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夜十時の手毬  作者: サザルト


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15/21

第15話 二〇六号室の鈴木

 警察の捜査は、まだ続いていた。


 ただ、二〇四号室の中を調べる作業は、思っていたよりも早く終わった。


 制服の警察官が出入りしていたのは、最初の数時間だけだった。


 部屋の中を確認する。


 残された荷物を見る。


 窓の外を調べる。


 管理会社の人間から話を聞く。


 それだけで、二〇四号室の調査は一段落したようだった。


 その後、捜査はマンションの外へ移っていった。


 周辺の道路。


 坂道。


 墓地公園へ続く道。


 そして、丘の上の墓地公園。


 警察官たちは、昼間の明るい時間にそこを歩き回っていた。


 阿部は、二〇五号室の窓からそれを見ていた。


 坂の上にある街灯。


 田中さんが見た場所。


 笠間さんが向かった場所。


 小鞠が手毬をついていたという場所。


 その周辺を、警察が調べている。


 良かった。


 阿部は、そう思おうとした。


 これで、何か分かるかもしれない。


 田中さんがどこへ行ったのか。


 笠間さんがどうなったのか。


 佐藤がどうなったのか。


 少なくとも、何か一つくらい見つかるかもしれない。


 そう思いたかった。


 けれど、同時に分かってもいた。


 あの女の子の痕跡が、警察に見つかるのだろうか。


 手毬の音は、当事者にしか聞こえない。


 窓を叩く音も、隣の阿部には聞こえなかった。


 夢の中で起きることも、外からは分からない。


 小鞠が本当にそこにいたとしても、昼間の墓地公園に何が残るというのだろう。


 阿部は窓辺に立ったまま、しばらく警察の動きを見ていた。


 その時、廊下の方で扉の開く音がした。


 阿部が部屋の扉を開けると、二〇六号室の鈴木が顔を出していた。


「あ、阿部さん」


 鈴木は少し気まずそうに笑った。


「大変なことになってますね」


「ええ」


「ニュースでもやってましたよ。ここのマンションのこと」


 阿部は小さく頷いた。


 もう、ニュースになっている。


 田中美佐という若い会社員が、勤務先が借りていた部屋から姿を消した。


 警察は事件と事故の両面で捜査している。


 近くの墓地公園でも捜索が行われている。


 そういう扱いになっているのだろう。


「阿部さん、あれですよね」


 鈴木は言いにくそうに続けた。


「いなくなった人たちと、面識があったんですよね」


 阿部は答えに詰まった。


 面識があった。


 その言い方は間違っていない。


 けれど、それだけでは済まなかった。


 佐藤は、阿部の同僚だった。


 笠間さんは、隣の部屋に来た人だった。


 田中さんも、隣の部屋に来た人だった。


 みんな、二〇四号室に入った。


 そして、いなくなった。


「ありました」


 阿部は言った。


「そうですか」


 鈴木はそれ以上、すぐには聞かなかった。


 その沈黙が、かえってありがたかった。


 阿部は窓の外に目を向けた。


 警察官が、坂の上で誰かに話を聞いている。


「もう少し、ちゃんと対応できていれば」


 阿部はぽつりと言った。


「助けられたかもしれません」


「阿部さんが、ですか」


「はい」


 阿部は目を伏せた。


「最後の田中さんの時も、私は言いました。会社を辞めた方がいい。少なくとも会社に言って、住む場所を変えてもらった方がいいって」


「ちゃんとアドバイスしたんじゃないですか」


「でも、駄目でした」


「それは、阿部さんのせいじゃないと思いますよ」


 鈴木はすぐに言った。


 阿部は少し驚いて、鈴木を見た。


 鈴木は困ったように頭を掻いた。


「いや、詳しい事情は知りませんけど。でも、そこまで言ったなら、阿部さんはちゃんとやったんじゃないですか」


「そう思いたいです」


 阿部は言った。


「自分でも、そう思って納得したいんです。でも」


 言葉が続かなかった。


 田中さんには、言えた。


 遅かったかもしれないが、言った。


 部屋を出るように言った。


 会社を辞めてでも逃げた方がいいと言った。


 けれど、笠間さんの時は違う。


 最初に相談された時、阿部は逃げた。


 怖くて、関わりたくなくて、聞きたくないと言った。


 知っていても言わないと突き放した。


 あの時、ちゃんと話していれば。


 せめて、見てはいけない、声をかけてはいけないと教えていれば。


 何かが変わっていたかもしれない。


 変わらなかったかもしれない。


 それでも、後悔は残った。


「笠間さんの時は、何もできませんでした」


 阿部は言った。


「怖かったんです。関わりたくなかった。自分まで同じ目に遭うかもしれないと思って」


 鈴木は黙って聞いていた。


「本当に、申し訳ないことをしたと思っています」


「でも」


「無事でいてほしいとは思っています」


 阿部は坂の上を見た。


 昼間の街灯は、何もないただの柱に見えた。


