第10話 親子じゃない
その日の仕事は、ほとんど手につかなかった。
阿部は何度も時計を見た。
田中さんは、もう始まっている。
そう思うと、仕事中でも二〇四号室のことばかり考えてしまった。
夢の中で、小鞠という女の子を見た。
その隣に、笠間さんらしき男がいた。
田中さんは、それをただの変な夢だと思っていた。
けれど阿部には、もうそうは思えなかった。
笠間さんは、あちら側にいる。
佐藤も、きっとそうなのだろう。
田中さんも取り込まれたら、同じことになるのかもしれない。
そう考えるだけで、胃の奥が重くなった。
今度こそ、助けなければならない。
佐藤の時は、何もできなかった。
笠間さんの時は、怖くて何もしてやれなかった。
今度も同じように見捨てるわけにはいかない。
仕事を終えると、阿部はまっすぐマンションへ戻った。
夕方だった。
空はまだ明るいが、日差しは少し弱くなっていた。
夏の終わりが近づいている。
けれど、あの坂の上の街灯は、時間が来ればまた灯る。
阿部は坂の方を見ないようにして、マンションの階段を上がった。
二〇四号室の前には誰もいなかった。
田中さんはまだ帰っていないようだった。
阿部は二〇五号室に入り、扉を少しだけ開けたまま、部屋の中で待つことにした。
廊下で待っていたら、不審に見える。
二〇四号室の前に立っていたら、もっとおかしい。
だから、自分の部屋の中で耳を澄ませた。
田中さんが帰ってきた音がしたら、すぐに出る。
今度こそ話す。
夜十時に、坂の上を見てはいけない。
女の子がいても、目を合わせてはいけない。
声をかけてはいけない。
夢で見た男の人は、前に二〇四号室にいた笠間さんかもしれない。
そう言わなければならない。
信じてもらえるかどうかは分からない。
気味悪がられるかもしれない。
それでも、言わないよりはいい。
阿部はそう自分に言い聞かせた。
しばらくして、階段を上がってくる足音が聞こえた。
軽い足音だった。
阿部は立ち上がった。
足音が二〇四号室の前で止まる。
鍵を探すような音がした。
阿部はすぐに扉を開けた。
廊下にいた田中美佐が、びくりと肩を揺らした。
「阿部さん?」
「あ、すみません」
阿部は慌てて頭を下げた。
「突然開けて、驚かせてしまって」
「いえ、大丈夫です」
田中は少し驚いた顔をしていたが、すぐに笑った。
けれど、やはり疲れているように見えた。
目元に昨日より濃い影がある。
鞄を持つ手も、少し重そうだった。
「田中さん、今日もお疲れですか?」
「ああ、分かります?」
田中は苦笑した。
「昨日あまり眠れなかったので。仕事も覚えることが多くて、ちょっと疲れちゃいました」
田中は少しだけ表情を曇らせた。
「何かありましたか?」
「そういえば、さっきなんですけど」
田中は、廊下の窓の向こうをちらりと見た。
「そこの丘の上を、車で通ってきたんです」
阿部の体が強ばった。
「丘の上」
「はい。公園墓地の近くの道です。近道かなと思って」
田中は何気ない口調で言った。
阿部は口の中が乾くのを感じた。
「そこで、変な人たちを見ました」
「変な人たち?」
「夢で見た男の人に似た人がいたんです」
阿部は息を止めた。
「男の人」
「はい。くたびれた背広を着ていて、眼鏡をかけていて。なんか、すごく真面目そうな感じの人でした」
笠間さんだ。
阿部はそう思った。
田中は続けた。
「その人が、和服姿の女の子と手をつないで歩いていたんです」
阿部は反射的にスマートフォンを見た。
午後六時を少し過ぎたところだった。
六時。
まだ、夜十時ではない。
こんな時間に。
阿部の背中に冷たいものが走った。
「田中さん」
声が硬くなった。
「その人たちに、声をかけたりしていませんよね」
「ああ、はい」
田中は少し不思議そうにした。
「挨拶だけしました」
阿部は言葉を失った。
挨拶だけ。
笠間さんも、最初はそうだった。
一言、声をかけただけだった。
子供が夜に一人でいたから、心配になっただけだった。
それだけで、あの女の子は部屋まで来るようになった。
「挨拶、したんですか?」
「はい」
田中は困ったように笑った。
「向こうも会釈してくれましたよ。女の子もにこにこしていて」
「その女の子は」
「夢で見た小鞠ちゃんによく似てました」
似ていたのではない。
それは小鞠だ。
阿部はそう言いそうになって、喉の奥で止めた。
「仲良さそうでしたよ」
田中は言った。
「親子みたいでした」
阿部は胸の内で否定した。
親子じゃない。
あれは笠間さんだ。
あの子の父親なんかじゃない。
あの子に連れていかれた人だ。
阿部は一歩前に出た。
「田中さん、少し話を聞いてください」
「すみません」
田中は鍵を持ったまま、申し訳なさそうに笑った。
「本当に今日は疲れていて」
「すぐ終わります」
