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夜十時の手毬  作者: サザルト


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14/21

第14話 二〇四号室を空けてください

 翌日、二〇四号室に警察が来た。


 阿部は、二〇五号室の扉の隙間から廊下を見ていた。


 制服の警察官が二人。


 それから、私服の男が一人。


 管理会社の人間らしき人物もいる。


 二〇四号室の扉は開け放たれていた。


 中で何かを確認する声が、時々廊下に漏れてくる。


 阿部は、少しだけ安心していた。


 今度は、警察が来ている。


 笠間さんの時とは違う。


 田中さんは、ただの退職扱いにはされなかった。


 行方不明として、ちゃんと調べられている。


 これで何か分かるかもしれない。


 二〇四号室に残っている何か。


 窓の外にあった痕跡。


 田中さんが見たもの。


 笠間さんが残そうとしたもの。


 警察なら、何か見つけてくれるのではないか。


 そう思いたかった。


 だが、警察官たちの動きは淡々としていた。


 部屋の中を見て、荷物を確認し、管理会社の人間と話している。


 窓の外も確認しているようだった。


 けれど、そこに特別な反応はなかった。


 阿部には、それがかえって怖かった。


 あの部屋は、外から見ればただの部屋なのだ。


 人が住み、人がいなくなった部屋。


 荷物が残されている部屋。


 窓がある部屋。


 警察が見ても、それ以上のものには見えないのかもしれない。


 小鞠のことも。


 笠間さんや田中さんが訴えていた窓を叩く音も。


 夢の中の街灯も。


 朝まで続く手毬遊びも。


 何一つ、証拠として残らない。


 阿部は扉を閉めた。


 警察に何かを言うべきか、何度も考えた。


 しかし、何を言えばいい。


 夜十時に、丘の上の街灯の下で女の子が手毬をついている。


 その子に話しかけた人間が、二〇四号室からいなくなる。


 笠間さんは、いなくなったあと、小鞠の隣に現れた。


 田中さんも、そこへ連れていかれたかもしれない。


 そんなことを話して、信じてもらえるだろうか。


 阿部は、言えなかった。


 警察が去ってから、しばらく経った。


 夕方近くになって、また呼び鈴が鳴った。


 阿部は体を強ばらせた。


 ドアスコープを覗く。


 そこには、男が二人立っていた。


 一人は、岩瀬だった。


 笠間さんを退職扱いにし、田中さんを二〇四号室に入れた、あの上司だ。


 もう一人は、阿部の知らない中年の男だった。


 落ち着いた色のスーツを着ている。


 岩瀬より年上に見えた。


 阿部は少し迷ってから、扉を開けた。


「何ですか?」


 声は自然と冷たくなった。


 知らない男が、すぐに名刺を差し出した。


「突然申し訳ありません。畠山と申します」


 阿部は名刺を受け取らなかった。


 畠山は少し手を止めたが、そのまま丁寧に頭を下げた。


「弊社の岩瀬が、ご迷惑をおかけしました」


 岩瀬は畠山の後ろで、気まずそうに立っていた。


 昨日の必死さは薄れている。


 その代わり、上司に連れてこられた人間のように顔色が悪かった。


「阿部さんでいらっしゃいますよね」


「そうです」


「できれば、少しお話を聞かせていただけませんか?」


「正直、あなた方の会社はもう信用していません」


 阿部は言った。


 畠山は表情を変えなかった。


「そう言われても仕方がないと思っています」


「今回のことは、あなた方の落ち度だと思っています」


 岩瀬がわずかに顔を上げた。


 阿部は岩瀬を見た。


「私は、この人に言いました」


