第18話 常連なんで
数日経っても、鈴木には何も起きていなかった。
阿部は、それを喜ぶべきなのだと思った。
窓を叩かれていない。
夢にも出ていない。
二〇六号室の中で、手毬の音を聞いたわけでもない。
小鞠が部屋の前に立っていたわけでもない。
鈴木は普通に仕事へ行き、普通に帰ってきて、普通にコンビニの袋を提げて廊下を歩いていた。
それだけ見れば、何も問題はなかった。
けれど、阿部には安心できなかった。
鈴木は、まだあの三人を見かけていた。
小鞠。
笠間さんらしき男。
田中さんに似た女。
三人は、以前よりも少しずつ近い場所に現れるようになっている。
それなのに、鈴木は大丈夫だと言う。
大丈夫です。
見かけても、見なきゃいいんですから。
目だけは合わせませんから。
その言葉を聞くたび、阿部の胸の奥がざわついた。
ある日の夕方、阿部が仕事から帰ってくると、ちょうど鈴木もマンションの入口へ入ってくるところだった。
手には、コンビニの袋を提げている。
阿部は、その袋を見た。
見覚えのあるロゴだった。
「あのコンビニ、また行ったのか」
阿部が言うと、鈴木は少し気まずそうに笑った。
「あ、はい」
「使わない方がいいって言ったよな」
「分かってます。分かってますけど」
鈴木は袋を軽く持ち上げた。
「便利なんですよ」
「便利でも、危ないって言っただろ」
「でも、ちゃんと気をつけてますよ」
鈴木は、前にも言ったのと同じような口調で答えた。
「見かけても、見なきゃいいんですから」
阿部は黙った。
その言い方が軽かった。
軽すぎた。
けれど、鈴木本人は、阿部の忠告を無視しているつもりではないのだろう。
「それに、あそこのコンビニ、常連なんで」
「常連?」
「はい。店員さんとも結構話すんですよ」
鈴木は少し楽しそうに言った。
「こっちに来たばかりの頃、ゴミ袋の種類とか、支払いのこととか、いろいろ教えてもらって。顔も覚えてもらってますし」
「それでも、別の店にした方がいい」
「別の店、遠いじゃないですか」
「駅前まで行けばあるだろ」
「駅前はちょっと面倒なんですよね」
鈴木は悪びれた様子もなく言った。
「それに、あそこ、パンがうまいんですよ」
「パン?」
「はい。店で焼いてるやつです。コンビニって言っても、あそこ、ちょっと変わってるじゃないですか。小さいベーカリーみたいなのがあって」
阿部は、その店を思い出した。
たしかに、あのコンビニには小さなパンの棚がある。
普通の袋入りのパンとは別に、店内で焼いたものが並んでいた。
この辺りでは、それなりに評判がいい。
「朝行くと、焼きたてがあるんですよ」
鈴木は袋の中を覗いた。
「今日も買えました。これから食べるやつです」
「そんな理由で行ってるのか」
「そんな理由って言われると困りますけど、けっこう大事ですよ」
鈴木は笑った。
「短期でこっちに来てると、食べるものが面倒で。スーパーも閉まるのが早いですし」
「あのコンビニも二十四時間じゃないだろ」
「それはそうですけど、自分の生活時間にはちょうどいいんです。仕事帰りに寄れますし」
鈴木は袋を持ち直した。
「弁当もあるし、パンもあるし、コーヒーもある。店員さんも感じいいですし」
「店員と仲がいいかどうかの話じゃない」
「分かってますって」
鈴木は軽く手を振った。
「阿部さんが言いたいことは分かってます。あの三人を見たら危ないってことですよね」
「分かってるなら」
「でも、見かけても大丈夫でしたから」
阿部は息を呑んだ。
「また見たのか」
鈴木は、しまった、という顔をした。
「あ」
「いつだ」
「いや、本当に大したことじゃないです」
「いつ見た」
「昨日の朝です」
「朝?」
「はい。コンビニの帰りに」
鈴木は言いにくそうに視線を逸らした。
「駐車場を出ようとした時、道路の向こう側にいました」
「三人で?」
「はい」