「昨日もあまり眠れなかったんです。今日も仕事が忙しくて、もう頭が回らなくて」
「でも、これは」
「また今度でもいいですか?」
田中の声には、はっきりと疲れが滲んでいた。
「変な言い方ですけど、今日はもう誰とも話す元気がなくて」
そこまで言われると、阿部は強く出られなかった。
相手は若い女性で、阿部は隣に住む男だ。
初対面に近い相手を廊下で引き止め、疲れていると言っているのに無理やり話を聞かせる。
それがどう見えるか、考えずにはいられなかった。
「すみません」
田中はもう一度言った。
「明日か、また時間がある時に」
「あ、はい」
「おやすみなさい」
田中は軽く頭を下げ、二〇四号室に入った。
扉が閉まる。
鍵のかかる音がした。
阿部は廊下に残された。
目の前には、閉じた二〇四号室の扉がある。
その向こうに田中さんがいる。
田中さんは、もう小鞠を見ている。
夢で見て、現実でも見た。
笠間さんと小鞠が一緒にいるところを見た。
挨拶までしてしまった。
もう、完全に始まっている。
阿部は自分の部屋に戻った。
椅子に座る。
けれど、落ち着かなかった。
会社に電話するか。
田中さんの会社に連絡して、二〇四号室から出すように言うか。
だが、あの会社は笠間さんのことを退職扱いにした。
荷物が残っていたことも、窓が開いていたことも、本人だけがいなかったことも、仕事が嫌で逃げたという話に収めた。
あの上司に話したところで、また同じように処理されるだけだろう。
それどころか、阿部がおかしな隣人として扱われるかもしれない。
田中さん本人に話すしかない。
けれど、今は扉を閉められてしまった。
夜に若い女性の部屋を訪ねて、無理やり話をすることなどできない。
それでも、今行けばまだ間に合うのではないか。
今なら、まだ助けられるのではないか。
そう思う自分もいた。
阿部は立ち上がった。
玄関まで行く。
靴を履くわけでもなく、扉の前で止まる。
二〇四号室へ行くべきか。
いや、だめだ。
疲れていると言われたばかりだ。
今、しつこく訪ねたら、警戒される。
場合によっては、警察を呼ばれるかもしれない。
けれど、警察を呼ばれることと、田中さんがいなくなることと、どちらがましなのか。
考えれば考えるほど、分からなくなった。
笠間さんの時も、助けを求められたのに、こうして迷っているうちに遅れた。
佐藤の時も、まともに聞かなかった。
今度もまた、同じことを繰り返すのか。
阿部は額を押さえた。
自分の中で、いくつもの感情がぶつかっていた。
助けたい。
関わりたくない。
言わなければならない。
怖い。
今行くべきだ。
行ってはいけない。
自分も同じ目に遭うかもしれない。
でも、見捨てたくない。
阿部はスマートフォンを取り出した。
管理会社の女性からもらった番号を開く。
あの人なら、少なくとも話は分かってくれる。
解決できるとは限らない。
いや、きっと解決はできない。
あの女性も、詳しいことは分からないと言っていた。
それでも、今の阿部には、他に話せる相手がいなかった。
迷った末に、通話ボタンを押した。
呼び出し音が何度か続いた。
出ないかもしれない。
そう思った時、電話がつながった。
「はい」
「阿部です。二〇五号室の」
「阿部さん?」
電話の向こうの女性は、すぐに声を落とした。
「何かありましたか?」
「名前が分かりました」
「名前?」
「あの女の子の名前です」
阿部は二〇四号室の方を見た。
「小鞠、だそうです」
「こまり……」
電話の向こうで、女性が小さく繰り返した。
「聞き覚えがありますか?」
「いいえ。少なくとも、私が見た記録にはありませんでした」
「そうですか」
「でも、名前が分かったということは、田中さんはもうかなり近いところまで入っているのかもしれません」
「それだけじゃありません」
阿部は言った。
「今日の夕方、田中さんが見たそうです。丘の上で、笠間さんらしき男と、和服の女の子を」
「夕方?」
「はい」
「十時ではなく?」
「六時頃です」
電話の向こうが、しばらく黙った。
「……六時、ですか」
「はい。まだ明るい時間です」
「それは、聞いたことがありません」
女性の声が、明らかに硬くなった。
「私が聞いていたのは、夜十時頃です。坂の上の街灯の下で、手毬をついている女の子を見た、という話でした」
「やっぱり、変わってきているんですか」
「分かりません。でも、少なくとも、私が知っている話とは違います」
阿部は唇を噛んだ。
「田中さんは、その二人を親子みたいだと言っていました」
「親子……ですか」
「違います」
阿部はすぐに言った。
「あれは笠間さんです。あの子の父親なんかじゃない。あの子に連れていかれた人です」
「……そうですね」
女性は小さく答えた。
「でも、田中さんにはそう見えたんですね」
「はい」
