第20話 古い区画
朝になれば、鈴木はここを出る。
そう言ったのは阿部だった。
鈴木も頷いた。
明日の朝、出ます。
そう言っていた。
だから阿部は、ほとんど眠れないまま朝を待った。
何度も時計を見た。
夜中に物音がするたび、二〇六号室の方へ耳を澄ませた。
窓を叩く音は聞こえなかった。
手毬の音も聞こえなかった。
小さな声も聞こえなかった。
ただ、静かだった。
静かすぎた。
明け方になっても、阿部は眠れなかった。
カーテンの隙間から、部屋が少しずつ明るくなるのを見ていた。
六時を過ぎたところで、阿部は立ち上がった。
もう少し待つべきか迷った。
だが、昨夜の鈴木の顔を思い出すと、待っていられなかった。
阿部は玄関へ向かい、鍵を開けた。
廊下に出る。
二〇四号室は静かだった。
二〇六号室も静かだった。
阿部は二〇六号室の前に立った。
呼び鈴を押す。
中から返事はない。
もう一度押す。
やはり、返事はなかった。
「鈴木」
阿部は扉越しに声をかけた。
「俺だ。朝だぞ」
何も聞こえない。
「鈴木、出る準備できてるか」
返事はなかった。
阿部は唇を噛んだ。
まだ寝ているだけかもしれない。
昨夜、よほど疲れて眠ってしまったのかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、それなら呼び鈴や声に気づくはずだった。
阿部はスマートフォンを取り出し、鈴木の番号に電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。
同時に、扉の向こうで、かすかに振動音が聞こえた。
ぶう、ぶう、と低く震える音。
二〇六号室の中からだった。
鈴木のスマートフォンが、中で鳴っている。
阿部は背筋が冷たくなるのを感じた。
「鈴木」
今度は強く扉を叩いた。
「鈴木、いるのか」
返事はない。
部屋の中では、まだスマートフォンが鳴っている。
やがて呼び出しが切れた。
廊下は静かになった。
阿部は、その静けさの中に取り残された。
昨夜、鈴木は確かに二〇六号室へ戻った。
阿部は見ている。
扉が閉まるのも見た。
荷物をまとめているらしい物音も、壁越しに聞こえた。
朝になったら出る。
そう約束していた。
なのに、返事がない。
スマートフォンは部屋の中にある。
阿部はもう一度電話をかけた。
また、二〇六号室の中で振動音が鳴った。
それでも、誰も出なかった。
阿部は警察に電話した。
声が震えないように気をつけながら、状況を説明した。
昨夜、隣の住人がひどく怯えた様子で部屋に来たこと。
翌朝、このマンションから出る約束をしていたこと。
今朝になって呼びかけても返事がないこと。
スマートフォンは部屋の中で鳴っていること。
そして、このマンションでは以前にも住人が行方不明になっていること。
電話の向こうの警察官は、落ち着いた声で応じた。
「昨夜までは、部屋にいらっしゃったんですね」
「はい。部屋へ戻るところも見ました」
「成人男性の方ですよね」
「はい。でも、様子がおかしかったんです」
「今朝、外出された可能性はありませんか」
「スマートフォンを置いたまま、黙って出かけるような状態じゃありませんでした」
「まだ今朝のことですので、少し外出されている可能性もあります」
「ここでは、ほかにも人がいなくなってるんです」
阿部は言った。
「佐藤も、笠間さんも、田中さんも、同じようにいなくなった」
「その方々について、今すぐこちらでは確認できません。今回の方との関係は分かりますか」
阿部は口を開きかけて、止まった。
夜十時に、丘の上で手毬をつく女の子が現れる。
その女の子に見つかった人間が、部屋から消える。
そんな話を電話でしても、まともに取り合ってもらえない。
分かっていた。
分かっていても、悔しかった。
「とにかく、普通の外出じゃないんです」
「念のため記録はしておきます。ご本人と連絡が取れない状態が続くようでしたら、あらためてご相談ください」
