第1話 手毬の音
この町に来て、一週間ほど経った頃のことだった。
私は仕事の都合で、太平洋側にある海沿いの町に来ていた。
人口は五万人ほどだと聞いた。大きすぎるわけでもなく、小さすぎるわけでもない。駅前にはそれなりに店があり、昼間は車も人も通る。けれど夜になると、町全体が急に静かになった。
私が借りていたのは、マンスリーマンションの二階の一室だった。
マンションの裏手には、少し離れたところに小高い丘がある。その丘の上は公園墓地になっていた。墓地と言っても、昼間は暗い場所ではない。広く整備されていて、ベンチや植え込みもあり、近所の人が散歩をするような場所だった。
ただ、夜は別だった。
昼間は憩いの場に見えるそこも、日が落ちると急に人の気配が消える。
私の部屋を出て階段を下り、建物を出て左へ行くと、ゆるやかな坂道がある。坂と言うより、長いスロープのような道だった。その道をまっすぐ上っていくと、公園墓地のある丘のそばへ出る。
道は墓地に行くためだけのものではない。そのまま丘を越えれば、向こう側の地区にも抜けられる。だから車が通ることもあるにはある。
けれど夜になると、その道もほとんど使われなくなる。
街灯だけが、ぽつん、ぽつん、と並んでいた。
オレンジ色の光だった。
私の部屋の奥にあるベランダからは、その坂道がよく見えた。ちょうど部屋と並行するように、ゆるやかに上っていく道が伸びていて、その先に公園墓地の入口付近の街灯が見える。
夜になると、部屋の明かりを消していても、そのオレンジ色の光だけは見えた。
最初は、何とも思っていなかった。
知らない町に来て、知らない部屋で暮らすことになった。仕事にもまだ慣れていない。夜、なんとなくベランダに出て、外を見ることくらいはあった。
その日も、そうだった。
時刻は夜の十時頃だったと思う。
そろそろ寝ようかと思いながら、私はベランダに出た。
坂道の上の方にある街灯が、いつも通り点いていた。
その下に、何かがいた。
最初は、ただの黒い影に見えた。
街灯の下で、小さな影が動いていた。
こんな時間に何かいるのか。
そう思ったが、私はすぐには深く考えなかった。
丘の向こう側から来た誰かかもしれない。あるいは、野良猫か何かかもしれない。自然も豊かだし、何かしらいてもおかしくない。それにあの道は墓地へ行くためだけの道ではないから、車で誰かが来ている可能性もあった。
目には入るが、距離があるので、音までは聞こえなかった。
ただ、オレンジ色の街灯の下で、小さな影が何かをしているのが見えるだけだった。
私はしばらく眺めていたが、やがて部屋へ戻った。
少し気にはなった。
けれど、わざわざ見に行くほどのことではないと思った。
次の日。
また同じ時間だった。
仕事から帰って、風呂に入り、簡単に夕食を済ませた。スマートフォンを見ながらだらだらしているうちに、また夜十時を過ぎていた。
そろそろ寝ようと思った時、ふと昨日のことを思い出した。
私はベランダに出た。
オレンジ色の街灯が見えた。
その下に、今度は子供がいた。
昨日と同じ場所だった。
今日は、はっきりと見えた。
子供は、一人で遊んでいた。
手に何かを持っている。
丸いものだった。
手毬のように見えた。
その子は、街灯の下で手毬をついているようだった。
もちろん、ここから音は聞こえない。
けれど、手を上下に動かしている姿は見える。
丸いものが、足元と手元の間を行き来しているのも見えた。
こんな時間に、あんな場所で、子供が一人で手毬をついている。
さすがにおかしい。
私はしばらく迷った。
見なかったことにして寝ることもできた。
しかし、もし本当に子供が一人でいるのなら、放っておくのも気分が悪かった。親とはぐれたのかもしれない。家に帰れなくなっているのかもしれない。
そう考えて、私は上着を羽織った。
部屋を出て、マンションの外へ出る。
夜の空気は少し湿っていた。海が近いせいか、風にかすかな潮の匂いが混じっている。
マンションの前の道を左に進むと、坂道の入口がある。
私はそこから、ゆっくりと上り始めた。
