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夜十時の手毬  作者: サザルト


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13/21

第13話 田中を知りませんか

 翌朝、阿部が部屋を出ると、廊下に田中美佐が立っていた。


 最初、阿部は自分がまた出待ちをしようかと思った。


 けれど違った。


 今日は、田中の方が阿部を待っていた。


 二〇四号室の扉の前ではなく、少し離れた廊下の壁際に立っている。


 顔色は相変わらず悪かった。


 目の下には濃い影があり、髪もきちんとまとめきれていない。


 それでも、昨日の朝のような怒りは見えなかった。


 疲れきった顔で、ただ阿部を待っていた。


「あの」


 田中が先に口を開いた。


「昨日は、すみませんでした」


 阿部は少し驚いた。


「いえ」


「私、ひどいことを言いました」


「気にしていません」


 阿部は首を横に振った。


「あんな状況になったら、自分も同じように言ったと思います」


 田中は俯いた。


「でも、阿部さんに当たっても仕方ないのに」


「仕方なくはないです。私がもっと早く言えていれば、違っていたかもしれません」


 そう言うと、田中は顔を上げた。


 その目には、まだ恐怖が残っていた。


「それで」


「はい」


「どうすればいいんですか?」


 田中の声はかすれていた。


「あの人たちが来ないようにするには、どうすればいいんですか」


 阿部は、すぐには答えられなかった。


 その答えを、自分も持っていない。


 けれど、黙っているわけにはいかなかった。


「驚かないで聞いてください」


 阿部は言った。


 田中は小さく頷いた。


「私が知っているだけでも、その部屋に住んでいなくなった人が二人います」


 田中の表情が固まった。


「二人」


「はい」


 阿部は二〇四号室の扉を見た。


「一人は、私の同僚だった佐藤です。もう一人は、田中さんの前にその部屋に住んでいた笠間さんです」


「笠間さん」


「田中さんが見た、眼鏡をかけて、くたびれた背広を着ていた男の人です。たぶん、あれは笠間さんです」


 田中は息を呑んだ。


「前の入居者なんですか?」


「はい」


「でも、会社では」


「退職したことになっています」


 阿部の声は、自然と低くなった。


「けれど、私は違うと言いました。笠間さんは自分から退職したわけじゃない。部屋には荷物が残っていて、本人だけがいなかった。窓も開いていた。おかしいと、何度も言いました」


 あの時の上司の顔を思い出す。


 退職願を読んで、納得したような顔。


 仕事が合わなかったのだろうと、都合よく片づけるような声。


「でも、あなたの会社の人は信じませんでした。笠間さんを退職扱いにして、そのまま終わらせました」


 田中は少し不快そうに眉を寄せた。


 阿部はそれに気づいた。


 入ったばかりの会社を悪く言われているのだ。


 田中が不愉快になるのも無理はなかった。


 それでも、ここだけは言わなければならなかった。


「だから、多分、田中さんの耳には入らなかったんだと思います」


「私の耳に?」


「はい。会社としては、笠間さんは退職した人間だった。仕事に耐えられず、自分から辞めた人間だった。だから、その部屋に次の社員を入れる時にも、わざわざ前の入居者の話をする必要はないと判断したのでしょう」


