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夜十時の手毬  作者: サザルト


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21/21

第21話  あと一人分の隙間

 警察が墓地公園を調べ始めたのは、その翌日だった。


 阿部は、自分の部屋の窓から丘の上を見ていた。


 普段なら、見ないようにしていた場所だった。


 けれど、その日は目を逸らせなかった。


 墓地公園の入口近くに、警察車両が何台か停まっている。


 作業服のような格好をした人間もいる。


 墓地の管理者らしい男も、何度も頭を下げながら警察官と話していた。


 阿部には、そこから何が見つかるのか分からなかった。


 ただ、胸の奥が重かった。


 佐藤。


 笠間さん。


 田中さん。


 鈴木。


 四人の名前が、何度も頭の中を巡った。


 警察がもっと早く動いていれば。


 自分がもっと早く訴えていれば。


 管理会社や会社が、最初から本気で受け止めていれば。


 何か変わったのだろうか。


 考えても意味がないと分かっている。


 それでも、考えずにはいられなかった。


 昼を過ぎた頃、阿部のスマートフォンが鳴った。


 警察からだった。


 阿部はすぐに電話に出た。


「阿部さんですか」


「はい」


「確認していただきたいものがあります」


 その声を聞いた瞬間、阿部は何かが見つかったのだと分かった。


 喉が乾いた。


「確認、ですか」


「以前お話しいただいた方々に関係するものかもしれません」


 警察官は言葉を選んでいた。


「無理にとは言いません。ただ、阿部さんが証言されていた服装や特徴と一致するか、確認していただけると助かります」


 阿部は目を閉じた。


 本当は行きたくなかった。


 見たくなかった。


 けれど、ここまで来て、見ないわけにはいかなかった。


「行きます」


 そう答えた声は、自分でも驚くほど低かった。


 墓地公園へ向かう道は明るかった。


 昼間の坂道は、夜とはまるで違って見えた。


 普通の住宅街の先にある、普通の坂道。


 車が通り、犬を連れた人が歩き、遠くで蝉が鳴いている。


 ここで、手毬をつく女の子を見た人たちがいた。


 ここで、笠間さんが声をかけた。


 ここで、田中さんが二人を見た。


 そして三人は、やがて墓地公園を離れ、鈴木の生活圏にまで現れるようになった。


 そう思うと、昼間の景色まで信用できなかった。


 墓地公園の入口には、警察官が立っていた。


 阿部が名前を告げると、奥へ案内された。


 整備された墓地公園は、思っていたよりもきれいだった。


 通路は新しく舗装されている。


 墓石の並びも整っている。


 古い木は何本か切られ、見通しもよくなっていた。


 明るく、清潔で、最近手を入れられた場所だとすぐに分かる。


 けれど、奥へ進むにつれて、雰囲気が変わった。


 きれいな区画の端に、取り残されたような一角があった。


 そこだけ、土の色が違っていた。


 苔の残った石が、いくつか不揃いに並んでいる。


 古い墓石の土台らしいものもある。


 周囲は整備されているのに、そこだけ時間が止まっているようだった。


「ここです」


 警察官が言った。


 阿部は立ち止まった。


 そこには、掘り返された跡があった。


 ブルーシートが張られ、その周囲に警察官や鑑識らしき人間が立っている。


 白い手袋をした人。


 記録を取る人。


 専門家らしい人間もいた。


 阿部はその場に入る前に、警察官から短い説明を受けた。


「古い座棺が見つかりました」


 警察官は、阿部の顔色を見ながら続けた。


「この区画には、もともと複数の座棺があったようです。整備の際に、ほとんどは改葬されています」


「一つだけ残っていたものですか」


「はい」


 警察官は、掘り返された場所を見た。


「それが見つかりました」


 阿部は何も言えなかった。


 一つだけ残った座棺。


 忘れられたように。