「今じゃないと遅いんです」
「お気持ちは分かります。ただ、現時点では事件性が確認できませんので」
事件性。
その言葉が、やけに遠く聞こえた。
阿部は通話を終えた。
警察に言った。
それでも、すぐには動いてもらえなかった。
阿部は二〇六号室の扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
中にスマートフォンがある。
鈴木は出てこない。
けれど、扉は閉まっている。
阿部には開けられない。
勝手に入ることはできない。
また、何もできない。
その事実に、胃の奥が重くなった。
昼近くになって、阿部のスマートフォンが鳴った。
画面を見る。
管理会社の女性からだった。
阿部はすぐに電話に出た。
「阿部さん」
「鈴木がいなくなりました」
阿部は、相手の用件を聞く前に言っていた。
電話の向こうが静かになった。
「鈴木さんというのは」
「二〇六号室の人です。昨夜、三人と目が合って、私の部屋に来ました。朝になったらここを出ろと言いました。本人も出ると言っていました」
阿部は一気に説明した。
「でも今朝、呼んでも返事がない。スマートフォンは部屋の中で鳴っています。警察にも言いました。でも、まだ外出しているだけかもしれないって、まともに取り合ってもらえませんでした」
「そんな……」
女性の声が震えた。
「二〇六号室まで」
「二〇四号室が空いたから、別の部屋の人間を狙い始めたのかもしれません」
阿部は言った。
「鈴木は、あの三人を何度も見ていました。田中さんに似た女と、笠間さんに似た男と、小鞠です」
「昨夜、何があったんですか」
「田中さんに似た女が、鈴木の目の前にしゃがんで、顔を覗き込んできたそうです」
「向こうから、目を合わせに来たんですね」
「はい」
阿部は二〇六号室の扉を見た。
「もう、見ないようにするだけじゃ駄目なんです」
電話の向こうで、女性はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「阿部さん。私も分かったことがあります」
「小鞠のことですか」
「名前そのものは、まだはっきりとは分かっていません。ただ、墓地公園の方で気になることがありました」
「墓地公園」
「あの墓地公園、数か月前から大がかりな整備をしているそうなんです」
「整備?」
「はい。区画整理というか、改装に近いものです。特に、古い区画にかなり手を入れています」
阿部は、丘の上へ続く坂道を思い出した。
街灯。
墓地公園の入口。
そこから奥にある、暗い場所。
「古い区画って、どんなところなんですか」
「昔の土葬区画だったそうです」
「土葬?」
「はい。古い座棺が埋められていた場所です」
阿部は息を止めた。
「座棺というのは」
「遺体を座らせた形で納める、昔の棺です。整備の時に、ほとんどは掘り出して改葬されたと聞きました」
「ほとんどは?」
「持ち主や縁者が分かるものは別の場所へ移して、無縁に近いものも整理したそうです。今はかなりきれいになっています」
「じゃあ、もう残っていないんですか」
「いいえ。一部だけ残っています」
「一部だけ」
「古すぎて、所有者や縁者を確認できない墓が集まった一角があるそうです。記録も曖昧で、すぐには動かせなかったため、そこだけはまだ手をつけずに残してあると聞きました」
阿部は黙った。
古い土葬区画。
地中に残された座棺。
小鞠。
手毬。
夜十時。
佐藤。
笠間。
田中。
鈴木。
ばらばらだったものが、嫌な形でつながっていく。
「その整備が始まったのは、いつですか」
「数か月前です」
女性は答えた。
阿部の喉が詰まった。
「佐藤がいなくなったのも、数か月前です」
「……そうなんですか」
「はい」
阿部は二〇六号室の扉を見た。
「それが、きっかけなんでしょうか」
「分かりません」
女性は言った。
