、手形がついていた。
小さな手形だった。
一つではない。
二つでもない。
窓ガラスいっぱいに、小さな手の跡が張り付いていた。
白く乾いたような跡。
指の形。
掌の形。
それが何度も何度も、内側を覗き込むように残っている。
私は叫びそうになった。
声を出しかけて、慌てて口を押さえた。
誰かに聞こえたら困る。
でも、誰かに聞いてほしかった。
管理人さんには、話しかけていないと嘘をついた。
いまさら、本当は話しかけましたとは言いづらい。
なら、阿部さんにもう一度聞くしかない。
阿部さんは、何か知っている。
昨日の反応は、明らかにそうだった。
しかし、今はまだ朝六時過ぎだ。
いくら何でも早すぎる。
私は台所で水を飲んだ。
何か食べようと思ったが、喉を通らなかった。
パンを一枚出して、半分も食べられなかった。
時計を見る。
六時半。
まだ早い。
私は椅子に座って、何度も同じことを考えた。
あれは何なのか。
どうして私の部屋に来たのか。
なぜ窓の外に浮いていたのか。
どうすればいいのか。
管理人さんに言うべきか。
でも、嘘をついたことを責められるかもしれない。
阿部さんに聞くべきか。
でも、昨日の様子を見る限り、話したがらないかもしれない。
それでも、聞くしかなかった。
私は部屋の中で耳を澄ませた。
隣の二〇五号室から物音がする。
しばらくして、扉の開く音がした。
私は反射的に立ち上がった。
自分の部屋の扉を開け、廊下に出る。
阿部さんが、鍵をかけようとしているところだった。
「阿部さん」
私が声をかけると、阿部さんはびくりと肩を揺らした。
振り返った顔には、明らかに迷惑そうな色が浮かんでいた。
「笠間さん。どうかしたんですか?」
そこで私は、初めて自分がかなりひどい顔をしていることに気づいた。
寝不足で、髪も乱れている。
けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
「昨日のことなんです。もう一度、聞きたいんです」
「昨日?」
「公園墓地の、女の子のことです」
阿部さんの表情が一瞬で変わった。
今度は驚きではなかった。
不機嫌そうな顔だった。
「朝から、そういう話はやめてくれませんか?」
「お願いします。教えてください」
私は頭を下げた。
「本当に困ってるんです」
「困ってるって、あなた、見ただけなんでしょう?」
阿部さんは声を低くした。
「見ただけなら、普通は問題にならないはずです」
私は息を呑んだ。
やはり、何かある。
見ただけなら問題にならない。
つまり、それ以外なら問題になるということだ。
阿部さんは私を見た。
「話しかけたり、してないですよね」
私は黙った。
それだけで、阿部さんには伝わったのだと思う。
阿部さんの顔から、血の気が引いた。
「……話しかけたんですか?」
「すみません」
私は小さく言った。
「昨日、近くまで行って、声をかけました。その子、何も答えなくて、墓地の方に走って行って。それで昨日の夜、部屋に来たんです」
「やめてください」
阿部さんが、はっきりと言った。
「その話、私は聞きたくありません」
「でも」
「私に話しかけないでください」
その言い方は、冷たかった。
怒っているというより、巻き込まれることを本気で恐れているようだった。
「すみません。仕事に行きます」
「阿部さん、お願いします。何でもいいんです。あれが何なのかだけでも」
「知りません」
阿部さんはそう言って、私から目を逸らした。
「知っていても、言いません」
そして、階段の方へ早足で歩いていった。
私は廊下に一人残された。
追いかけることはできなかった。
足が動かなかった。
朝の廊下は明るい。
外からは車の音も聞こえている。
昨日の夜のような暗さはない。
それなのに、私は寒かった。
窓ガラスについた小さな手形。
宙に浮いていた女の子。
嬉しそうな声。
みぃつけた。
お兄さん、あそぼ。
私は、いったい何に話しかけてしまったのだろう。
そんなことを考えながら、しばらくその場から動けなかった。