 取り残されたように。


「確認していただきたいのは、その中にあったものです」


 警察官は言った。


「ただし、無理はしないでください」


 阿部は頷いた。


 案内された先には、直接見えすぎないようにシートが置かれていた。


 警察官が慎重に説明しながら、必要な部分だけを見せた。


 最初に確認させられたのは、鈴木だった。


 遺体はまだ新しかった。


 顔を完全に見ることはできなかったが、衣服、体格、所持品は、阿部が知っている鈴木のものと一致していた。


 昨日まで話していた男。


 コンビニのパンをうまいと言っていた男。


 目だけは合わせませんから、と笑っていた男。


 その鈴木が、そこにいた。


 阿部は吐き気をこらえた。


「鈴木だと思います」


 そう言うのが精一杯だった。


 警察官は静かに頷いた。


「分かりました」


 次に見せられたものは、もっと異様だった。


 小さな子供の骨があった。


 古いものだった。


 小さな頭蓋骨。


 細い腕の骨。


 そこに長い時間が積もっていることは、阿部にも分かった。


 その小さな骨のそばに、大人の白骨が二つあった。


 一つは男性らしかった。


 その近くには、錆びた眼鏡があった。


 布はほとんど朽ちていたが、背広だったと思われるものの名残も残っている。


 もう一つは女性らしかった。


 衣服の残りには、阿部にも見覚えがあった。


 田中さんが着ていたものに似ている。


 阿部は信じられなかった。


 田中さんがいなくなってから、それほど経っていない。


 笠間さんもそうだ。


 それなのに、二人は白骨になっていた。


 警察官は、死後どれほど経っているのかは、詳しく調べなければ分からないと言った。


 だが、阿部には分かっていた。


 二人がいなくなったのは、ずっと昔ではない。


 この世の時間とは違うものが、そこだけを通り過ぎたように思えた。


「こちらの男性について、心当たりはありますか」


 警察官に聞かれた。


 阿部は、眼鏡と背広の名残を見た。


 くたびれた背広。


 眼鏡。


 真ん中分けの髪。


 田中さんが見たという男。


 鈴木が見たという男。


 小鞠の隣にいた男。


「笠間さんの特徴と一致します」


 阿部は言った。


「間違いありませんか」


「遺体のことは、私には断定できません。でも、服装も眼鏡も、聞いていた特徴と同じです」


 警察官はメモを取った。


「分かりました」


「こちらの女性は」


 阿部は衣服の残りを見た。


「田中さんのものに見えます」


 声が震えた。


「田中美佐さんです。ただ、私には断定できません」


「服装に見覚えがあるんですね」


「はい」


 阿部は目を逸らした。


「それに、鈴木が見た女性も、田中さんに似ていたと言っていました」


 警察官は短く頷いた。


「分かりました」


 阿部は、そこで気づいた。


 小さな子供の骨を真ん中にして、男性と女性の骨がある。


 二人は、その小さな子供の手を取るような位置にあった。


 完全にそう見えただけかもしれない。


 長い時間の中で、偶然そうなっただけかもしれない。


 けれど、阿部にはそうは思えなかった。


 三人は手をつないでいるように見えた。


 小さな子供を挟んで、父親と母親が手をつないでいるように。


 家族のように。


 だが、鈴木は違った。


 鈴木の遺体は、その三人から少し外れた場所にあった。


 無理に押し込まれたような位置だった。


 残っていた空間を埋めるように。


 ちょうど、そこだけ空いていた隙間に入れられたように。


 阿部は息を呑んだ。


 あと一人だね。


 鈴木が聞いた言葉が、頭の中で響いた。


 あと一人。


 父親でも、母親でもない。


 家族の役にすら、きちんと入っていない。


 ただ、そこに一人分の隙間があった。


 それを埋めるためだけに、鈴木は呼ばれたのかもしれない。


 そう思った瞬間、阿部は膝から力が抜けそうになった。


 警察官が腕を支えた。


「大丈夫ですか」


「はい」


