第11話 目が合いました
翌朝、阿部の気持ちは固まっていた。
どちらにしても、田中さんには話さなければならない。
昨夜のうちに二〇四号室へ行くことはできなかった。
呼び鈴を押すことも、ノックすることもできなかった。
若い女性の部屋に、夜、隣の男が押しかける。
そのことを考えると、どうしても足が止まった。
けれど、朝ならまだいい。
田中さんが出勤するところを見計らって、廊下で声をかける。
それなら、不自然ではない。
いや、不自然ではないと言い切れるかは分からない。
昨日も話しかけた。
一昨日も話しかけようとした。
今日もまた、二〇四号室の前で待つことになる。
完全に怪しい隣人だ。
阿部は自分でそう思い、苦笑した。
それでも、言わなければならなかった。
笠間さんの時と同じことを、また繰り返すわけにはいかない。
阿部は二〇五号室の中で、廊下の音に耳を澄ませていた。
二〇四号室の中の音は聞こえない。
笠間さんの時も、何も聞こえなかった。
だから今、部屋の中が静かだからといって、何も起きていないとは限らない。
ただ、玄関の扉が開く音なら聞こえる。
廊下に出る音なら分かる。
そこだけを待った。
やがて、二〇四号室の鍵が回る音がした。
阿部はすぐに立ち上がった。
扉を開ける。
ちょうど田中美佐が、二〇四号室から出てきたところだった。
阿部は息を呑んだ。
田中は、昨日よりもさらに疲れていた。
顔色が悪い。
目の下には濃い影ができている。
髪は軽く結ばれていたが、どこか乱れていて、力なく肩のあたりに垂れていた。
表情にも、昨日までの明るさがほとんどなかった。
目は半分うつろで、こちらを見ているのか、それともただ前を向いているだけなのか分からない。
「おはようございます」
阿部は声をかけた。
田中は少し遅れて顔を上げた。
「あ……おはようございます」
声にも力がなかった。
「大丈夫ですか」
阿部は思わず聞いた。
「かなり、疲れているように見えます」
「はい」
田中はぼんやりと頷いた。
「ちょっと、眠れなくて」
阿部の胸が強く鳴った。
「また、夢ですか」
「夢も見ました。けど、それだけじゃなくて」
「それだけじゃない?」
田中は、ゆっくり目を瞬かせた。
「昨日の夜、窓を叩く音がしたんです」
阿部は体を強ばらせた。
「窓を」
「はい」
田中は自分の部屋の方を振り返った。
「最初は、気のせいかなと思ったんです。疲れていたし、前の日もよく眠れなかったから」
「昨日、窓の方から、あの丘を見ましたか」
阿部が聞くと、田中は少し驚いた顔をした。
「見ました」
阿部は唇を噛んだ。
「やっぱり」
「夜、窓の外を見たんです。丘の上の街灯のところに、誰かがいたので」
田中は淡々と話している。
だが、その淡々とした声が、かえって怖かった。
「よく見ると、大人の男性と女の子でした。こんな時間に、まだ遊んでいる人がいるんだなと思って、しばらく見ていたんです」
「目は」
阿部は声を抑えた。
「まさか、目が合ったりしていませんよね」
田中は、ゆっくり阿部を見た。
「合いました」
阿部は言葉を失った。
「二人とも、こっちを見たんです」
田中の声が少し震えた。
「女の子も、男の人も」
「二人とも」
「はい」
田中は自分の腕を抱いた。
「目が、変でした。白いところがなくて、真っ黒で」
阿部の背筋に冷たいものが走った。
「すごく怖くなって、すぐカーテンを閉めました。電気も消して、そのまま寝ようとしたんです」
「その後、窓を叩かれたんですね」
「はい」
田中は小さく頷いた。
「とん、とん、とんって」
阿部の頭の中に、笠間さんの言葉が蘇った。
窓を叩かれる。
足場のない窓の外から。
誰も苦情を言いに来ない。
その音は、当事者にしか聞こえない。
「最初は空耳だと思いました」
田中は続けた。
「でも、ずっとやまないんです。とん、とん、とんって。だんだん大きくなって」
