第18話
夜。麓に設けられた仮設集落を見下ろす高台に腰を下ろし、ジンは何をするでもなくぼんやりと集落の灯りを眺めていた。
不思議な気分だった。元々ジンは集落から離れた山小屋にずっと一人で暮らしていた。だから物理的な距離は以前と変わらない筈なのに、村人たちが侵略者である筈の兵士たちと笑い合っている光景を目の当たりにすると、そこがとても遠い場所のように感じる。
疎外感──自分の人としての不出来さを突きつけられたような気がして、胸に隙間風が吹く。
ジンは消えてしまいたいような心地で星のない夜空を見上げ、静かに、押し殺すような息をした。
「──こんなところにいたのか」
近づいてくる気配には気づいていた。だがジンは反応を返すことなく無言を貫く。
ユースティアはその無反応を気にすることなく彼の横に腰を下ろし、何も言わず眼下の集落を眺めた。
「…………」
「…………」
しばしその場に沈黙が流れた。暖かくも冷たくもない。けれど決して不快ではない。無色透明な時間がそこにあった。
一体どれぐらいの時間そうしていただろうか?
「──俺が逃げ出さないか、様子を見に来たのか?」
ユースティアの喉から苦笑が漏れる。
「まぁ、無茶振りをした自覚はあるからな」
「…………」
「今回の作戦だけじゃない。私の都合でずいぶんと貴様を振り回してしまった。いや、私が振り回したのは何も貴様に限った話ではないが、貴様の場合はそもそも私に手を貸す理由がない」
村人の存在が自分の動機から薄れていることを指摘された気がして、ジンの胸が大きく脈打つ。ユースティアへと視線を向けると、彼女の横顔には微かな罪悪感と不安とが滲んでいた。
「しおらしいフリをするぐらいなら最初から他人を巻き込むな」
「ははっ、返す言葉もないな」
「…………」
突き放してそれで終わりで良かった。だが、ユースティアがあまりにらしくない顔をするものだから、つい余計な言葉がジンの口を突いて出る。
「……何で、そこまでして皇帝になりたいんだ?」
その問いにユースティアは意外そうに目を瞬かせた。
「貴様が私のことを聞いてくるのは初めてだな。皇位継承のことはノイから聞いたのか?」
「……ああ」
マケドニア帝国第17皇女ユースティア・フォン・アルメニア。
彼女が皇位継承権を持つというだけでなく、本気で皇帝の座を狙っていることは帝国では周知の事実だ。
そもマケドニア帝国の皇位は単純な生まれの遅い早い、血統の良し悪しで決まるものではない。
現皇帝ユリウス2世は自分の子の中から最も大きな功績を挙げた者に皇帝の座を継がせることを宣言しており、ユースティアの兄弟姉妹は互いに血で血を洗う骨肉の争いを繰り広げていた。
とは言え、現実に全ての皇子皇女が皇帝の座を狙えるわけではない。有力貴族の後ろ盾のない皇子皇女に出来ることは限られており、皇位争いとは実際には皇妃の実家同士の権力闘争だ。
母親が平民出身のユースティアなど言わずもがな。貴族たちは当初彼女を皇帝の気まぐれで作られた形だけの皇女と馬鹿にしていた。
伯爵家の三男であぶれ者だったノイが婚約者としてあてがわれたのもそうした事情によるもの。ノイの実家もユースティアに皇女としての価値があるとは思っておらず、ただアルメニア商会から幾らかでも資金を引き出せればと、軽い気持ちで縁を結んだ。
そうした評価が一変したのは3年前、ユースティアが若干14歳でアルメニア男爵家を継承した直後。
ユースティアは男爵に就任するやいなや、僅かな私兵を率いて帝国に隣接する小国に攻め込み、大胆な奇策を用いてこれを陥落させる。そしてこの勝利を足掛かりに彼女は次々と他国の領土を征服し、男爵就任から僅か2年と7か月で伯爵へと陞爵。他国から「侵略皇女」と恐れられ、皇位争いの有力候補へと名乗りを上げた。
権力と闘争に憑りつかれた血も涙もない女──それが世間のユースティアに対する評価だ。