「それに、六時にも出てきたということは」
女性はそこで言葉を切った。
言うべきか迷っているような沈黙だった。
「どういうことですか」
「ただの想像です」
女性は言った。
「根拠があるわけではありません」
「構いません」
「もしかすると、よほどお父さんが欲しかったのかもしれませんね」
阿部は息を止めた。
「お父さん」
「笠間さんを、お父さんにしたかったのかもしれません」
「そんな」
「分かりません。ただ、田中さんが親子みたいだと言ったのなら、そういう役を与えられているようにも見えます」
役。
その言葉が、嫌だった。
笠間さんが、笠間さんではなくなっていく。
小鞠の父親のようなものにされていく。
そう考えると、背筋が冷たくなった。
「昔から、あの坂の上で女の子を見たという噂はありました」
女性は続けた。
「でも、ずっと大きな騒ぎはなかったんです。少なくとも、私が担当していた間は」
「最近になって、急に出始めたんですか」
「そう思います」
女性の声は低かった。
「佐藤さんの件があって、笠間さんの件があって、それからまた田中さんです。急に続いています」
「何か、きっかけがあったんでしょうか?」
「分かりません」
女性はそこで少し黙った。
「ただ、最近、墓地公園の一部を整備したという話は聞いています」
「整備?」
「はい。古い区画の周りを少し直したそうです。道を広げたり、古い石を動かしたり、木を切ったりしたと」
阿部は、丘の上の暗い入口を思い出した。
「それが関係しているんですか?」
「分かりません。ただ、ずっと噂だけだったものが、最近になって急に続いているなら、何か触れてはいけないものに触れたのかもしれません」
「触れてはいけないもの」
「ただの想像です。でも、あの墓地公園には、整備される前から残っている古い区画があったそうです。古い墓がいくつか残っているという話も聞いたことがあります」
女性は言った。
「古い墓」
「はい。ただ、詳しいことは分かりません。管理会社の資料にそこまで細かいことは残っていませんし、相当昔の話になると思います」
「調べられませんか?」
「少しは調べました。でも、無駄かもしれません」
「無駄?」
「古すぎるんです」
女性は申し訳なさそうに言った。
「夜十時の女の子、手毬、和服。そういう噂だけでは調べようがありませんでした。小鞠という名前も、今日初めて聞きました」
「名前が分かれば」
「何か出てくるかもしれません。でも、期待はしないでください。昔の記録が残っているかどうかも分かりません」
阿部は二〇四号室の壁を見る。
その向こうに田中さんがいる。
今はまだ、いる。
「それより、今は田中さんです」
女性は言った。
「田中さんに伝えてください。見ないこと。目を合わせないこと。声をかけないこと。返事をしないこと。夢に出てきても、遊ばないこと」
「それは、私も考えていました」
阿部は低い声で言った。
「やっぱり、それしかないんですね」
「はい」
「それで助かるんですか?」
女性は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「分かりません」
やがて、女性は言った。
「でも、それ以外に言えることがありません」
阿部は唇を噛んだ。
「田中さんは、疲れていると言って部屋に入ってしまいました」
「今からでも」
「若い女性の部屋です。夜に、隣の男が押しかけるわけにはいきません」
「でも」
「分かっています」
阿部は低い声で言った。
「分かっているんです」
分かっている。
それでも、動けない。
それが一番嫌だった。
電話を切ったあと、阿部はしばらくスマートフォンを握ったまま座っていた。
二〇四号室の中からは、何も聞こえない。
手毬の音も。
窓を叩く音も。
女の子の声も。
何も聞こえない。
けれど、それは安心材料ではなかった。
笠間さんの時も、そうだった。
隣にいた阿部には、何も聞こえなかった。
笠間さんは、あれほど苦しんでいたはずなのに。
窓を叩かれ、声を聞き、眠れず、追い詰められていたはずなのに。
二〇五号室にいた阿部には、何も聞こえなかった。
だから、この静けさは、何も起きていない証拠にはならない。
阿部は立ち上がった。
玄関を開け、廊下に出る。
二〇四号室の扉は閉まっていた。
明かりがついているのかどうかも、外からは分からない。
ただ、そこに扉があるだけだった。
静かだった。
阿部は、その扉の前に立った。
呼び鈴を押すべきか。
ノックするべきか。
田中さんに、今すぐ伝えるべきか。
指が動かない。
笠間さんの時のように、また遅れるかもしれない。
そう思っているのに、動けない。
阿部は、閉じた扉を見つめ続けた。
その向こうで何が起きているのか、自分には分からない。
分からないことが、たまらなく怖かった。




