第19話 目だけは合わせませんから
目だけは合わせませんから
それから三日間、鈴木には何も起きなかった。
あの三人を見かけることはあったらしい。
道の向こう側に立っていれば、すぐに視線を落とした。
コンビニの近くにいれば、道を変えた。
帰り道の先に小さな和服姿が見えれば、遠回りをした。
目を合わせない。
話しかけない。
返事をしない。
近づかない。
鈴木は、阿部に言われたことを守っていた。
廊下で顔を合わせるたび、同じように言った。
「大丈夫です。ちゃんと避けてますから」
「本当に気をつけろよ」
「気をつけてますって」
そして最後には、決まってこう付け加えた。
「目だけは合わせませんから」
その言葉を聞くたび、阿部の胸の奥がざわついた。
鈴木は、忠告を無視しているわけではない。
怖がってもいる。
見かければ避けている。
それでも仕事には行かなければならない。
食事も必要だった。
外へ出ずに生活することなどできない。
隣人でしかない阿部に、鈴木の生活をすべて止めることはできなかった。
その三日目の夜だった。
阿部は自分の部屋で、つけたままのテレビをぼんやり眺めていた。
時刻は、午後十時を少し過ぎている。
不意に、玄関の扉が強く叩かれた。
どん。
どん、どん。
「阿部さん」
扉の向こうから、震えた声がした。
「阿部さん、開けてください」
鈴木だった。
阿部は立ち上がり、急いで玄関へ向かった。
「今開ける」
鍵を外し、扉を開ける。
廊下に立っていた鈴木の顔を見た瞬間、阿部は何かが起きたのだと分かった。
顔色が悪い。
額には汗が浮かんでいる。
大きく息を切らし、肩を震わせていた。
「どうした」
「目が」
鈴木は息を整えることもできないまま言った。
「目が合いました」
阿部の体が固まった。
「誰と」
「あの三人です」
「三人ともか」
鈴木は何度も頷いた。
「コンビニの前で……三人とも、いました」
「中に入れ」
阿部は鈴木を部屋へ入れ、廊下を見回した。
誰もいない。
二〇四号室の閉じた扉。
二〇六号室の扉。
静かな階段。
人影はなかった。
阿部は扉を閉め、鍵とチェーンをかけた。
「座れ」
「はい」
鈴木は居間へ入り、床に座った。
阿部は水を入れたコップを鈴木の前へ置いた。
「ゆっくりでいい。何があった」
鈴木はコップを両手で握った。
手が震え、水面が小さく揺れている。
「夕飯を買いに行ったんです」
「あのコンビニに?」
「はい」
阿部は責める言葉を飲み込んだ。
今は、それを言う時ではなかった。
「仕事が長引いて、スーパーももう閉まりそうだったんです。駅前まで行くのも遠いし、あそこなら店員さんもいるから大丈夫だと思って」
「それで」
「店の中では何もありませんでした。いつもの店員さんがいて、少し話もしました」
鈴木は一度、浅く息を吸った。
「店を出た時も、最初は誰もいなかったんです」
「最初は?」
「駐車場にも、道路の向こうにも誰もいませんでした。ちゃんと見ました」
「そのあと、どうした」
「靴紐がほどけてたんです」
「靴紐?」
「はい。店の入口の横に寄って、袋を置いて、しゃがみました」
鈴木は自分の右足を見た。
靴紐は乱雑に結ばれている。
「ずっと下を向いてました。周りは見てません。ちゃんと阿部さんに言われた通りにしてたんです」
「分かってる。続けろ」
「靴紐を結んでたら、目の前から声がしたんです」
「何て」
「大丈夫ですかって」
鈴木の指に力が入った。
「すぐ目の前でした。コンビニの客か、店員さんだと思って、反射的に顔を上げたんです」
鈴木は言葉を止めた。
呼吸がさらに浅くなる。
「そこにいたのか」
「はい」
「田中さんに似た女が?」
「俺の目の前にしゃがんでました」
阿部は息を呑んだ。
「しゃがんで、俺の顔を覗き込んでたんです。顔を上げた時には、もう目が合ってました」
「避ける暇は」
「ありませんでした」
鈴木は強く首を振った。
「本当にありませんでした。俺から見たんじゃないんです。向こうが、下から覗き込んできたんです」