 畠山が岩瀬を見る。


「笠間さんの時です。あれは退職ではないと、何度も言いました」


 岩瀬は口を開きかけたが、畠山の視線を受けて黙った。


「笠間さんの荷物は部屋に残っていました。本人だけがいなかった。窓も開いていた。明らかにおかしいと、私は言いました」


「それは本当か?」


 畠山が低い声で聞いた。


 岩瀬は目を伏せた。


「阿部さんから、そういう話は聞いていました」


「聞いていました、じゃないでしょう」


 阿部の声が強くなった。


「あなたは信用しなかった。退職願があるからといって、勝手に退職扱いにした」


「本人の字でしたので」


「それも言いました」


 阿部は岩瀬を睨んだ。


「あの手紙はおかしい。笠間さんが書こうとしていた内容ではない。そう言いましたよね」


 岩瀬は答えなかった。


 畠山が深く息を吐いた。


「岩瀬」


「申し訳ありません」


 岩瀬は頭を下げた。


「本当に申し訳ありませんでした」


 阿部は、その姿を見ても少しも気分が晴れなかった。


 謝るなら、笠間さんに謝ってほしかった。


 田中さんに謝ってほしかった。


 今さら阿部に頭を下げられても、何も戻ってこない。


「話しても、また信用しないんじゃないですか」


 阿部は畠山に言った。


「私はその時、この岩瀬さんに話しました。おかしな話も含めて。けれど、全く信用されませんでした」


「おかしな話、というのは」


 畠山が聞いた。


 阿部は二〇四号室の方を見た。


 扉は閉まっている。


 警察が入ったあとも、そこはやはり普通の部屋のように見えた。


「後ろの墓地公園に、何かいます」


 阿部は言った。


 畠山の表情がわずかに動いた。


 岩瀬も顔を上げる。


「夜十時ごろ、坂の上の街灯の下に、小さな女の子が出ます。和服を着て、手毬をついている女の子です」


 畠山は黙って聞いていた。


「その子は、自分と遊んでくれる人を探しているように見えます。夜に一人でいる子供を見て、放っておけない人間。声をかけてしまう人間。そういう人を見つける」


「それが、田中とどう関係しているんですか?」


 畠山が聞いた。


「田中さんは、その女の子に挨拶しました」


 阿部は答えた。


「そのあと、窓を叩かれています。夢の中でも、朝まで手毬遊びをさせられたと言っていました」


 岩瀬の顔が引きつった。


「そんな話を」


「あなたは信じないでしょうね」


 阿部は岩瀬に言った。


「笠間さんの時も、信じなかった」


 畠山が岩瀬を制するように軽く手を上げた。


「続けてください」


「笠間さんも、その女の子に声をかけたそうです」


 阿部は言った。


「その後、夜に窓を叩かれるようになった。部屋まで来られるようになった。眠れなくなった。最後には、部屋に荷物を残していなくなった」


「そして退職願が残っていた」


「残っていたのではありません」


 阿部はすぐに言った。


「笠間さんは、何かあった時のために手紙を私に預けました。部屋で何が起きていたのか、夜十時の女の子のこと、何かあれば調べてほしいという内容だったはずです」


「はず、というのは」


「私は中を見ませんでした。笠間さんに頼まれて、そのまま岩瀬さんに渡しました」


 阿部は岩瀬を見た。


「でも、岩瀬さんが読んだ時には、退職願になっていた」


 畠山は黙った。


「私は、その時も言いました。これはおかしいと。笠間さんが残そうとしたものとは違うと」


「しかし…」


 岩瀬が口を開きかけた。


 畠山が低い声で言った。


「岩瀬」


 岩瀬は黙った。


 阿部は続けた。


「田中さんが夢で見た男の人は、笠間さんでした。眼鏡をかけて、髪を真ん中で分けて、くたびれた背広を着ていたそうです。女の子と手をつないで歩いていたとも言っていました」