だがこの一月以上ユースティアと行動を共にしてきたジンは、彼女がそんな世評通りの人間でないことを理解していた。いや、本当は最初から分かってはいたのだ。彼女の振る舞いは横暴で悪辣ではあったが、非道でも残虐でもなかった。勿論、自分たちの土地を侵略し戦いに巻き込んだことそれ自体は決して許せるものではない。だがその後彼女は村人たちに手を差し伸べてもくれた。相反する事実を前に、ジンはユースティアを単純に憎むことが出来ずにいた。
「何故皇帝になりたいか──改めて聞かれると難しいものだな」
ジンの問いかけに、ユースティアは少し考えるように虚空を見上げる。
「私が皇女である以上、帝国では誰もそこに疑問を差し挟むことはなかった。だが貴様の言いたいことも理解はできる。無理に皇帝など目指さずとも皇族として恵まれた生活が送れるのだ。平和に暮らしてきた貴様から見れば私の生き方はまさしく愚の骨頂だろう」
「…………」
そこまでは言っていないが、ジンは敢えて否定もしなかった。
「私の母については聞いているか?」
ユースティアの突然の問いかけに、ジンはキョトンと目を瞬かせる。
「確か、平民出身だって……」
「うん。私の母は平民で、皇帝陛下に見初められ特別に皇妃として召し上げられた。当時のアルメニア商会は経営こそ安定していたが決して大店と呼べる規模ではなかったからな。それが皇妃、実家は仮の男爵とは言え貴族だ。何と果報者だろうと人々は母を羨ましがった」
そこでユースティアは皮肉気に口元を歪める。
「だがこの話の奇妙なところは、皇帝陛下と平民であった母、見初めると言っても一体どこにそんな接点があったのか、という点でね」
「…………」
皇帝ともなればその身辺は厳重に警護されており、一平民と接点があったとは考えにくい。御付きの使用人でさえも皇帝に余計な虫が付かぬよう貴族で固められている。まさか皇帝がお忍びで街に出て遊んでいたと言うなら話は別だろうが……
首を傾げるジンにユースティアは意外な答えを口にした。
「母が皇帝陛下に召し上げられた理由は、ただの嫌がらせだったそうだ」
「? 嫌がらせって……誰の、誰に対する?」
「陛下の、当時母の恋人だった男に対する、だ」
「────」
ジンの目が点になる。その反応にユースティアは馬鹿馬鹿しそうに笑った。
「ククッ、まぁそんな反応だよな」
「いや……何でそんな話になるんだ?」
「うん。私も詳しくは知らんのだが、どうも当時母の恋人だった男性というのが陛下の側近の一人だったらしくてね。関係が悪くなっていたのか、それとも別の理由があったのかは分からないが、陛下はその男性への当てつけで母を召し上げたそうだ。私も幼い頃に母から聞いた話なのでどこまで本当なのかは分からんがね」
ユースティアは軽く嘯く。
ジンはアルメニア伯爵家に滞在していた時ユースティアの母の姿を見たことはなく、また誰もその存在に言及しなかった。
「その、お母さん……の恋人だった、って人は今?」
「……母の言葉を信じるなら、母が皇妃に召し上げられて直ぐ陛下の下を去ってどこぞに隠遁したそうだ──ああ、それと察していると思うが母はとっくに死んでいる。私が六歳の時、心を病んで散々喚き散らして自殺した」
ユースティアの言葉には、全く何の感情も籠っていなかった。
「……皇帝を目指す理由は、復讐か?」
ジンはユースティアが、母親を死に追いやった皇帝を恨んでいるのだと思った。しかし──
「違う」
ユースティアはハッキリとそれを否定する。
「私はそんな親孝行な娘ではないよ。そんな理由で世界を欲しているわけではない。私はね──ただ母や、その恋人だった男のようになりたくないだけなんだ」
その目には明確な怒りと、嫌悪の色があった。
「母は陛下に召し上げられる話を聞いた時、お爺様の前で嫌だ嫌だと泣き喚いたそうだ。何故自分がこんな目にと散々嘆いて──けれど結局逆らうこともできず、陛下の勅に従った」