合わせたのではない。
合わせさせられた。
鈴木が見ないなら、見える場所に来る。
鈴木が下を向くなら、下から覗き込む。
向こうは、鈴木が決まりを破るのを待っていたのではない。
破らせに来たのだ。
「目は」
阿部は聞いた。
「どんな目だった」
「真っ黒でした」
鈴木は自分の目を指した。
「白いところがなくて、全部、真っ黒で」
「何か言ったか」
「笑って、もう一度言いました」
「大丈夫ですか、と?」
「はい」
鈴木は震える息を吐いた。
「そしたら、その後ろに男の人が立ってたんです」
「笠間さんらしき男か」
「たぶん、そうです」
「そいつも黒い目だったのか」
「はい」
鈴木はすぐに答えた。
「その人も、目が全部黒くて。俺を見ながら、大丈夫ですかって言いました」
「お前は答えたのか」
「答えてません」
「本当に何も言ってないな」
「言ってません」
鈴木は必死に首を振った。
「返事をしちゃいけないって、ずっと頭の中で繰り返してました」
「それで、小鞠もいたのか」
鈴木の顔が歪んだ。
「はい」
「何をした」
「二人の間から、顔を出しました」
「目は」
「小鞠ちゃんも黒かったです」
鈴木の声がかすれた。
「三人とも、同じ目でした。真っ黒で、俺のことを見てました」
阿部は何も言えなかった。
「小鞠は、何て言った」
「お兄ちゃんって」
「お兄ちゃん?」
「俺のことを見ながら、お兄ちゃん、大丈夫ですかって」
部屋の中が静かになった。
テレビの声だけが、遠くに聞こえる。
「三人で、何度も言うんです」
鈴木は顔を伏せた。
「大丈夫ですか。大丈夫ですかって」
「それで逃げたのか」
「はい」
「荷物は」
「置いてきました。袋も、弁当も、全部そのままです」
「振り返ってないな」
「振り返ってません」
「返事も」
「してません」
鈴木はコップを床に置いた。
水を飲む余裕もないようだった。
「三人とも、俺を見て笑ってました」
鈴木は両腕をさすった。
「気持ち悪くなって……吐きそうになって、怖くて、何も考えられなくなって」
「それで、ここまで走ってきた」
「はい」
「二〇六号室には戻らなかったのか」
「戻ってません」
鈴木は阿部を見た。
その顔には、数日前までの余裕は少しも残っていなかった。
「阿部さんに聞かないと駄目だと思ったんです」
「何を」
「俺が、大丈夫なのかどうか」
阿部は、すぐには答えられなかった。
大丈夫だと言ってやりたかった。
けれど、何を根拠に言えばいい。
鈴木は最初に、田中さんだと思って声をかけている。
そのあとも、三人は鈴木の生活圏へ少しずつ近づいてきた。
そして今夜、三人は鈴木の目の前に現れた。
全員が真っ黒な目で鈴木を見た。
もう、見なければ避けられる段階ではなかった。
「鈴木」
「はい」
「明日の朝、ここを出ろ」
鈴木の目が揺れた。
「ここを?」
「二〇六号室を出るんだ。このマンションからも、この町からも離れろ」
「でも、仕事が」
「仕事どころじゃないだろ」
阿部の声が強くなった。
「お前、本当に消されるぞ」
鈴木は口を閉じた。
「笠間さんも、田中さんもいなくなった。あの二人が今どうなってるか、お前も見ただろ」
「……はい」
「次はお前かもしれないんだぞ」
「でも、急に仕事を休んだら」
「休め」
阿部は言い切った。
「会社には体調不良だと言えばいい」
「長く休むことになったら」
「それでもいい」
「会社を辞めることになったら」
「辞めろ」
鈴木は目を見開いた。
「仕事を辞めてでも逃げた方がいい」
阿部は鈴木から目を逸らさなかった。
「仕事は探し直せる。でも、消えたら終わりだ」
「……はい」
「金が足りないなら貸す。荷物が必要なら、あとで取りに戻ればいい。今は生きて逃げることだけ考えろ」
鈴木は何度も頷いた。
「分かりました」
「本当に分かってるな」
「はい」
「明日の朝、出るんだ」
「出ます」
「最低限の荷物だけ持て。財布、スマホ、身分証、着替え。それだけでいい」