 阿部は唇を噛んだ。


「ひどい会社です」


 田中は何も言わなかった。


 阿部はすぐに頭を下げた。


「すみません。田中さんの会社を悪く言いたいわけではありません」


 それは半分嘘だった。


 悪く言いたくないわけではない。


 本当は、悪く言いたかった。


 笠間さんのことを都合よく片づけた会社。


 田中さんを何も知らないまま二〇四号室に入れた会社。


 その会社を、ひどいと思わずにはいられなかった。


「でも、あの上司は信用しない方がいいです。少なくとも、二〇四号室のことについては」


 田中は黙っていた。


「怒るのも無理はないと思います。でも、ここだけは聞いてください」


 阿部は続けた。


「あの女の子は、自分と遊んでくれる人を探しているように見えます」


「遊んでくれる人」


「はい。夜に一人でいる子供を見て、心配して声をかけるような人。見なかったふりをできない人。そういう人に目をつけているのかもしれません」


 田中は自分の手を握った。


「笠間さんは」


「はい」


 阿部はゆっくり頷いた。


「田中さんが言っていた、お父さんみたいな男の人。それが笠間さんだと思います」


「どうして、一緒にいるんですか」


「分かりません」


 阿部は正直に答えた。


「でも、普通の状態ではありません。笠間さんは、あの子の父親なんかではありません。あの子に連れていかれた側です」


 田中の顔色がさらに悪くなった。


「じゃあ、私も」


「だから、この部屋を出てください」


 阿部は言った。


「会社に言って、別の部屋に移してもらってください。できれば、このマンションから離れた方がいいです」


「そんな」


「それが無理なら、会社を辞めてでも」


「できません」


 田中の声は小さかったが、はっきりしていた。


「まだ会社に入って一週間なんですよ」


 阿部は黙った。


「そんな理由で、部屋を変えてくださいなんて言えません。夜に女の子が来るんです。夢の中で手毬遊びをさせられるんです。そんなこと、会社に言えるわけないじゃないですか」


