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夜十時の手毬  作者: サザルト


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12/21

第12話 二〇六号室

 昼休みになっても、阿部の気持ちは晴れなかった。


 朝の廊下で、田中さんに責められた声が、まだ耳に残っている。


 どうして教えてくれなかったんですか。


 こんなことになるなら、無理にでも言ってくださいよ。


 じゃあ、私はどうすればいいんですか。


 田中さんの言葉は、どれも間違ってはいなかった。


 阿部は、知っていた。


 前にも二〇四号室で同じようなことがあったことを知っていた。


 笠間さんが怯えていたことも知っていた。


 佐藤がいなくなったことも知っていた。


 夜十時に、丘の上を見てはいけないことも、女の子に声をかけてはいけないことも、知っていた。


 それなのに、田中さんには間に合わなかった。


 言おうとした。


 何度も言おうとした。


 けれど、それは結果として、言わなかったのと同じだった。


 阿部は休憩室の隅で、弁当の蓋を開けたまま箸を持っていた。


 ほとんど食欲はなかった。


 その時、スマートフォンが震えた。


 画面を見る。


 管理会社の女性からだった。


 阿部は慌てて通話ボタンを押した。


「もしもし」


「阿部さんですか」


「はい」


 電話の向こうの声は、昨日より少し慎重だった。


「その後、どうなりましたか。田中さんには、お話しできましたか」


 阿部は少し黙った。


 何から話せばいいのか分からなかった。


「話しました」


「よかった」


「でも、もう手遅れかもしれません」


 電話の向こうが静かになった。


「手遅れ、というのは」


「昨日の夜、田中さんは窓を叩かれたそうです」


 阿部は声を落とした。


「女の子だけじゃなくて、笠間さんらしき男にも」


「笠間さんに」


「はい。窓の外に、二人でいたそうです。声も聞いたと」


「声」


「女の子は、お姉さん、あそぼって。男の人は、遊びませんかって」


 女性は息を呑んだようだった。


「それで、夢の中でも朝まで手毬遊びをさせられたそうです。周りには、人形みたいな人たちがたくさんいて」


 自分で話していても、現実のこととは思えなかった。


 けれど、それは現実に田中さんの身に起きていることだった。


「それで、今朝、田中さんに話しました」


「はい」


「怒られました」


 阿部は小さく息を吐いた。


「何でもっと早く言ってくれなかったんですかって。こんなことになるなら、無理にでも言ってほしかったって」


「そうですか」


「私は、謝りました。でも」


 阿部は箸を置いた。


「やっぱり、これは私が悪いんですかね」


 電話の向こうで、女性はすぐには答えなかった。


 阿部は続けた。


「前の日に話そうとしたんです。でも、田中さんが疲れているから後にしてくださいって言って。それで、私は引き下がりました」


「はい」


「でも、目を合わせた後に話したら、もう遅かった。田中さんからすれば、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだって思うのは当然です」


「阿部さん」


 女性の声が、少し柔らかくなった。


「田中さんも、今かなり不安定なんだと思います」


「不安定」


「はい。眠れていないんですよね」


「はい」


「怖いものを見て、窓を叩かれて、夢の中でも逃げられなかった。そういう状態なら、誰かを責めたくなることもあると思います」


 阿部は黙って聞いていた。


「もちろん、田中さんが悪い人という意味ではありません」


「悪い人じゃないと思います」


 阿部はすぐに言った。


 田中さんは、悪い人ではない。


 ただ怖がっている。


 疲れている。


 追い詰められている。


 朝の怒りも、たぶんそういうものだった。


「私も、そう思います」


 女性が言った。


「だから、落ち着けば、阿部さんだけを責める話ではないと分かると思います」


「でも、私は知っていました」


「阿部さんのせいでも、田中さんのせいでもありません」


 女性は、はっきりと言った。


「悪いのは、あの部屋です。あの女の子です。少なくとも、そう考えないと、誰も耐えられなくなります」


 その言葉で、少しだけ息ができる気がした。


 だが、救われたわけではなかった。


「もうこうなってしまったなら」


 女性は続けた。


「田中さんには、部屋を変えるか、別の場所に移ってもらうように言うしかないと思います」


「私も、そう思います」


 阿部は言った。


「でも、あんなふうに揉めてしまったので、もう私の話を聞いてくれるかどうか」


「そうですね」


「田中さんの会社に言っても、たぶん無駄です。笠間さんの時、あの会社は退職扱いで終わらせました。今回も、私が何か言ったところで、まともに取り合ってくれるとは思えません」