「はい」
「今夜は、もう外へ出るな」
阿部は窓の方を見た。
カーテンは閉じている。
外は暗い。
三人が鈴木を追って、このマンションの前まで来ている可能性もある。
今すぐ町を離れさせたい。
けれど、この時間に一人で外へ出すことはできなかった。
「明るくなったら、俺も一緒に下まで行く」
「いいんですか」
「当たり前だろ」
「でも、阿部さんも仕事が」
「お前が消えるかもしれない時に、仕事の話をするな」
「すみません」
「謝るな」
阿部は少し声を落とした。
「今夜、何かあったらすぐ来い」
「はい」
「何度でも扉を叩け。遠慮するな」
「はい」
「窓の外は見るな」
「見ません」
「声がしても返事をするな」
「しません」
「誰かが部屋の前に立っていても、絶対に開けるな」
「はい」
鈴木は何度も頷いた。
「阿部さん」
「何だ」
「すみませんでした」
「だから、謝るな」
「もっと、ちゃんと言うことを聞いておけばよかったです」
「聞いてただろ」
「でも、コンビニには行きました」
「それでも、見ないようにしてた。避けてた。返事もしなかった」
鈴木は何も言わなかった。
「お前が悪いわけじゃない」
「でも」
「自分から目を合わせたわけじゃないんだろ」
「はい」
「向こうが覗き込んできたんだろ」
「はい」
「だったら、お前が悪いわけじゃない」
阿部は繰り返した。
鈴木の表情が少しだけ崩れた。
「……ありがとうございます」
「今は部屋に戻って、荷物をまとめろ」
「眠れるか分かりません」
「眠れなくてもいい。朝まで部屋から出るな」
「はい」
「頼むぞ」
「分かりました」
阿部は玄関の扉を少しだけ開け、廊下を確かめた。
誰もいない。
二〇四号室も静かだった。
鈴木は向かいの二〇六号室へ入り、すぐに鍵をかけた。
扉が閉まる直前、鈴木が振り返った。
「阿部さん」
「ん?」
「朝になったら、お願いします」
「ああ。俺から声をかける」
「ありがとうございます」
二〇六号室の扉が閉まった。
阿部は廊下に立ったまま、その扉を見つめた。
反対側には、二〇四号室がある。
誰もいない部屋。
空いたままの部屋。
その扉も静かだった。
阿部は自分の部屋へ戻った。
鍵をかける。
チェーンもかける。
カーテンが閉じていることを確かめる。
しばらくすると、壁の向こうから物音が聞こえてきた。
引き出しを開ける音。
何かを床へ置く音。
袋の擦れる音。
鈴木が荷物をまとめているのだろう。
その音を聞いて、阿部は少しだけ安心した。
大丈夫だ。
朝になれば、鈴木は出ていく。
明るくなったら、一緒に階段を下りる。
マンションを出て、駅まで送る。
鈴木はこの町を離れる。
今度こそ、間に合う。
阿部はそう思おうとした。
けれど、頭から離れない言葉があった。
お兄ちゃん。
小鞠は、鈴木をそう呼んだ。
笠間さんは、父親のように見えた。
田中さんは、母親のように見えた。
では、小鞠は鈴木を何にしようとしているのか。
阿部は考えるのをやめようとした。
何の根拠もない。
小鞠が鈴木を「お兄ちゃん」と呼んだだけだ。
それでも、嫌な考えは消えなかった。
目を合わせるな。
阿部は何度もそう言った。
鈴木も、それだけは守れると言っていた。
けれど、三人は待ってくれなかった。
鈴木が見ないなら、見える場所に来た。
鈴木が下を向くなら、下から覗き込んだ。
合わせたのではない。
合わせさせられた。
その違いが、阿部にはたまらなく怖かった。
やがて、壁の向こうの物音が止まった。
二〇四号室も静かだった。
二〇六号室も静かだった。
手毬の音は聞こえない。
窓を叩く音も聞こえない。
小さな声も聞こえない。
何も聞こえない。
だからこそ、阿部は眠れなかった。
朝になれば、鈴木はここを出る。
明るくなれば、二人で階段を下りる。
今度こそ助けられる。
阿部はそう自分に言い聞かせた。
何度も。
何度も。
朝になれば。
朝になれば。
朝になれば、きっと間に合う。
そう思うしかなかった。