「小さい女の子と、背広の男と、田中さんに似た女性か」
「そうです」
「どこに立ってた」
「道路を挟んだ反対側の歩道です。三人で並んでました」
「声をかけたのか」
「かけてません」
「目は」
「見てません」
「本当に」
「本当に見てません」
鈴木は少しむっとしたように言った。
「阿部さんにあれだけ言われてるんですから、さすがにそこは守ってますよ」
阿部は口を閉じた。
鈴木は守っている。
少なくとも、本人はそう言っている。
墓地公園には行っていない。
丘の上を見ていない。
三人を見かけても近づいていない。
声もかけていない。
目も合わせていない。
それなら、大丈夫なのかもしれない。
そう思いたかった。
「コンビニの前まで来てたんだな」
「前って言っても、道路の反対側ですよ」
「それでも近い」
「そうですかね」
「前は、墓地公園の中か、その周辺にしかいなかったんだ」
阿部は言った。
「夜十時に、墓地公園の街灯の下にいた。そこから始まった」
「はい」
「でも、今は違う。夕方にも出る。朝にも出る。墓地公園から離れた場所にも出る」
鈴木の笑みが少しだけ薄れた。
「それに、三人でお前の行く先に現れてる」
「たまたまじゃないですか」
「そうは思えない」
「でも、何もされてませんよ」
「今は、だろ」
「それはそうですけど」
「墓地公園にいたものが、コンビニの前まで来てるんだぞ」
阿部は鈴木を見た。
「俺には、かなり危なく見える」
「……でも」
「でも?」
「俺、ちゃんと見ないようにしてますから」
鈴木は言った。
「見かけたら下を向きます。向こうが道の反対側にいたら、反対方向を見るようにもしてます。話しかけません。返事もしません」
「それは分かってる」
「だったら、大丈夫じゃないですか」
鈴木は少し困ったように笑った。
「目だけは合わせませんから」
その言葉に、阿部は嫌なものを感じた。
目だけは。
まるで、それさえ守れば大丈夫だと思っている。
いや、そう思わせたのは阿部自身だった。
目を見るな。
声をかけるな。
返事をするな。
近づくな。
阿部が知っている対策は、それくらいしかない。
だから鈴木は、それを守れば大丈夫だと思っている。
責めることはできなかった。
「大丈夫ですよ」
鈴木は続けた。
「数日経っても何もないですし」
「何もないから大丈夫とは限らない」
「でも、阿部さんだって、どうなったら危ないか、はっきり分かってるわけじゃないですよね」
阿部は答えられなかった。
鈴木は慌てて手を振った。
「あ、すみません。責めてるわけじゃないです」
「いや」
「ただ、自分にも生活がありますから」
「それは分かってる」
「仕事もありますし、飯も食わないといけないですし」
鈴木は袋を見た。
「短期滞在だから、自炊道具を全部揃えるのも面倒なんですよ。毎日外食するほど余裕もないですし」
阿部は何も言えなかった。
その理屈は分かる。
怪異の危険があるから、コンビニへ行くな。
そう言うのは簡単だった。
だが鈴木からすれば、目の前にある生活を変えろと言われているのと同じなのだ。
食事。
仕事帰りの買い物。
朝の焼きたてのパン。
顔を覚えてくれた店員。
短期滞在の町で、鈴木が少しずつ作った日常。
証拠もない怪異の話だけで、それをすべて手放せと言えるだろうか。
阿部には言えなかった。
「鈴木」
「はい」
「それでも、できるだけ別の店を使ってくれ」
「できるだけ、ですね」
「そうだ。せめて毎日はやめてくれ」
「分かりました」
鈴木は頷いた。
「毎日はやめます」
「本当だな」
「本当です」
「あの三人を見たら、すぐ離れろ」
「はい」
「少しでも近づいてきたら、その場から逃げろ」
「逃げるって、道端でですか」
「そうだ」
鈴木は困ったように笑った。
「それ、傍から見たらだいぶ変な人ですよ」
「変な人でいい」
阿部の声が強くなった。
「消えるよりはいいだろ」
鈴木は笑うのをやめた。
