第16話 あと一人だね
それから、一週間ほどが経った。
二〇四号室は、空いたままだった。
警察の捜査は続いていたが、目に見えて大きな動きはなかった。
時々、警察官がマンションに来る。
管理会社の人間と話す。
周辺で聞き込みをする。
墓地公園の方へ歩いていく。
けれど、それだけだった。
田中さんは見つからなかった。
笠間さんのことも、佐藤のことも、何か新しく分かったという話は聞かなかった。
それでも、二〇四号室に新しい人間が入ることはなかった。
扉は閉まったまま。
表札もない。
廊下を通っても、中から物音はしない。
何も聞こえないことが安心につながらないのは、もう分かっていた。
それでも、少なくとも誰も住んでいない。
それだけで、阿部は少しだけ息ができるようになっていた。
鈴木とは、その後も時々話すようになった。
二〇六号室の鈴木。
阿部にとっては、二〇四号室とは反対側の隣人だった。
鈴木はこの町に来たばかりで、分からないことが多いらしい。
ゴミの出し方。
近くの店。
駅までの道。
雨の日に水が溜まりやすい場所。
そういうことを聞かれるたびに、阿部は知っている範囲で答えた。
そのうち、休み前の夜には、どちらかの部屋で少し飲むこともあった。
深い話をすることもあれば、何でもない話だけで終わることもある。
二〇四号室のことを話さない夜もあった。
そういう時間は、阿部にとってありがたかった。
怪異のことばかり考えていると、頭の中がどこまでも暗くなる。
けれど、鈴木と缶ビールを開けて、近くのコンビニの弁当はどれがましかとか、駅前のラーメン屋は夜遅くまでやっているとか、そんな話をしている間だけは、普通の生活に戻れた気がした。
その夜は、阿部の部屋で飲んでいた。
テーブルの上には、缶ビールが二本。
コンビニで買った惣菜と、鈴木が持ってきたスナック菓子が置かれている。
テレビはついていなかった。
二人とも、あのニュースを見てから、何となくテレビをつける気になれなかった。
「そういえば」
鈴木が缶ビールを手にしたまま言った。
「この前、ちょっと変な人たちを見たんですよ」
「変な人たち?」
阿部は何気なく聞き返した。
「ほら、すぐそこにコンビニあるじゃないですか」
「ああ、坂を下りたところの」
「そこに行く途中で、親子に会ったんです」
親子。
その言葉に、阿部は少しだけ眉を動かした。
けれど、その時はまだ、ただの話だと思っていた。
「親子?」
「はい。お父さんとお母さんと、小さい女の子です」
鈴木は軽く笑った。
「で、その奥さんが、田中さんにすごく似てたんですよ」
阿部の手が止まった。
「田中さんに」
「はい。最初、本人かと思ったくらいで」
「お前、飲みすぎて目がおかしくなってたんじゃないか」
阿部は冗談めかして言った。
そうであってほしかった。
鈴木は苦笑した。
「いやいや、その時はまだ飲んでませんよ。コンビニ行く途中でしたから」
「そうか」
「それで、ちょっと変だったんです」
「何が」
「服装が、みんなちぐはぐで」
鈴木は記憶をたどるように天井を見た。
「奥さんは普通の私服なんですよ。田中さんに似た人です。でも、旦那さんはヨレヨレの背広みたいなのを着ていて」
阿部の喉が乾いた。
「背広」
「はい。くたびれた感じの。仕事帰りっていうより、なんか古いというか、妙にくたびれてる感じで」
「顔は」
「眼鏡をかけてました。髪は真ん中で分けてて、真面目そうな感じでしたね」
阿部の指から、缶ビールが滑った。
缶が床に落ちる。
中身が少しこぼれ、畳に染みた。
「うわ、大丈夫ですか、阿部さん」
鈴木が慌てて身を乗り出した。
阿部は缶を拾うこともできず、鈴木を見た。
「お前、それどこで見た」
「え」
「どこで見たんだ」