 畠山の顔が硬くなる。


「つまり、あなたは」


「笠間さんも、田中さんも、あの女の子に引きずり込まれたのだと思っています」


 阿部は言った。


「もちろん、証拠はありません。警察が信じるとも思っていません。でも、私は笠間さんの時からずっとそう言っていました」


 畠山はしばらく黙っていた。


 岩瀬は落ち着かない様子で視線をさまよわせている。


「田中さんには、最後に言いました」


 阿部は言った。


「この部屋を出た方がいい。会社に言って、別の部屋に移してもらうか、会社を辞めてでもここから離れた方がいいと」


「田中は何と」


「そんなことはできないと言っていました」


 阿部の声に苦いものが混じった。


「まだ会社に入って一週間なんです、と。そんな理由で部屋を変えてくださいなんて言えない。会社を辞めるなんて無理だと」


 畠山は目を伏せた。


「そうですか」


「岩瀬さんがよほど厳しかったのか、そういうことを言えない空気の会社だったのか、私は知りません」


 阿部は言った。


「でも、どちらにしても、会社側にもかなり問題があったと思います」


 岩瀬は何も言わなかった。


 畠山が静かに頭を下げた。


「申し訳ありません」


「私に謝られても困ります」


「それでも、申し訳ありません」


 畠山は顔を上げた。


「今お話しいただいたことは、上に報告します。警察にも、必要であれば伝えます」


「警察に話しても構いません」


 阿部は言った。


「でも、信じてくれるかどうかは分かりません」


「それはこちらで判断します」


「あなたは、信じるんですか?」


 畠山はすぐには答えなかった。


「正直に言えば、すべてを理解できたとは言えません」


「でしょうね」


「ですが、少なくとも、岩瀬が最初の段階で軽く扱ってよい話ではなかったと思っています」


 畠山は岩瀬を見た。


「岩瀬、この件は改めて社内で確認する」


「はい」


 岩瀬は小さく答えた。


 阿部はそれを見て、ふと思い出した。


「一つ聞いていいですか?」


「何でしょう」


「二〇四号室は、今どういう契約になっているんですか?」


 畠山は少し考えた。


「年契約で、弊社が借りています。こちらに出向する社員や、短期滞在の社員が使うための部屋です」


「だったら、しばらく誰も入れないでくれませんか」


 阿部は言った。


 畠山は真剣な顔になった。


「あの部屋に入った人間が、何度も呼ばれています」


「呼ばれる」


「あの女の子にです」


 阿部は二〇四号室の扉を見た。


「私の同僚の佐藤がいなくなったあと、笠間さんが入った。笠間さんがいなくなったあと、田中さんが入った。二〇四号室に入った人間が、同じように呼ばれているんです」


「分かりました」


 畠山は言った。


「少なくとも、当面は使用を止めます」


 阿部は畠山の顔を見た。


「本当ですか」


「はい」


 畠山は岩瀬に向き直った。


「岩瀬、二〇四号室は当面使用停止にする。次の入居予定があるなら、すぐに外せ」


「分かりました」


「荷物の管理も会社側でやる。新しい社員は絶対に入れるな」


「はい」


 岩瀬は力なく頷いた。


 阿部は、ようやく少しだけ息を吐いた。


「畠山さんが、少なくとも聞こうとしてくれるのは、助かります」


「いえ」


「警察が私の話を信用してくれるとは思っていません。だから、あなたが二〇四号室を止めてくれるなら、それだけでも多少は胸のつかえが取れます」


 畠山は静かに頷いた。


「この件は、私の方で扱います」


「お願いします」


「今のお話を、警察に伝えてもよろしいですか」


「構いません」


 阿部は答えた。


「ただ、もう一度言いますけど、信じてもらえるとは思っていません」


「承知しています」


 畠山は名刺を差し出した。


 今度は、阿部も受け取った。


「何かあれば、こちらへご連絡ください」


 阿部は名刺を見た。


 そこには、畠山の名前と会社名、部署名、連絡先が印刷されていた。


 岩瀬より上の立場にいる人間なのだろう。


 少なくとも、岩瀬よりはまともに話を聞いた。


 それが救いなのかどうかは、分からなかった。


「岩瀬」


 畠山が言った。


「阿部さんに改めて謝罪しろ」


 岩瀬はもう一度頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


 阿部は返事をしなかった。


 畠山と岩瀬が去っていく。


 廊下に、また静けさが戻った。


 阿部は二〇四号室の扉を見た。


 当面は使用を止める。


 畠山はそう言った。


 岩瀬にも命じた。


 それで、次の誰かが入ることは、ひとまず止まるはずだった。


 阿部はそう思いたかった。


 けれど、二〇四号室の扉を見ていると、その考えはすぐに揺らいだ。


 あの部屋は、空いた。


 佐藤がいなくなったあとも。


 笠間さんがいなくなったあとも。


 田中さんがいなくなったあとも。


 そのたびに、誰かが入った。


 会社の都合で。


 契約の都合で。


 何もなかったことにされて。


 今度こそ、本当に空いたままで済むのだろうか。


 それともまた、誰かがあの部屋に入るのだろうか。


 何も知らない誰かが。


 阿部は、閉じた扉を見つめ続けた。


 二〇四号室は、何も答えなかった。


 ただ、今も静かにそこにあった。

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