 阿部はどうにか頷いた。


 大丈夫なはずがなかった。


 それでも、頷くしかなかった。


 確認が終わると、阿部は墓地公園の端まで案内された。


 そこで少し休むように言われた。


 警察官たちは、また座棺の周りへ戻っていった。


 阿部はベンチに座った。


 坂の下に町が見える。


 マンションも見えた。


 あの建物には、問題の部屋と、自分の部屋と、鈴木の部屋が並んでいる。


 その三つの扉の前で、自分は何度も迷った。


 行くべきか。


 言うべきか。


 止めるべきか。


 逃がすべきか。


 いつも、遅れた。


 佐藤の時も。


 笠間さんの時も。


 田中さんの時も。


 鈴木の時も。


 阿部はスマートフォンを取り出した。


 管理会社の女性に電話をかける。


 数回の呼び出しのあと、電話はつながった。


「阿部さん」


 向こうの声は、最初から緊張していた。


「見つかりました」


 阿部は言った。


「鈴木も、駄目でした」


 電話の向こうで、女性が息を呑む音がした。


「そう、ですか」


「古い区画に、座棺が一つだけ残っていました」


「中には」


「小さな子供の骨がありました」


 女性はしばらく何も言わなかった。


「小鞠、でしょうか」


「分かりません」


 阿部は目を閉じた。


「でも、たぶん」


 正式な記録はない。


 名前を確認できるものもない。


 それでも、あの子以外には考えにくかった。


 墓地公園に現れた、古い和服姿の女の子。


 手毬をついていた小鞠。


 その姿が消えた場所から見つかった、小さな子供の骨。


「それから、笠間さんらしき男性と、田中さんらしき女性がいました」


 女性は何も言わなかった。


「二人は、小さな子供を真ん中にして、手をつないでいるみたいでした」


「家族みたいに」


「はい」


 阿部は喉を鳴らした。


「家族みたいでした」


「鈴木さんは」


「三人とは違う場所にいました」


「違う場所?」


「空いていた場所を埋めるみたいに、外側へ押し込まれていました」


 言葉にすると、あまりにもひどかった。


 鈴木は人間だった。


 短期滞在で、コンビニのパンが好きで、軽い調子で笑っていた普通の男だった。


 それが、ただ隙間を埋めるためだけに連れていかれた。


「寂しかったんでしょうか」


 女性が小さく言った。


「小鞠は、寂しくて人を集めたんでしょうか」


「分かりません」


 阿部は答えた。


「寂しかったのかもしれません。でも、それだけで四人も連れていくとは思えません」


 父親が欲しかった。


 母親が欲しかった。


 遊び相手が欲しかった。


 それとも、ただ忘れられた座棺の中に、誰かを入れたかっただけなのか。


 阿部には分からなかった。


「古い座棺は、整備の時にほとんど改葬されたんですよね」


「はい」


「その中で、小鞠のものらしい座棺だけが残った」


「おそらく」


 女性は答えた。


「なぜ一つだけ残ったのかは、分かりません。記録が曖昧で、誰のものだったのかも確認できなかったそうです」


「忘れられたんでしょうか」


「そうかもしれません」


 阿部は丘の上の街灯を見た。


 昼間だから、まだ灯っていない。


 けれど、夜になれば、あの街灯はまた点く。


 そこに、小鞠は立っていた。


 手毬をつきながら。


 ずっと一人で。


 それでも、その姿が本当に寂しさから生まれたものなのか、阿部には分からなかった。


「阿部さんは、これからどうするんですか」


 女性が聞いた。


 阿部は少し考えた。


 マンション。


 夜十時の街灯。


 窓を叩く音。


 手毬の話。


 そこに、このまま住み続けることはできない。


「もう少し仕事の整理をしたら、引っ越します」


「そうですか」


「ずっとあそこにいたら、思い出してしまうので」


「そうですね」


「いろいろ、お世話になりました」


「私は、何もできませんでした」


「そんなことはありません」


 阿部は言った。


「話を聞いてくれました。それだけでも助かりました」