「でも、私もそう考えました。ずっと噂だけだったものが、最近になって急に続いている。佐藤さん、笠間さん、田中さん。そして今度は鈴木さん」
「整備で、何かを動かした」
「あるいは、触れてはいけないものに触れたのかもしれません」
「ただの偶然じゃない」
「私も、そう思います」
女性の声は震えていた。
「警察には、私からも連絡します」
「管理会社からですか」
「はい。今の担当ではありませんけど、会社側にも話します。過去の入居者と、今起きていることを整理して、警察に伝えてもらえるようにします」
「お願いします」
阿部は思わず頭を下げた。
電話越しだと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
「一人の住人と連絡が取れないだけでは、警察もすぐには動きにくいのかもしれません。でも、同じ物件で何人もいなくなっているなら、話は違うはずです」
「そうですよね」
「佐藤さん、笠間さん、田中さん、鈴木さん。偶然とは思えません」
女性ははっきりと言った。
「墓地公園の古い区画についても、調べてもらえるように伝えます」
「お願いします」
「阿部さんも、もう一度警察に話してください」
「さっきは、ほとんど取り合ってもらえませんでした」
「今度は、こちらからも話します。管理会社から、過去の入居者について伝えます。警察が来たら、阿部さんの知っていることを全部話してください」
「全部」
「はい。信じてもらえない部分があっても、全部です」
阿部は唇を噛んだ。
小鞠のこと。
手毬の音。
窓を叩く音。
笠間さんの封筒が、退職願に変わったこと。
田中さんが見た夢。
鈴木が見た三人。
あと一人だね、という言葉。
どれも、普通に考えればまともな話ではない。
それでも、もう隠している場合ではなかった。
「分かりました」
阿部は言った。
「話します」
電話を切ったあと、阿部は二〇六号室の扉を見た。
まだ静かだった。
中には、鈴木のスマートフォンが残っている。
荷物も残っているはずだった。
朝になれば出ると言っていた人間が、スマートフォンも持たずに出ていくわけがない。
阿部はもう一度呼び鈴を押した。
返事はなかった。
その日の午後、管理会社の現在の担当者から連絡が入った。
二〇六号室の安否確認をすることになったという。
警察官も立ち会うらしい。
阿部はすぐに部屋を出た。
二〇六号室の前には、管理会社の男性社員と、警察官が二人来ていた。
管理会社の男性は、困惑したような顔で阿部に会釈した。
警察官の一人が、阿部に確認した。
「こちらの住人の方と、昨夜お話しされたんですね」
「はい」
「その時、変わった様子があったと」
「ひどく怯えていました」
「何に怯えていたんですか」
阿部は一瞬迷った。
けれど、もう隠さないと決めていた。
「田中さんに似た女性と、笠間さんに似た男性と、小さな和服の女の子です」
警察官の表情が少し固まった。
「その話は、あとで詳しく聞きます」
警察官はそう言って、管理会社の男性に頷いた。
鍵が開けられる。
二〇六号室の扉が開いた。
中は静かだった。
警察官が先に入る。
管理会社の男性が続く。
阿部は廊下で待つように言われた。
部屋の中から、短い会話が聞こえた。
誰もいない。
荒らされた様子はない。
それから、警察官の一人が出てきた。
「本人はいません」
阿部は分かっていたはずなのに、足元が揺れるような感覚を覚えた。
「荷物は」
「あります」
警察官は答えた。
「スマートフォンも室内にあります。財布らしきものも残っています。衣類の入ったバッグが、玄関の近くに置かれていました」
やはり、出る準備をしていたのだ。
鈴木は逃げようとしていた。
朝になったら出るつもりだった。
なのに、出られなかった。
「それでも、まだ事件じゃないんですか」
阿部は思わず聞いた。
警察官はすぐには答えなかった。
「事件と断定するかどうかは、これから確認します」