「声は」
「聞こえました」
田中は目を伏せた。
「女の子の声と、男の人の声が」
「何と」
「女の子は、遊ぼうって」
阿部は息を止めた。
「お姉さん、あそぼって、何度も」
やはり、そう呼ぶのか。
阿部はそう思った。
笠間さんには、お兄さん。
田中さんには、お姉さん。
あの子は、相手を見て呼び方を変えている。
「男の人は」
「遊びませんか、って」
田中の声がさらに弱くなった。
「若い男の人の声でした。丁寧な話し方で、窓の外からずっと」
笠間さんだ。
阿部はそう確信した。
笠間さんは、もうあちら側にいる。
小鞠の隣で、田中さんを呼んでいる。
「怖くなって、電気をつけたんです」
田中はかすれた声で言った。
「それで、カーテンを少し開けました」
「開けたんですか」
「何がいるのか、確認しないといけないと思って」
田中は顔を青くした。
「そしたら、いました」
「窓の外に」
「はい」
田中の声が震えた。
「女の子と、男の人が、宙に浮いたみたいにして、私の部屋の窓を叩いていたんです」
阿部は何も言えなかった。
「二階ですよね、ここ」
「はい」
「足場なんて、ないですよね」
「ありません」
「なのに、いたんです」
田中は笑おうとして失敗したような顔をした。
「そのまま、私の部屋の窓を、二人で、とん、とん、とんって」
「それで」
「びっくりして」
田中は唇を震わせた。
「その場で倒れたんだと思います」
「気絶したんですか」
「たぶん」
田中は小さく頷いた。
「でも、その後も終わらなかったんです」
「終わらなかった?」
「夢で会うんです」
阿部はゆっくり息を吸った。
「小鞠に」
「はい」
田中は阿部の顔を見た。
もう、ただの疲れではなかった。
怯えている。
昨日まで夢の話として済ませていたものが、現実の恐怖になっている。
「夢の中で、またあの街灯の下にいました。女の子と、男の人がいて。周りにも、たくさん人がいるんです」
「人」
「人形みたいな人たちです」
田中の声は、ひどく乾いていた。
「最初は人に見えたんです。でも、よく見ると違うんです。みんな表情がなくて、体の動きも変で、同じところに立っていて」
阿部は、笠間さんの話を思い出した。
公園墓地の暗がりにいた、たくさんの影。
人形のようなものたち。
笠間さんも、今はそこにいるのかもしれない。
「それに囲まれて、手毬の遊びをさせられるんです」
田中は自分の手を見た。
「手毬というか、ボールというか。あんたがたどこさ、って」
阿部は目を閉じた。
「朝まで、ずっとです」
田中の声が震えた。
「寝ていたはずなのに、ずっと一緒に遊ばされていたんです。だから、起きた時には、寝る前より疲れていて」
田中は顔を上げた。
うつろだった目に、急に焦点が戻った。
「阿部さん」
「はい」
「何か、知っているんじゃないですか?」
阿部は返事ができなかった。
「昨日も、一昨日も、何か言おうとしていましたよね」
「それは」
「あの二人のこと、知っているんですか?」
廊下の空気が重くなった。
阿部は、逃げられないと思った。
もう黙っていられる段階ではなかった。
「すみません」
まず、謝った。
田中の表情が変わった。
「すみませんって、何ですか?」
「昨日、それを話そうと思っていました」
「それって」
「夜十時に、丘の上を見てはいけないこと。あの女の子と目を合わせてはいけないこと。声をかけてはいけないこと。返事をしてはいけないこと」
田中の顔色がさらに悪くなった。
「知っていたんですか?」
「全部ではありません。でも、前にも同じようなことがありました」
「前にも」
「二〇四号室に住んでいた人が、いなくなっています」
田中は一歩下がった。
「二〇四号室に」
「はい」
「それを、知っていたんですか?」
「知っていました」
阿部は唇を噛んだ。
「だから、言おうと思っていました」