歩いてみると、ベランダから見ていたよりも長い坂だった。
急ではない。けれど、だらだらと続く。街灯の明かりはあるが、光と光の間は暗い。丘の上に近づくにつれて、町の音が少しずつ遠くなっていく気がした。
しばらく歩いたところで、音が聞こえた。
ぽん。
小さな音だった。
私は足を止めた。
ぽん。
また聞こえた。
手毬が地面を打つ音だった。
ベランダから見ていた時には聞こえなかった音が、坂を上るにつれて、少しずつはっきりしてくる。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
その音は、オレンジ色の街灯の下から聞こえていた。
十分ほど歩いた頃、例の街灯が近づいてきた。
女の子がいた。
やはり、一人だった。
年は七つか八つくらいに見えた。
おかっぱ頭の女の子だった。黒い髪が、街灯の光を受けてつやつやしている。顔立ちは整っていて、普通に見れば可愛い子だったと思う。
ただ、服装がおかしかった。
和服を着ていた。
今の子供が普段着るようなものではない。古い写真に写っているような、どこか時代がかった着物だった。
女の子は手毬をついていた。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
近づくと、その音ははっきり聞こえた。
手毬が地面を打つ音。
小さな手が、それを受け止める音。
何度も、何度も、同じ調子で繰り返される。
私は足を止めた。
声をかけるべきか迷った。
迷ったが、結局、放っておけなかった。
「あの」
女の子の手が止まった。
手毬が、両手の中に収まった。
「こんな時間に、どうしたの?」
女の子はゆっくり振り返った。
正面から見ると、やはり綺麗な顔をしていた。
ただ、表情が妙だった。
こちらを見ているのに、驚いた様子がない。怖がっている様子もない。まるで最初から私が来ることを知っていたみたいに、にこにこと笑っていた。
「お父さんかお母さんは。近くにいるの?」
女の子は答えなかった。
ただ笑っている。
「家、分かる? 送ろうか」
それでも、女の子は何も言わなかった。
私の声だけが、夜の坂道に落ちた。
女の子は手毬を胸に抱えたまま、少しだけ首を傾げた。
そして次の瞬間、くるりと背を向けた。
「あ、ちょっと」
女の子は走り出した。
街灯の光から外れ、暗い方へ向かっていく。
その先は、公園墓地の入口に続く道だった。
私は慌てて追いかけた。
けれど、女の子の姿はすぐに見えなくなった。
そんなに速く走ったようには見えなかった。
それなのに、二つ先の街灯まで来た時には、もうどこにもいなかった。
墓地の入口は暗かった。
中には入れなかった。
入って探すべきだとも思ったが、夜の墓地に一人で入る気にはなれなかった。
私はしばらくその場に立っていた。
耳を澄ませた。
手毬の音は、もう聞こえなかった。
だけど、気のせいだろうか。
暗い墓地の方から、女の子の声が聞こえた気がした。
「みぃつけた」
結局、その日はそのまま部屋に戻った。
何か変なことをしてしまったのかもしれない。
女の子を怖がらせたのかもしれない。
そう思ったが、どう考えても、あの時間にあんな場所で一人で遊んでいる方がおかしかった。
翌朝、私は隣の部屋の阿部さんに会った。
阿部さんは、私より少し年上の男性で、このマンスリーマンションにしばらく住んでいるらしかった。挨拶をする程度の付き合いだったが、人当たりは悪くなかった。
私は軽い気持ちで話しかけた。
「昨日、ちょっと変なことがあったんですよ」
阿部さんは鍵を閉めながら、こちらを見た。
「変なこと?」
「夜、上の公園墓地の方で、子供を見たんです。女の子が一人で遊んでて」
その瞬間、阿部さんの顔色が変わった。
ほんの少しだったが、分かった。
驚いたというより、怯えたような顔だった。
「……子供、ですか」
「はい。手毬みたいなのをついてました。こんな時間に何してるんだろうと思って」
阿部さんは口を開きかけた。
けれど、すぐに閉じた。
それから、無理に笑ったような顔をした。