「これから」
「ただ、状況としては詳しく調べる必要があります」
朝の電話よりも、声が少しだけ変わっていた。
警察官は阿部を見た。
「阿部さん。お話を聞かせてもらえますか」
阿部は頷いた。
ようやく。
ようやく、話を聞いてもらえる。
そう思った。
けれど、安心はなかった。
ただ、遅すぎるという思いだけがあった。
その後、阿部は自分の部屋で警察官二人に話をした。
佐藤のこと。
二〇四号室に住んでいた同僚が、ある日いなくなったこと。
笠間さんのこと。
夜十時に坂の上で手毬をつく女の子に声をかけたこと。
窓を叩かれ、夢に追われ、最後には部屋から消えたこと。
封筒の中身が、退職願に変わっていたこと。
田中さんのこと。
小鞠という名前を、夢の中で聞いたこと。
笠間さんらしき男と小鞠を、親子のように見たこと。
窓の外に二人が現れ、朝まで手毬遊びをさせられたこと。
その後、田中さんも行方不明になったこと。
鈴木のこと。
小鞠と、笠間さんらしき男と、田中さんに似た女を何度も見たこと。
あと一人だね、と言われたこと。
昨夜、コンビニの前で目を合わせさせられたこと。
三人の目が、すべて真っ黒だったこと。
小鞠が、鈴木をお兄ちゃんと呼んだこと。
警察官は途中で何度も眉をひそめた。
当然だった。
阿部が話している内容は、あまりにも現実離れしている。
それでも、警察官は最後まで聞いた。
もう一人の警察官は、メモを取り続けていた。
「その女の子の名前が、小鞠」
「はい」
「墓地公園と関係があると考えている」
「はい」
「その墓地公園は、最近整備された」
「管理会社の方から、そう聞きました」
「古い土葬区画が、一部残っている」
「座棺が埋まっている可能性があるそうです」
警察官はしばらく黙った。
やがて、低い声で言った。
「正直に言うと、女の子がどうこうという話については、こちらでは判断できません」
「分かっています」
「ただ、同じマンションの住人が複数人と連絡を取れなくなっていること、二〇六号室の方が財布やスマートフォンを残したままいなくなっていることは、確認する必要があります」
阿部は息を止めた。
「墓地公園を調べてくれるんですか」
「まずは管理者に話を聞き、周辺を確認します」
警察官は言った。
「可能なら、古い区画についても調べます」
阿部は目を閉じた。
やっとだった。
やっと、そこまでたどり着いた。
だが、胸の奥には安心ではなく、重い後悔だけが残った。
佐藤がいなくなった時に、ここまでできていれば。
笠間さんがいなくなった時に、もっと強く訴えていれば。
田中さんがいなくなる前に、会社も警察も本気になっていれば。
鈴木が目を合わせる前に、逃がせていれば。
いくつもの「もし」が、頭の中に浮かんでは消えた。
警察官たちは立ち上がった。
「またお話を聞くことになると思います」
「はい」
「何か思い出したら、すぐ連絡してください」
「分かりました」
警察官たちが部屋を出ていく。
廊下には、二〇四号室と二〇六号室の扉が並んでいた。
どちらも静かだった。
二〇四号室には、もう田中さんはいない。
二〇六号室にも、鈴木はいない。
そして、あの三人も。
小鞠も、笠間さんらしき男も、田中さんに似た女も。
鈴木がいなくなってから、阿部はまだ一度も見ていない。
あれほど鈴木の前に現れていたのに。
コンビニの近くにまで出てきていたのに。
ぱたりと、姿を消した。
あと一人だね。
鈴木が聞いたという、その言葉が耳から離れなかった。
父親のような笠間さん。
母親のような田中さん。
お兄ちゃんと呼ばれた鈴木。
小鞠は、家族をそろえたかったのだろうか。
それとも。
阿部は考えるのをやめた。
警察は、ようやく墓地公園の古い区画を調べると言った。
けれど、阿部は少しも安心できなかった。
むしろ、遅すぎたのだと思った。
小鞠が欲しがっていた「あと一人」は、もう手に入ってしまったのかもしれなかった。