「…………」
「その恋人だった男がどんな反応を示したのかは聞いていない。だがまぁ陛下に逆らっていれば命はなかっただろうし、口さがない宮廷雀共が私にそれを吹き込まない筈がない。逆らうことなく母を捨てて逃げ出したのだろうさ」
そこでユースティアは言葉を区切り、ジンの目を真っ直ぐに見て続けた。
「私はね、自分の尊厳が侵された時、あるいは大切な誰かが傷つけられた時、胸を張って相手を殴り返せる自分でありたいと思っている」
「…………」
「だがそれは口で言うほど簡単なことじゃない。母だって、自分が逆らえば家族に危害が及ぶと理解して泣く泣く陛下に従ったのだろう。本人の気持ち一つでどうにかなるほど世界は簡単じゃない。自分を貫く為には力が要る」
「…………」
ユースティアの語る言葉はジンには全く理解できないモノだった。彼は生まれて一度も力が欲しいと願ったことなどない。彼にとって力とは、自制し、抑えるべきものだった。
だが分からないなりに感じるものはある。
「……それで。皇帝になって、誰にも支配されない力を手に入れたいって?」
「そうだ」
「その先は? 力を手に入れてそれで終わりじゃないだろう?」
「いや、それだけさ」
「は──?」
呆気にとられるジンに苦笑して、ユースティアは言葉を続けた。
「別にはぐらかしているわけではないぞ? 本当に、何かしたいことがあって皇帝になろうというわけじゃないんだ。復讐がしたいわけでもなければ、世界をどう変えたいという具体的なビジョンがあるわけでもない」
ユースティアの口元が自嘲を噛み殺すように一瞬強く結ばれる。
「ただ、そうさな──これは誓いだ」
「誓い?」
ユースティアは頷き、ハッキリと宣言した。
「私が正義になる」
何を言っているのか分からなかった。
「戦いは正義と正義のぶつかり合いなんて言葉をよく聞くがね、それは言い換えればどんな糞みたいな理屈も勝ちさえすれば正義になってしまうということさ」
ユースティアは噛みしめるように言う。
「暴力、権力、財力、武力、知力、影響力なんだっていい。強者が弱者を蹂躙し、勝者が敗者を否定するための理屈こそが正義だ。どんな嘘八百も勝者が大声でがなり立てればそれが真実となり、歴史は彼らに都合よく塗り替えられていく。強者はただ強者というだけで肯定され、弱者はただ弱者というだけで蔑まれ、彼らの信じる正義は悪と呼ばれて踏みにじられる。それがこの世界の理だよ。ならばせめて、私はこの世界の頂点に立ち、正義そのものでありたい」
「────」
酷い理屈だった。軍人とマフィアと政治家を戦争で煮詰めたような目も当てられない暴論だ。だがユースティアはその暴論を、真っ直ぐな目で何のてらいもなく語る。
ジンの中に、その酷い理屈につい納得してしまいそうになる自分がいた。万人に受け入れられる正義などなく、強者が弱者を踏みにじるこの世界で、ユースティアの言葉は一面の真実を言い当てているのかもしれない。
だがそれだけではない筈だと、ジンの意識に刻まれた倫理が反発する。
「……それが全てじゃないだろう? 確かに力のない奴が語る正義なんて絵空事だ。それでも、少なくとも俺たちは暴力や権力で他人を支配するのが良いことじゃないって知ってる。力があれば、勝てば正しいなんてのは──」
「それはただ貴様らが強者であるという事実に無自覚なだけだ」
ユースティアはジンの反論をバッサリと切り捨てる。
「ルマーン人は曲がりなりにも民主共和制国家の民だからな。民は誰かに支配されるものではなく、為政者に対して影響力を持っている。その貴様らの正義が支配を否定するものであるのは当然のことだろう。そんなものはただ主権者とパワーバランスの違いに過ぎん」
咄嗟に否定の言葉が思いつかなかった。
「そしてその地位は貴様らの先祖が戦い勝ち取ったものだ。戦いもせず何かを与えられるほどこの世界は温くはないし、それが将来に渡って貴様らの手にある保証もない」