「そうですか。まあ、この辺、夜は暗いですからね。見間違いかもしれませんよ」
「でも、けっこう近くまで行ったんですけど」
そう言った途端、阿部さんは視線を逸らした。
「すみません、仕事なんで」
それだけ言うと、阿部さんは逃げるように階段を下りていった。
私は廊下に残された。
変だった。
見間違いと言うなら、もっと普通に笑えばいい。あの反応は、明らかに何かを知っている顔だった。
すると、階段の下から掃除道具の音が聞こえた。
管理人さんだった。
このマンションの管理人は、朝になると共用廊下や入口の周りを掃除していることが多い。私はちょうどいいと思い、階段を下りて声をかけた。
「すみません」
管理人さんが顔を上げた。
「はい?」
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど。上の公園墓地の方って、夜に子供が遊んでることありますか」
管理人さんの手が止まった。
箒の先が、床に触れたまま動かなくなる。
「子供?」
「はい。女の子です。おかっぱで、手毬みたいなのを持ってて」
管理人さんの顔が、みるみる強ばっていった。
私はそれを見て、背中が冷たくなった。
「あの」
管理人さんは、私の言葉を遮るように言った。
「その子に、話しかけてないでしょうね」
声が低かった。
怒っているわけではなかった。
それよりも、心配しているような、怯えているような声だった。
私はとっさに嘘をついた。
「いえ。見ただけです」
本当は話しかけた。
近くまで行った。
どうしたのかと聞いた。
親はいないのかとも聞いた。
けれど、そんなことを言える雰囲気ではなかった。
管理人さんは、ほっとしたように息を吐いた。
「ならいいんです」
「何かあるんですか」
「いいですか」
管理人さんは、私の質問には答えなかった。
ただ、真剣な顔でこちらを見た。
「あそこにいる子供には、絶対に話しかけないでください」
「でも、もし本当に子供だったら」
「本当の子供じゃありません」
即座にそう言われて、私は黙った。
管理人さんは、言いすぎたと思ったのか、すぐに視線を落とした。
「とにかく、見ても近づかないでください。声もかけないでください。こちらを見ているようでも、見ないふりをしてください」
「……分かりました」
「お願いします。本当に」
そう言って、管理人さんはまた掃除を始めた。
それ以上、何も聞けなかった。
私は仕事に向かった。
だが、その日はまったく集中できなかった。
パソコンの画面を見ても、頭に入ってこない。
昨日の女の子の顔が何度も浮かんだ。
おかっぱの黒い髪。
古い和服。
胸に抱えた手毬。
にこにこと笑っている顔。
そして、管理人さんの言葉。
本当の子供じゃありません。
では、何なのか。
あそこに出る子供は、いったい何なのか。
私は定時になると、逃げるように帰った。
部屋に戻ってから、ベランダには出なかった。
いつもなら何となく外を見る。丘の上の街灯が点いているかどうかを見る。
でも、その日は見なかった。
見たら、また女の子がいる気がした。
それに、もし目が合ったらどうなるのか分からなかった。
私は早めに風呂に入り、夕食も適当に済ませた。
時計を見ると、まだ九時半だった。
いつもよりずっと早い。
それでも、もう寝てしまおうと思った。
布団に入って、部屋の明かりを消した。
カーテンは閉めたままだった。
外の街灯の光が、布の隙間からほんの少しだけ入ってきていた。
私は目を閉じた。
眠れなかった。
管理人さんの声が耳に残っていた。
絶対に話しかけないでください。
私は話しかけてしまった。
その事実が、胸の奥で重く沈んでいた。
どれくらい経ったのか分からない。
うとうとしかけた頃だった。
音がした。
とん。
私は目を開けた。
とん。
軽い音だった。
大人が叩くような音ではない。
小さな手で、そっと叩いているような音だった。
とん。
とん。
音は、窓の方から聞こえていた。
私の部屋は二階だった。
窓の外に、人が立てる場所なんてない。
それでも。
とん。
とん。
とん。
誰かが、窓を叩いていた。




