第17話 便利なコンビニ
それから数日が経った。
鈴木には、何も起きていなかった。
少なくとも、本人はそう言っていた。
窓を叩かれたわけではない。
夢に小鞠が出てきたわけでもない。
二〇六号室の中で、手毬の音が聞こえたわけでもないらしい。
阿部はそのことに、少しだけ安堵していた。
前の二人とは違う。
今回は違う。
笠間さんの時は、阿部は逃げた。
聞きたくないと言った。
関わりたくないと思った。
田中さんの時は、話した。
けれど、話した時にはもう遅かったのかもしれない。
田中さんは窓を叩かれていた。
夢の中で小鞠と遊ばされていた。
笠間さんらしき男の声まで聞いていた。
すでに、かなり深く巻き込まれていた。
だが、鈴木は違う。
鈴木には、早い段階で言えた。
墓地公園へ行くな。
丘の上を見るな。
あの親子を見ても近づくな。
話しかけるな。
返事をするな。
目を見るな。
言えることは全部言った。
そのはずだった。
だから、大丈夫かもしれない。
阿部はそう思いたかった。
だが、その安心は長く続かなかった。
ある日の夜、鈴木がまた阿部の部屋へ来た。
休み前ではなかったので、酒ではなく、缶コーヒーとコンビニで買った菓子を持ってきていた。
「すみません、ちょっとだけいいですか?」
「どうした」
「いや、大したことじゃないんですけど」
鈴木はそう言いながらも、少し落ち着かない顔をしていた。
阿部は嫌な予感がした。
「何かあったのか」
「また見たんですよ」
鈴木は小さく言った。
「例の親子」
阿部は息を止めた。
「どこで」
「コンビニの近くです」
「また、あのコンビニか」
「はい」
鈴木は気まずそうに笑った。
「でも、今回は声かけてないです。阿部さんに言われた通り、目も合わせないようにしました」
「本当に目を見てないんだな」
「見てません」
「話しかけてもいない」
「はい」
「向こうから何か言われたか」
「いえ。たぶん、何も」
「たぶん?」
「いや、聞こえたような気もしたんですけど、気のせいかもしれないです」
阿部は眉を寄せた。
「何が聞こえた」
「よく分からないです。笑い声みたいな」
「女の子の?」
「たぶん」
鈴木は缶コーヒーを両手で持った。
「でも、本当に通り過ぎただけです。向こう側の道を歩いてて、俺は反対側を歩いてたんで」
阿部は黙っていた。
鈴木は無事だ。
今のところは。
けれど、また見た。
それも、コンビニの近くで。
「鈴木」
「はい」
「やっぱり、そのコンビニは使わない方がいい」
「え」
「危ない」
鈴木は困ったような顔をした。
「でも、便利なんですよね」
「便利でもだ」
「いや、分かってます。阿部さんが心配してくれてるのは分かってます。でも、あそこが一番近いんですよ」
「あの道を通らないと行けないだろ」
「まあ、そうですね」
「だったら、やめた方がいい」
「でも、見かけた時は目を伏せますし、話しかけませんから」
鈴木はそう言った。
それは、阿部が教えた通りだった。
阿部の言葉を軽く見ているわけではない。
無視しているわけでもない。
鈴木なりに、守ろうとはしている。
だからこそ、阿部は強く言えなかった。
「数日経っても、何も起きてないですし」
鈴木は続けた。
「もちろん、気味は悪いですけど。たぶん、大丈夫ですよ」
「たぶん、で済ませていい話じゃない」
「そうなんですけど」
鈴木は視線を落とした。
「でも、生活もありますから」
生活。
その言葉に、阿部は言い返せなかった。
その通りだった。
鈴木はこの町に短期で来ている。
土地勘も薄い。
自炊道具もあまり揃っていない。
近くで買い物を済ませられる場所は限られている。
たしかに、あのコンビニは便利だった。
けれど、阿部にはどうしても納得できなかった。
「あのコンビニ、二十四時間じゃないよな」
「そうですね。夜中は閉まります」
「それなら、そこまで便利でもないだろ」
「いや、でも弁当とかパンとか買えますし」
「スーパーもある」
「スーパーはちょっと遠いじゃないですか」
「駅前の弁当屋は」
「閉まるの早いですし」
鈴木は少し笑った。
「俺、だいたいコンビニで済ませちゃうんですよ」
「毎日か」
「毎日ではないですけど、まあ、ほとんど」
「弁当とか、パンとか、カップ麺とかか」
「そんな感じですね」
「体、大丈夫なのか」
「大丈夫ですよ。若いんで」