 電話の向こうで、女性が小さく息を吐いた。


「阿部さん」


「はい」


「元気を出してください、とは簡単に言えません。でも、阿部さんのせいではありません」


 阿部はすぐには答えられなかった。


 その言葉を、そのまま受け取れるほど、気持ちは軽くなかった。


「ありがとうございます」


 どうにか、それだけ言った。


 電話を切ったあと、阿部はしばらくベンチに座っていた。


 墓地公園の奥では、まだ警察の作業が続いている。


 子供の骨は、もう忘れられたままではなくなるのだろう。


 改葬されるのか。


 供養されるのか。


 どこか別の場所へ移されるのか。


 阿部には分からなかった。


 ただ、それ以降、小鞠の姿を見ることはなかった。


 夜十時になっても、丘の上の街灯の下に和服の女の子は立たなかった。


 手毬の音が聞こえた、という話も聞かなくなった。


 問題の部屋は、空いたままになった。


 鈴木の部屋にも、誰も入らなかった。


 管理会社が契約や運用を見直したらしいと、後から聞いた。


 笠間さんの会社も、あの部屋を使うことはなくなった。


 事件の詳しいことは、表には出なかった。


 ニュースでは、墓地公園の古い区画から複数の遺体が見つかったとだけ報じられた。


 その後の調査で、成人男性と女性の骨は、笠間さんと田中さんのものとみられることが分かった。


 新しい遺体は、鈴木で間違いなかった。


 小さな子供の骨が誰のものなのかは、最後まで分からなかった。


 小鞠という名前を裏づける記録も見つからなかった。


 それでも、阿部には分かっている気がした。


 あの骨は、たぶん小鞠だった。


 座棺が見つかってから、あの子は一度も姿を現していない。


 夜十時の手毬の噂も、それきり途絶えた。


 ただ、佐藤だけは見つからなかった。


 どこへ行ったのか。


 小鞠と関係があったのか。


 それすら、最後まで分からなかった。


 小鞠の名前は、ニュースには出なかった。


 夜十時の手毬のことも出なかった。


 笠間さんが父親のように横たわっていたことも。


 田中さんが母親のように手をつないでいたことも。


 鈴木が、あと一人分の隙間を埋めるように押し込まれていたことも。


 誰も知らない。


 阿部の周りで、その事件の噂を聞くことも、だんだんなくなっていった。


 マンションの住人たちも、いつしか普段通りに暮らし始めた。


 夜になれば、電気がつく。


 朝になれば、扉が開く。


 誰かが出勤し、誰かが帰ってくる。


 何もなかった場所のように、日常は戻っていく。


 けれど、阿部の中では終わらなかった。


 丘の上の街灯を見るたびに思い出す。


 あの女の子は、いつから一人だったのだろう。


 どれだけ長い間、手毬をつきながら、誰かが声をかけてくれるのを待っていたのだろう。


 そして、声をかけた人間を、どれだけ連れていったのだろう。


 かわいそうだと思う気持ちは、少しだけあった。


 けれど、それ以上に怖かった。


 寂しかったから。


 忘れられていたから。


 家族が欲しかったから。


 本当に、それだけだったのだろうか。


 そんな理由で、人は連れていかれる。


 そんな理由で、誰かの人生は、座棺の隙間に押し込まれる。


 阿部は、それを忘れられなかった。


 たぶん、これからも忘れられない。


 阿部は、手毬の音を実際に聞いたことはない。


 笠間さんが聞いた音。


 田中さんが聞いた音。


 鈴木が聞いたかもしれない音。


 それを、阿部はただ話として知っているだけだった。


 それなのに、暗くなった坂道を見るたび、頭の中で勝手に想像してしまう。


 小さな手が、古い手毬をつく音。


 夜十時の街灯の下で、誰かを待っている音。


 きっと、こんな音だったのだろうと。


 ぽん。


 ぽん。


 ぽん。


 聞いたことのない手毬の音だけが、阿部の想像の中で、いつまでも消えなかった。

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