事実として、戦う力を持たない村人たちは既にユースティアに支配され、その生殺与奪を握られている。例え村人がどれだけ綺麗ごとを並べようと、それを貫き実現する力は彼らにはない。ユースティアの気持ち一つで、正誤は容易く裏返る。
そしてこれは何もユースティアとこの村に限ったことではない。
ドルネシア軍は直接村人を支配こそしなかったが、村を焼いて村人たちを殺そうとした。いつでもそうできた。放置されていたから気づかなかっただけで、彼らはとっくに村人たちの命を支配していたのだ。
村人たちは弱いから、それに逆らえない。
何をされても文句も言えず、ただ強者の慈悲に縋るしかない。
「正義を軽んじているわけではない。だが力とは、勝利とは、貴様が思っているよりずっと重い」
ああ、それはそうだろう。きっとそうなのだろうさ。
だが絶対的な力や正義など人が背負うには重すぎる。人の身には余るものだ。だからこそ人は信念や大義、様々な言葉でそれを糊塗し、その責任を他人に押し付け合ってきた。なのに──
「……それが分かってて、それでもお前は皇帝を目指すのか? 正義になるなんて言うのか? 他人を踏みつけて、そんな馬鹿みたいなもの背負って……せめて何かないのかよ。信念でも、理想でも、やりたいことでも、何か──」
「ない」
ジンの言葉をユースティアは再度明確に否定する。
「人に語れるような信念なんてものはない。自分の正義が素晴らしいものだとも思っちゃいない。それでも全てを手に入れると決めた。それ以上でも、それ以下でもない」
ユースティアはそこで苦笑し、ついでのように付け加えた。
「──とは言え、私も一人で戦っているわけではないからな。こんな私についてきてくれる連中には報いてやらねばならん。奴らにとって今よりはマシな正義になろうとは思っている──が、まぁその程度のものさ。どこまで行こうと所詮私はただの人間に過ぎん。そも正義などというものを語らねばならん時点で人は既に間違っているのだ。万人にとって素晴らしい世界を作れるなどと驕ってはいないさ」
「…………」
理解を拒むように沈黙するジンに、ユースティアは一瞬だけ躊躇うような素振りを見せ、告げた。
「改めて言うぞ、ジン──私に手を貸せ。私が皇帝になった暁には、貴様にこの国をくれてやる」
「────」
ユースティアは呆気にとられるジンを真っ直ぐに見据えて続ける。
「私には貴様が必要だ。だからこの一月以上、どうすれば貴様を仲間に出来るのか、報いてやれるのかをずっと考えてきた。だが結局何も思いつかなかった。私は貴様が本当に望むモノを与えてやれそうにない。だからせめて、この貴様が生まれ育った国をくれてやる」
「せめてって……国を軽く扱い過ぎだろ」
話が大きすぎて何を言っているのか分からない。それでも目の前の少女が本気でそれを口にしていることだけは、分かってしまった。
「それに俺は一介の猟師だ。国なんてもらっても……」
何とか絞り出した答えに、ユースティアは気楽そうに笑う。
「そう重く考える必要はないさ。いらなければ誰かにやってもいいし、統治は人任せにしてふんぞり返っていてもいい──まぁ、やり過ぎれば反乱なりが起こるかもしれんが、それも含めて貴様の自由だ」
「んな無責任な……」
「自分自身に無責任であるよりはいいだろう。貴様は自分を型に嵌めすぎている。間違えるなよ。どれだけ他人に都合の良い生き方をしたところで、他人が貴様の人生の責任を取ってくれるわけではないのだからな」
「…………」
「──フフッ、そんな困った顔をするな。別に説教をするつもりはない。ただ知っておいて欲しいんだ。私がいつか──」
「────」
それきり。二人は会話を打ち切り、無言で星空を見つめる。
けれどジンの胸には、ユースティアの言葉がいつまでもいつまでも残り続けていた。