鈴木は冗談のように言った。
阿部は笑えなかった。
自分には耐えられない。
そんな生活を続けるのもそうだが、そのためにあの道を通ることが耐えられない。
けれど、鈴木は本気で困っていないようだった。
怪異よりも、毎日の食事の方が目の前の問題なのだ。
それが普通なのかもしれない。
鈴木にとっては、小鞠も、笠間さんらしき男も、田中さんに似た女も、まだどこか現実味のないものなのだろう。
見かけたら怖い。
でも、目を合わせなければいい。
話しかけなければいい。
そう思っている。
阿部も、そう思いたかった。
だが、阿部には分かっていた。
小鞠の動きは、以前と違ってきている。
最初は、夜十時だった。
丘の上の街灯の下だった。
あの場所に、小鞠が一人で現れた。
見た人間。
声をかけた人間。
そういう者を、二〇四号室まで追ってきた。
だが、今は違う。
鈴木が見かけたのは、夕方だったらしい。
まだ外は明るい時間だった。
しかも、小鞠は一人ではなかった。
笠間さんらしき男。
田中さんに似た女。
そして、小鞠。
三人で歩いていた。
親子のように。
家族のように。
さらに、場所も違う。
墓地公園の入口ではない。
坂の上の街灯の下でもない。
コンビニへ行く道。
人通りもあり、車も通る場所。
小鞠たちは、そこまで出てきている。
時間が広がっている。
人数が増えている。
場所が広がっている。
何もかも、以前とは違う。
それなのに、鈴木は大丈夫だと言う。
「鈴木」
「はい」
「もう一回言うぞ」
阿部はできるだけ落ち着いた声で言った。
「その親子を見ても、近づくな」
「はい」
「話しかけるな」
「はい」
「返事もしない」
「分かってます」
「目を見るな」
「それも分かってます」
「墓地公園には行くな」
「行ってません」
「丘の上も見るな」
「見てません」
鈴木は少しだけ困ったように笑った。
「阿部さん、俺、ちゃんと守ってますよ」
その言葉に、阿部は詰まった。
そうだ。
鈴木は守っている。
阿部が言ったことを、少なくとも本人なりには守っている。
それでも、不安は消えなかった。
「守ってるなら、いい」
阿部は言った。
「でも、気をつけろ」
「はい」
「本当に」
「分かりました」
鈴木は頷いた。
しかし、その顔にはまだ、どこか軽さが残っていた。
仕方がないのかもしれない。
鈴木はまだ、窓を叩かれていない。
夢の中で朝まで手毬遊びをさせられてもいない。
部屋の中に声が聞こえたわけでもない。
ただ、変な親子を何度か見かけただけだ。
阿部の話は、どこまでいっても憶測だった。
二〇四号室が空いたから、別の部屋の人間を探しているのかもしれない。
鈴木が目をつけられているのかもしれない。
あと一人という言葉は、鈴木を指しているのかもしれない。
すべて、かもしれない、だった。
だから、強制はできない。
コンビニを使うな。
外へ出るな。
生活を変えろ。
そんなことを、隣人でしかない阿部が命令することはできなかった。
「でも、本当に危ないと思ったら、すぐ言えよ」
阿部は言った。
「何か変なことがあったら、すぐに」
「分かりました」
「夜でもいい」
「ありがとうございます」
鈴木は少し申し訳なさそうに笑った。
「なんか、心配かけてすみません」
「心配くらいさせろ」
「はい」
その日は、それで終わった。
鈴木は二〇六号室へ戻っていった。
阿部は一人で部屋に残った。
壁の向こうには、二〇四号室がある。
反対側には、二〇六号室がある。
二〇四号室は空いたままだった。
誰もいない。
何も聞こえない。
もう新しい人間は入らない。
畠山はそう約束した。
それで終わるはずだった。
だが、小鞠は終わっていない。
鈴木は、今もあの親子を見かけている。
場所は少しずつ、墓地公園から離れている。
時間も少しずつ、夜十時から離れている。
それでも鈴木は、大丈夫だと言った。
阿部は、それ以上言えなかった。
今回は、前とは違う。
言えることは全部言った。
危ないとも言った。
近づくなとも言った。
見てはいけないとも言った。
鈴木は、それを聞いてくれた。
それでも、本当に大丈夫なのか。
そこだけは、分からなかった。
分からないことが、怖かった。
そして、あの時もっと強く言っておけばよかったと、あとで後悔するのではないか。
その考えだけが、いつまでも阿部の胸の奥に残っていた。