「困りましたね」


「困っています」


 阿部は思わず笑いそうになった。


 笑える状況ではないのに、どうしようもなさすぎて、そうなりそうだった。


「今回は、笠間さんみたいにしたくないんです」


 その言葉は、自分で思っていたよりも重かった。


「あの時のこと、ずっと後悔しているんです。最初に相談された時に、ちゃんと話していれば、何か変わっていたんじゃないかって」


「阿部さん」


「結果は同じだったかもしれません。でも、何も言わなかったことが、ずっと残っているんです」


 電話の向こうで、女性は静かに息を吐いた。


「分かりました」


「え」


「私も、何か分かったら連絡します。今の担当ではありませんけど、できるだけ調べてみます」


「すみません」


「いいえ」


 女性は少しだけ声を落とした。


「私も、気になっていました。笠間さんのことも、田中さんのことも」


 その言葉に、阿部は胸が詰まった。


 誰か一人でも、同じように気にしている人がいる。


 それだけでも、少しだけ違った。


「ただ、阿部さん」


「はい」


「無理はしないでください。阿部さんまで巻き込まれたら、今度こそ本当に誰もいなくなります」


 阿部は返事に詰まった。


「分かっています」


 そう答えるしかなかった。


 電話を切ったあとも、阿部はしばらくスマートフォンを握っていた。


 弁当はほとんど残っていた。


 午後の仕事も、やはり手につかなかった。


 田中さんに部屋を出てもらう。


 それが一番いい。


 分かっている。


 だが、どうやって。


 田中さんは自分を責めている。


 自分の話を聞いてくれるかどうかも分からない。


 会社は頼りにならない。


 管理会社の女性も、できることは限られている。


 結局、阿部が何とかするしかなかった。


 けれど、その何とかする方法が分からない。


 仕事が終わる頃には、阿部はひどく疲れていた。


 マンションへ戻ったのは、夕方を過ぎた頃だった。


 阿部は二〇四号室の前を通る時、少し足を止めた。


 田中さんは、もう帰っているのだろうか。


 扉は閉まっている。


 物音はしない。


 静かだった。


 だからこそ、何も分からなかった。


 阿部は二〇五号室の鍵を取り出した。


 その時、反対側の扉が開いた。


「あの」


 声をかけられ、阿部は振り向いた。


 二〇六号室の扉から、若い男が顔を出していた。


 年齢は阿部より少し下か、同じくらいに見える。


 部屋着の上に薄い上着を羽織っていて、少し申し訳なさそうな顔をしていた。


「今日、何かあったんですか?」


「え」


 阿部はすぐに答えられなかった。


 男は慌てて頭を下げた。


「あ、すみません。いきなり」


「いえ」


「自分、二〇六号室の鈴木です」


「阿部です。二〇五号室の」


「はい。知ってます」


 鈴木は言ってから、少し気まずそうに笑った。


「朝、隣の女性と揉めていたみたいだったので」


 阿部は胸の奥が重くなった。


 やはり見られていた。


 朝の廊下でのやり取りは、他の住人にも聞こえていたのだ。


「すみません。お騒がせしました」


「いえ、別に責めているわけじゃないんですけど」


 鈴木は二〇四号室の方をちらりと見た。


「大丈夫なのかなと思って」


「少し、このマンションのことで話していました」


「マンションのことで」


「はい。ちょっと意見の相違があって、少し熱くなってしまっただけです。ご心配をおかけして、申し訳ありません」


 自分で言いながら、ずいぶん苦しい説明だと思った。


 だが、本当のことを言えるはずもなかった。


 夜十時に、丘の上に女の子が出る。


 二〇四号室に住む人間が、その子に狙われている。


 そんな話を、いきなり二〇六号室の住人にできるわけがない。


「そうなんですか」


 鈴木は納得したような、していないような顔をした。


 阿部は話題を変えるように聞いた。


「鈴木さんは、いつ頃こちらに入られたんですか」


「自分ですか」


「はい。すみません、あまりお会いしたことがなかったので」


「ああ、自分も少し前に入ったばかりなんです」


「少し前」


「はい。仕事の都合で、しばらくこっちにいることになって」


 鈴木は苦笑した。


「まだこの辺りのこともよく分かってなくて」


「そうなんですか」


「阿部さんは長いんですか」


「少し前からです」


 阿部は曖昧に答えた。


 長いと言えば長い。


 けれど、あの女の子のことを知ってからの時間は、妙に濃くて長かった。


「また何かあったら言ってください」


 鈴木はそう言った。


「お隣ですし」


「ありがとうございます」


 阿部は頭を下げた。


 鈴木は軽く会釈し、二〇六号室へ戻っていった。


 扉が閉まる。


 廊下に阿部だけが残された。


 二〇四号室。


 二〇五号室。


 二〇六号室。


 ただ並んでいるだけの扉なのに、阿部には妙に不穏に見えた。


 二〇四号室では、佐藤がいなくなった。


 笠間さんもいなくなった。


 今は田中さんが住んでいる。


 二〇五号室には、自分がいる。


 そして反対側の二〇六号室には、鈴木という男が入っていた。


 田中さんだけではない。


 このマンションには、他にも何も知らない人間が住んでいる。


 当たり前のことなのに、今さらそのことが怖くなった。


 阿部は自分の部屋に入った。


 鍵を閉める。


 そのまま扉に背を預けた。


 田中さんは、もう自分とは話したくないかもしれない。


 朝、あれだけ怒らせてしまった。


 こちらを責めるのも当然だった。


 帰ってきたらちゃんと話してください。


 田中さんはそう言っていた。


 けれど、本当に話してくれるだろうか。


 阿部は分からなかった。


 このまま避けられるかもしれない。


 もう二度とまともに話してくれないかもしれない。


 そうなったら、どうすればいいのか。


 田中さんに部屋を出るよう伝えることもできない。


 夜十時に、窓を見ないように言うこともできない。


 阿部は何度も考えた。


 考えても、答えは出なかった。


 けれど、翌日になって、それは違うと分かる。


 阿部が田中さんに話しかけるのではなかった。


 今度は、田中さんの方から阿部に話しかけてくることになる。

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