「すみません」
「いや」
「分かりました。逃げます」
「頼む」
阿部は言った。
鈴木は真面目な顔で頷いた。
それでも、阿部には分かっていた。
鈴木はまだ、本当の意味では分かっていない。
怖がってはいる。
気をつけてもいる。
だが、どこかでまだ、自分は大丈夫だと思っている。
見なければ大丈夫。
目を合わせなければ大丈夫。
言われたことを守っていれば大丈夫。
その気持ちは、阿部にも理解できた。
人は、自分の生活が崩れるほどの危険を、そう簡単には信じられない。
まして相手は、隣人の話す怪異だ。
証拠はない。
警察も何も見つけていない。
二〇四号室は空いたまま。
鈴木の部屋にも何も起きていない。
それで、コンビニへ行くなと強く命令することはできなかった。
「阿部さん」
「ん?」
「本当に心配してくれてるのは分かってます」
鈴木は少し照れたように言った。
「ありがとうございます」
「感謝されるようなことじゃない」
「いや、でもありがたいですよ。こっちに来て、知り合いも少ないんで」
そう言われると、阿部は余計に言葉を失った。
鈴木は、阿部の忠告を軽く見ているわけではない。
ただ、まだ危機感が足りないだけだった。
「とにかく、気をつけろよ」
「はい」
「何かあったら、すぐ来い」
「分かりました」
鈴木はコンビニの袋を持ち直した。
「じゃあ、自分、飯食ってきます」
「ああ」
「あ、よかったらパン一個いります?」
「いらない」
「うまいんですけどね」
「今はそういう話じゃないだろ」
「すみません」
鈴木は苦笑して、二〇六号室へ戻っていった。
阿部は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
二〇四号室の扉を見る。
そこは空いたままだ。
誰もいない。
誰も入らない。
そのはずだった。
反対側の二〇六号室では、鈴木がコンビニの袋を開けているのだろう。
袋の擦れる音が、かすかに聞こえた。
普通の生活音だった。
その音が、妙に遠く感じられた。
今回は、前とは違う。
阿部は自分に言い聞かせた。
笠間さんの時は、逃げた。
田中さんの時は、遅かった。
でも、鈴木には言った。
危ないと言った。
墓地公園へ行くなと言った。
丘の上を見るなと言った。
三人を見ても近づくなと言った。
話しかけるな。
返事をするな。
目を見るな。
できるだけコンビニも使うな。
言えることは、すべて言った。
鈴木はまだ、窓を叩かれていない。
夢にも出ていない。
部屋の中に何かが来たわけでもない。
だから、今なら間に合うはずだった。
そう思いたかった。
だが、それで本当に足りているのかは分からない。
小鞠たちは、もう墓地公園だけにいるわけではない。
夜十時だけに現れるわけでもない。
墓地公園から離れ、鈴木が毎日のように立ち寄るコンビニの前にまで現れている。
鈴木が気をつけていても、向こうから近づいてくる。
それでも、隣人でしかない阿部に、他人の生活を強制することはできなかった。
コンビニへ行くな。
外へ出るな。
生活を変えろ。
そう命令することはできない。
できるのは、言うことだけだった。
警告することだけだった。
阿部は、二〇四号室の扉を見つめた。
閉じた扉は、何も答えなかった。
その時、二〇六号室の中から、鈴木の小さな声が聞こえた。
「やっぱうまいな、これ」
きっと、あのコンビニで買ったパンを食べているのだろう。
あまりにも普通の声だった。
あまりにも普通の日常だった。
だからこそ、阿部は怖かった。
普通の日常の中に、小鞠はもう入り込んでいる。
それなのに鈴木は、まだ大丈夫だと思っている。
阿部もまた、そう思いたかった。
けれど、鈴木が言った言葉だけが、いつまでも耳に残っていた。
目だけは合わせませんから。
その言葉が、まるで約束のように聞こえた。
破られるための約束のように。