「いや、だから、すぐそこのコンビニに行く途中ですって。通りのところで」
「いつ」
「一昨日くらいです」
「一昨日」
「はい」
阿部は息を整えようとした。
けれど、うまくいかなかった。
心臓が嫌な鳴り方をしている。
「声をかけたのか」
「え?」
「その人たちに、声をかけたのか」
鈴木は少し戸惑った顔をした。
「かけましたけど」
阿部は目を閉じた。
「何て」
「田中さんに似てたんで、田中さんですかって」
「それで」
「そしたら、その女性がこっちをちらっと見て」
鈴木は首を傾げた。
「私は笠間です、って言ったんです」
阿部は、床に膝をつきそうになった。
「笠間って、言われたのか」
「はい。そう言われましたけど」
「お前、この前話しただろ」
「何をですか」
「田中さんの前に二〇四号室に住んでいた人の苗字が、笠間だったって」
鈴木は少し考えたあと、気まずそうな顔をした。
「ああ……そうでしたっけ。すみません、そこまでちゃんと覚えてなかったです」
阿部は鈴木を責める気にはなれなかった。
鈴木にとっては、ただ聞いたことのある名前にすぎない。
だが、阿部にとっては違う。
笠間。
田中さんに似た女が、自分をそう名乗った。
父親役の男は、笠間さんに似ている。
母親役の女は、田中さんに似ている。
そして、真ん中には小鞠がいる。
「女の子は」
阿部は聞いた。
「真ん中にいた女の子は、どんな子だった」
「小さい子でした」
「服は」
「和服でした」
鈴木は言いながら、少し顔をしかめた。
「そうなんですよ。そこも変だったんです。両親に手をつながれて、すごく嬉しそうに歩いてるんですけど、女の子だけ和服なんですよ。髪もおかっぱで」
阿部はもう、聞くまでもなかった。
小鞠だ。
あの女の子だ。
二〇四号室が空いたのに。
誰も入れていないのに。
今度は、外で現れた。
しかも、小鞠だけではない。
笠間さんと、田中さんらしきものを連れて。
「ほかに、何か言われたか」
阿部は聞いた。
「ほかにですか」
「何でもいい。何か言っていなかったか」
鈴木は少し考えた。
「ああ、そういえば」
「何だ」
「女の子が、あと一人だねって言ってました」
部屋の空気が、急に冷たくなった気がした。
「あと一人」
「はい」
「女の子が、そう言ったのか」
「そうです」
「それで」
「そしたら、その旦那さんと奥さんも、そうだね、あと一人だねって」
鈴木は困ったように笑った。
「子供をあやしてるみたいな感じでした。なんか、家族で話してるみたいで」
阿部は何も言えなかった。
あと一人。
小鞠が言った。
笠間さんらしき男も言った。
田中さんらしき女も言った。
あと一人だね。
何が、あと一人なのか。
遊び相手か。
家族か。
父親役と母親役がそろったから、次は兄か。
それとも、あと一人そろえば、何かが完成するのか。
阿部の頭の中で、いくつもの考えが渦を巻いた。
「鈴木」
「はい」
「その人たちの目を見たか」
「目?」
「目を見たのか」
鈴木は少し不安そうに首を振った。
「いや、ちゃんとは見てないです。田中さんに似てるなと思って声をかけただけで。向こうがちらっとこっちを見たので、なんか気まずくて」
「本当に見てないな」
「見てないと思います」
「思いますじゃなくて」
「見てないです」
鈴木の声にも、少し緊張が混じった。
「何なんですか、阿部さん。急に怖いんですけど」
阿部は鈴木に向き直った。
「これから絶対に、丘の上を見るな」
「丘の上?」
「あの墓地公園だ」
「え、でも」
「絶対に行くな」
鈴木は困惑した顔をした。
「いや、元々そんなに見てないですけど。たまに昼間、暇な時に散歩しに行ったくらいで」
「もう行くな」
「どうしてですか」
「行くな」
「いや、理由くらい教えてくださいよ」