「あの人たちが、どこかで無事でいてくれたらいいと思っています。でも、もし会えたとしても、笠間さんはきっと私を許してくれないでしょう」


「そんなこと」


「そう思います」


 阿部は小さく笑った。


 笑ったつもりだったが、うまく笑えなかった。


 鈴木は少し困ったような顔をした。


「阿部さん、そんなに落ち込まないでくださいよ」


「すみません」


「いや、謝ることじゃないですけど」


 鈴木は少し考えてから言った。


「あの、よかったら、あとで少し飲みませんか」


「飲む?」


「はい。今日、自分も休み前なんです。阿部さんも、明日お休みって前に言ってませんでしたっけ」


「ああ、はい」


「一人で考えてると、余計に沈むじゃないですか。自分でよければ、少し付き合いますよ」


 阿部は迷った。


 誰かと飲む気分ではなかった。


 けれど、一人で部屋に戻って、二〇四号室の壁の向こうを気にしながら過ごすのもつらかった。


「では、少しだけ」


「じゃあ、うちでどうですか。適当に買ってきます」


「いえ、私も何か持っていきます」


「そんな、いいですよ」


「いえ。お邪魔するので」


 鈴木は少し笑った。


「じゃあ、あとで」


 その日の夜、阿部は二〇六号室を訪ねた。


 二〇六号室に入るのは初めてだった。


 間取りは自分の部屋とほとんど同じだった。


 ただ、家具の配置が違うだけで、まったく別の部屋に見える。


 テーブルの上には、缶ビールと簡単なつまみが置かれていた。


「すみません、本当に適当で」


「いえ、十分です」


 阿部は持ってきた惣菜を置いた。


 鈴木は仕事の都合で、この町へ来ているらしかった。


 滞在は数か月の予定だという。


 だから、この町のことをまだほとんど知らない。


「ゴミって、燃えるごみは何曜日でしたっけ」


「月曜と木曜です」


「あ、やっぱりそうですよね。掲示板を見ても、いまいち分かりにくくて」


「資源ごみは少し面倒です。瓶と缶の日が別で」


「うわ、ちゃんと見ないと駄目ですね」


 そんな話をした。


 近くのスーパー。


 遅くまで開いている店。


 駅まで歩く時の道。


 雨の日に水が溜まりやすい場所。


 この町に何年かいる阿部は、知っている範囲で答えた。


 普通の会話だった。


 あまりにも普通で、少しだけ気が楽になった。


 二〇四号室の話ばかりしていると、頭の中がそこから出られなくなる。


 けれど、ゴミ出しの曜日やスーパーの場所を話している間だけは、少しだけ現実に戻れる気がした。


「阿部さん、結構長いんですね」


「まあ、そうですね」


「自分、短期で来てるだけなんで、こういう話は助かります」


「私で分かることなら」


 鈴木は缶ビールを手に取った。


「それにしても、二〇四号室はしばらく空くんですよね」


 その言葉で、阿部の手が止まった。


「そう聞いています」


「会社の人が来てたって言ってましたよね」


「はい。もう新しい人は入れないと言っていました」


「なら、少しは安心ですね」


「そうですね」


 阿部はそう答えた。


 そうであってほしいと思った。


 二〇四号室に、もう新しい人は入らない。


 警察も動いている。


 会社も、少なくとも次の社員を入れることは止めた。


 これでもう、犠牲者は出ないかもしれない。


 阿部は、そう思いたかった。


 そう願った。


 鈴木がテレビをつけた。


「そういえば、さっきニュースやってたんですよ。この辺の」


 画面には、しばらく天気予報が映った。


 鈴木がチャンネルを変える。


 バラエティ番組。


 ドラマの再放送。


 地方ニュース。


 そこで、見覚えのある映像が出た。


 マンションの外観だった。


 阿部は無意識に体を強ばらせた。


 画面の下には、女性会社員行方不明の文字が出ている。


 アナウンサーが、落ち着いた声で読み上げていた。


 市内のマンスリーマンションに滞在していた会社員の女性が、数日前から行方不明になっている。


 警察は事件と事故の両面で捜査している。


 周辺の墓地公園でも捜索が行われた。


 田中美佐の名前が、画面に表示された。


 阿部は息を止めた。


 鈴木も黙った。


 ニュースでは、笠間さんのことには触れていなかった。


 佐藤のことにも触れていなかった。


 ただ、田中さんがいなくなったという事実だけが、短く伝えられていた。


「変えますね」


 鈴木が小さく言った。


 画面が切り替わる。


 明るい音楽が流れた。


 誰かの笑い声が聞こえた。


 それだけで、さっきまでのニュースがなかったことのようになった。


 阿部は缶を持ったまま、しばらく動けなかった。


 二〇四号室は、もう空いたままだ。


 警察も動いている。


 会社も、次の人間は入れないと言った。


 畠山は約束した。


 これで終わる。


 阿部は、そう思いたかった。


 そう願うしかなかった。


 けれど、テレビから流れる笑い声の向こうで、阿部の頭には、閉じた二〇四号室の扉が浮かんでいた。


 静かな扉。


 何も聞こえない扉。


 誰もいないはずの部屋。


 もう誰も入らないはずの部屋。


 そのはずだった。

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