その瞬間、田中の目に怒りが浮かんだ。
「どうして教えてくれなかったんですか!」
声が廊下に響いた。
阿部は頭を下げた。
「すみません」
「すみませんじゃないです」
「昨日、話そうとしたんです。でも、田中さんが疲れていると言って」
言った瞬間、阿部は失敗したと思った。
言い訳だった。
それはただの言い訳にしか聞こえない。
田中の顔が歪んだ。
「私のせいですか!」
「違います」
「私が疲れているって言ったから、教えなかったんですか」
「違います。そういう意味では」
「こんなことになるなら、無理にでも言ってくださいよ!!」
田中の声が震えた。
「変な人だと思われても、怒られても、言ってくれればよかったじゃないですか!」
「すみません」
「昨日の夜、ずっと窓を叩かれていたんですよ」
田中は涙を浮かべていた。
「寝ても、夢の中で朝まで遊ばされていたんです。今だって、まだ手毬の音が耳から離れないんです」
阿部は何も言えなかった。
「どうすればいいんですか!?」
田中は阿部に詰め寄った。
「知っているなら、どうすればいいのか教えてください!?」
「見ないでください」
阿部は絞り出すように言った。
「目を合わせないでください。声がしても返事をしないでください。窓を叩かれても、開けないでください。夢に出てきても、遊ばないようにしてください」
「それで助かるんですか?」
田中が聞いた。
阿部は答えられなかった。
「助かるんですか?」
もう一度、田中が聞いた。
「分かりません」
阿部は言った。
田中は呆然とした顔になった。
「分からない?」
「でも、それしか」
「それしかないって、何ですか」
田中の声がまた大きくなった。
「阿部さんは知っていたんですよね。前にも同じことがあったって。なのに、何もできないんですか」
「すみません」
「じゃあ、私はどうすればいいんですか」
その言葉に、阿部は返す言葉を失った。
廊下の奥で、別の部屋の扉が少し開いた。
誰かがこちらを見ている。
その気配に気づいたのか、田中も一瞬そちらを見た。
さらに別の部屋からも、小さな物音がした。
朝の共有廊下に、二人の声は思ったより響いていた。
怪異の音は、誰にも聞こえない。
けれど、人間同士の声は聞こえる。
遠巻きに見ている住人たちの視線が、阿部に刺さった。
若い女性を廊下で引き止めて、泣きそうにさせている男。
外からは、そう見えているのかもしれない。
田中は唇を噛み、鞄を持ち直した。
「もう、仕事に行かないと」
「田中さん」
「帰ったら、ちゃんと話してください」
田中は阿部を睨んだ。
「逃げないでください」
「はい」
「本当に、どうすればいいのか考えておいてください」
田中はそう言って、階段の方へ歩き出した。
足取りはふらついていた。
けれど、止まらなかった。
阿部は追いかけられなかった。
廊下の途中で、田中は一度だけ振り返った。
その顔には、怒りと恐怖と疲労が混ざっていた。
何か言いたそうに口を開きかけたが、結局何も言わず、階段を下りていった。
阿部はその場に立ち尽くした。
遠巻きに見ていた住人たちは、気まずそうに扉を閉めていく。
廊下はまた静かになった。
その静けさの中で、阿部は二〇四号室の扉を見た。
田中さんは、もう窓を叩かれている。
夢の中で、朝まで遊ばされている。
小鞠だけではない。
笠間さんも、田中さんを呼んでいる。
もう、かなり深いところまで引き込まれている。
それなのに、自分はまだ何もできていない。
阿部は拳を握った。
もう、まずいところまで来ている。
笠間さんの時よりも、早い。
あまりにも早い。
そう思った瞬間、阿部はようやく本当に理解した。
田中さんは、もう助けを求める側にいる。
そして自分は、助けなければならない側に立たされている。
逃げることも、知らないふりをすることも、もうできなかった。