鈴木はさすがに真顔になっていた。
さっきまでの軽さは消えている。
阿部の様子が尋常ではないと分かったのだろう。
「自分の勘だ」
阿部は言った。
「全部、推測だ。でも、お前は目をつけられているかもしれない」
「俺が?」
「二〇四号室がずっと空いているから、別の部屋の人間を探し始めたのかもしれない」
「別の部屋って」
「二〇六号室だ」
鈴木の顔色が変わった。
「それ、本当の話ですか」
「本当だ」
阿部は即答した。
「少なくとも、私はそう思っている」
「でも、俺はただ声をかけただけですよ」
「笠間さんも、最初はそうだった」
鈴木は黙った。
「田中さんも、挨拶だけだった」
阿部は続けた。
「声をかける。目を合わせる。相手がこちらを見つける。それだけで、あいつは来る」
「あいつって」
「小鞠だ」
鈴木の喉が動いた。
「その、和服の女の子ですか」
「そうだ」
「じゃあ、俺はどうすればいいんですか」
「墓地公園には行くな。丘の上の街灯も見るな。あの三人に会っても近づくな。話しかけるな。返事をするな。目を見るな」
「それで、何とかなるんですか」
阿部は答えに詰まった。
何とかなる。
そう断言できるはずがなかった。
笠間さんも救えなかった。
田中さんも救えなかった。
何をすれば助かるのか、阿部は知らない。
ただ、何をしてはいけないのかだけは、少しずつ分かってきただけだった。
「今までの感じだと」
阿部は慎重に言った。
「多分、それで大丈夫だと思う」
「多分、ですか」
「すまない。でも、それ以上は分からない」
鈴木は唇を噛んだ。
さっきまで冗談半分に話していた男の顔ではなかった。
「分かりました」
「本当に分かってくれ」
「分かりました。行きません。話しかけません。見ません」
「絶対だ」
「はい」
鈴木は何度も頷いた。
その日の飲みは、そこで終わった。
もう酒を飲む空気ではなかった。
鈴木は落ち着かない様子で二〇六号室へ戻っていった。
阿部はこぼれたビールを拭き、空き缶を片づけた。
それから、しばらく部屋の中央に立っていた。
壁の向こうには、二〇四号室がある。
反対側には、二〇六号室がある。
鈴木は、そちらに戻った。
二〇四号室を空けたことで、終わると思っていた。
誰もあの部屋に入れなければ、もう小鞠は新しい相手を見つけられないと思っていた。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
二〇四号室が空いたから、あの子は外へ出てきたのではないか。
家族ごっこを完成させるために。
遊び相手を増やすために。
あるいは、まったく別の理由で。
阿部には分からなかった。
ただ、あと一人という言葉だけが、頭から離れなかった。
あと一人。
それは鈴木のことなのか。
それとも、自分のことなのか。
父親役。
母親役。
娘役。
そこに足りない一人とは、何なのか。
兄なのか。
友達なのか。
それとも、遊びが終わるために必要な最後の一人なのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。
阿部は布団に入った。
酒が回っていた。
頭は重く、体もだるい。
それでも、なかなか眠れなかった。
二〇四号室は静かだった。
二〇六号室も静かだった。
どちらからも、何も聞こえない。
その静けさの中で、阿部は何度も同じ言葉を思い出していた。
あと一人だね。
そう言って笑う小鞠の姿が、見たこともないのに頭に浮かぶ。
その両側に、笠間さんと田中さんが立っている。
手をつないでいる。
家族のように。
幸せそうに。
眠りに落ちる直前、阿部はふと思った。
もし、あの三人が家族なら。
あと一人とは、何の役なのだろう。