「でも」


「会社を辞めるなんて、もっと無理です」


 田中は苦しそうに笑った。


「入って一週間で、そんなことできません」


 阿部には返す言葉がなかった。


 分かっていた。


 田中の言っていることも、分かってしまう。


 外側から見れば、逃げればいいと思うかもしれない。


 そんな会社は辞めればいいと思うかもしれない。


 けれど、本人にとっては簡単ではない。


 入社して一週間。


 まだ何も知らず、何も築いていない。


 そこで、怪異が怖いから部屋を変えてくれと言う。


 会社を辞める。


 そんなことをすぐに決められる人間ばかりではない。


「そうかもしれません」


 阿部は言った。


「でも、私に言えるのは、それくらいしかありません」


 田中はしばらく黙っていた。


 やがて、力なく頷いた。


「そうですか」


「すみません」


「いえ」


 田中は鞄を持ち直した。


「会社に行きます」


「今日は休んだ方が」


「休めません」


 田中は首を横に振った。


「まだ入ったばかりなので」


 その言葉は、何度も自分に言い聞かせているように聞こえた。


「帰ったら、また話を聞かせてください」


「はい」


「できれば、調べておいてください。何か」


「分かりました」


 田中は階段へ向かった。


 足取りは重かった。


 それでも、会社へ行く人間の動きだった。


 阿部はその背中を見送った。


 自分は知っていることを話した。


 言えることは言った。


 部屋を出るように言った。


 会社を辞めてでも離れた方がいいと言った。


 これ以上、何ができただろう。


 阿部はそう思おうとした。


 思うしかなかった。


 その日から、田中の姿を見なくなった。


 最初の一日は、時間が合わないだけだと思った。


 田中も仕事が忙しいのだろう。


 疲れて帰ってきて、すぐに部屋に入っているのかもしれない。


 そう考えた。


 二日目も、田中には会わなかった。


 二〇四号室の扉は閉まっていた。


 物音はしない。


 静かだった。


 阿部は何度も呼び鈴を押そうか迷った。


 けれど、押せなかった。


 田中は怒っているかもしれない。


 怖がっているかもしれない。


 休んでいるだけかもしれない。


 実家に帰ったのかもしれない。


 会社に相談して、別の場所に移してもらえたのかもしれない。


 そうであってほしいと思った。


 三日目になっても、田中の姿は見えなかった。


 阿部は不安を抱えながらも、どこかで安心しようとしていた。


 自分の忠告が、少しは届いたのかもしれない。


 田中さんは部屋を出たのかもしれない。


 会社を休んで、どこか安全な場所にいるのかもしれない。


 そう思いたかった。


 その日の夕方、阿部の部屋の呼び鈴が鳴った。


 阿部は嫌な予感がした。


 ドアスコープを覗く。


 そこに立っていたのは、笠間さんの上司、岩瀬だった。


 田中を二〇四号室に入れた、あの男だった。


 阿部はしばらく迷った末に、扉を少しだけ開けた。


「何ですか?」


 声は、自分でも驚くほど冷たかった。


 上司は以前よりも明らかに焦っていた。


 額に汗を浮かべ、視線が落ち着かない。


「あの、田中を知りませんか?」


 阿部は一瞬、意味が分からなかった。


「田中さんなら、そちらの社員でしょう」


「それが」


 上司は喉を鳴らした。


「田中が行方不明なんです」


 阿部の中で、何かが冷たく固まった。


 同時に、怒りが込み上げた。


「今回は、行方不明なんですね」


「え」


「笠間さんの時は、退職扱いにしたのに」


 上司の顔が強ばった。


「あの時とは状況が」


「あの時も、私は違うと言いました」


 阿部は扉の隙間から上司を睨んだ。


「笠間さんの荷物は部屋に残っていました。本人だけがいなかった。窓も開いていた。明らかにおかしいと言いましたよね」


「それは」


「でも、あなたは退職扱いにした」


「退職願がありました」


「あの手紙はおかしかった」


「本人の字でした」


「だから何ですか」


 阿部の声が強くなった。


「私は何度も言いました。笠間さんは逃げたんじゃない。あの部屋で何かあったんだと。でも、あなたは聞かなかった」


 上司は口を開きかけ、閉じた。


「その結果、田中さんには何も知らされなかった」


「それは」


「笠間さんは退職した人間だから、次に入る社員へ伝える必要はない。会社では、そう判断したのでしょう」


 上司は答えなかった。


 答えられなかったのかもしれない。


 それとも、答える必要がないと思っているだけなのかもしれない。


「ひどい会社ですね」


 阿部は言った。


「人が一人いなくなっているのに、退職扱いにして終わらせて。次の人間を、何も知らせず同じ部屋に入れるんですから」


「田中には、余計な不安を与える必要はないと」


 上司は小さく言いかけた。


 阿部はそれを聞き逃さなかった。


「余計な不安?」


 上司は口を閉じた。


「笠間さんがいなくなったことも、あの部屋のことも、田中さんにとっては余計な不安だったんですか!」


「そういう意味では」


「では、今のこれは何ですか!」


 阿部の声は、冷たくなっていた。


「田中さんが行方不明になって、ようやく必要な話になったんですか」


「お願いします」


 上司は言った。


「今は、そんな話をしている場合では」


「そうですね」


 阿部は扉を閉めかけた。


「話すことはありません!」


 だが、上司が慌てて扉に手をかけた。


「待ってください」


「手を離してください」


「お願いします。何か知っているなら教えてください」


「知りません」


「でも、あなたは田中と話していたでしょう。廊下で揉めていたと聞いています」


 阿部は眉をひそめた。


 上司はどこから聞いたのだろう。


 会社か。


 田中本人か。


 それとも、このマンションの誰かか。


「田中があなたに何か言っていませんでしたか」


「言っていたとしても、あなたに話すことはありません」


「そんなことを言わないでください」


 上司の声が必死になった。


「私の監督責任が問われているんです」


 その言葉で、阿部の怒りはさらに冷たくなった。


 田中さんの心配ではないのか。


 笠間さんの時に何も聞かなかったことではないのか。


 自分の責任が問われるから、今さら慌てているのか。


「帰ってください」


「阿部さん」


「帰ってください」


 阿部は扉を閉めた。


 鍵をかける。


 その直後、扉が叩かれた。


 とん、とん、とん。


 阿部はびくりとした。


 一瞬、窓を叩く音を思い出した。


 けれど、これは違う。


 人間の手が、玄関の扉を叩いている音だった。


「阿部さん、お願いします」


 扉の向こうで上司が言った。


「何か知っているんですよね」


 とん、とん、とん。


「教えてください」


 とん、とん、とん。


「田中がどこへ行ったのか、何か」


 阿部は扉の前に立った。


「これ以上叩くなら、警察を呼びます!」


 扉の向こうが静かになった。


 しばらく、気配だけが残っていた。


 やがて、足音が遠ざかっていく。


 阿部は玄関に立ったまま、動けなかった。


 田中さんは、部屋を出たのではなかった。


 会社を休んで、どこか安全な場所に逃げたのでもなかった。


 上司は、田中さんを探していた。


 行方不明だと言った。


 笠間さんと同じように。


 佐藤と同じように。


 阿部は背中を扉に預けた。


 力が抜け、そのまま床に座り込んだ。


 田中さんも、取り込まれたのだろうか。


 小鞠の隣に、今度は田中さんも立っているのだろうか。


 笠間さんが、くたびれた背広のままあちら側にいたように。


 佐藤が、きっとどこかで人形のように立っているように。


 田中さんも、あの街灯の下にいるのだろうか。


 考えたくなかった。


 けれど、考えずにはいられなかった。


 これで終わるのだろうか。


 二〇四号室は、これで空く。


 田中さんがいなくなれば、会社はまた荷物を片づけるだろう。


 また、何かの書類で処理するのだろう。


 そして、また新しい誰かを入れるのではないか。


 何も知らない誰かを。


 佐藤がいなくなり、笠間さんがいなくなり、田中さんがいなくなった部屋に。


 また、次の社員を。


 阿部は顔を上げた。


 壁の向こうに、二〇四号室がある。


 そこは今、静かだった。


 いつものように、何も聞こえなかった。


 その静けさが、何よりも怖かった。

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