第18話
広域精神干渉システム『エリシウム』
【フェイズ:ニューロ・サレンダー】
概要: 標的の脳波とナノマシンを同調させ、深層心理に眠る「幸福な記憶」を視覚・嗅覚・触覚として再構築する。
目的: 闘争本能の完全な減衰。自発的に変身(電着)を拒む状態へと誘導し、機体を無傷で回収する。
設計思想: > 地獄を歩き続けた者に、天国を見せてはならない。一度その温もりを知れば、冷たい鋼鉄の鎧に戻る勇気を持つ者はいないのだから。
第18話:幻影の街
吹雪の音が、いつの間にか消えていた。
剣が重い瞼を開けると、そこには白銀の雪原ではなく、見慣れた「緑」が広がっていた。
「……ここは……ルナ・フェルナ?」
木漏れ日が差し込む、エルフの隠れ里。
鼻腔を突くのは、第3話でデータとしてしか処理できなかった、あの瑞々しい「雨上がりの森の匂い」だ。数値ではない。本物の、脳を揺さぶるような懐かしい芳香。
「剣、起きたのかい?」
聞き間違えるはずのない声に、剣の身体が凍りついた。
振り返ると、そこには大長老アルヴィスが、穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。第1話で死んだはずの、育ての父。
「……父さん? なんで……俺、は……」
「疲れているんだね。さあ、家に入りなさい。お前の好きなスープができているよ」
アルヴィスが剣の手を取る。
温かい。第7話で少女を怯えさせたあの冷たい金属の温度ではなく、血の通った、柔らかな人間の手の温もりだ。
【警告:感覚同期レベル 98%】
【分析:周囲のオブジェクトは高密度の光学的投影、および神経パルスへの……】
「うるさい……黙れ……」
剣は脳内に流れるアラートを、意識の底へ押しやった。
わかっている。これは偽物だ。帝国が仕掛けた罠だ。
だが、この手触りが、この匂いが、これほどまでに優しい。
里の人々が次々と剣に声をかける。石を投げる者も、化け物と呼ぶ者もいない。
そこには「人間・早水剣」としての居場所が確かに存在していた。
彼は用意された食卓につき、スープを口にする。
――美味い。
味覚。第9話で「無」として切り捨てられていた感覚が、洪水のように流れ込み、剣の瞳から「シミュレートではない涙」が溢れ出した。
「もういいんだ、剣。戦わなくていい。お前は、ここにいていいんだよ」
アルヴィスの手が、優しく剣の頭を撫でる。
その心地よさに、剣の右耳――変身のためのスイッチ――に添えられた指が、力を失いかけていた。
戦う理由が、思い出せない。
自分を拒絶する世界を、自分を騙した父の影を、なぜ守り続けなければならないのか。
このまま、この夢の中で「人間」として死ねるのなら、それでいいのではないか。
その時。
スープの表面に映った自分の顔が、一瞬だけ**「ダークソード」の無機質な貌に見えた。
『お前のその苦しみは、何行目のコードだ?』
脳裏に響く、凍りついた自問。
剣は、震える手でスープの皿を叩き割った。
「……違う。俺は、ここにいちゃいけない」
「どうしたんだい、剣?」
アルヴィスの貌が、心配そうに歪む。その完璧な「親心」の描写に、剣の胸が引き裂かれそうになる。
「……あんたは、俺に『お前の中に眠る火だけは、誰にも渡すな』って言った。……例えこの幸せが本物でも、俺の中に『怒り』がある限り、俺はここにいちゃいけないんだ!」
剣は、叫びながら耳に手をかざした。
――バチィィッ!
【緊急展開:電着(電着可能残量 2%)】
銀色の閃光が爆発し、美しきルナ・フェルナの風景が、ノイズを撒き散らしながら剥がれ落ちていく。
アルヴィスの姿が、灰色のホログラムとなって霧散した。
現れたのは、廃墟と化したノーゼンのビル群。
そして、剣の目の前で「エリシウム・コア」を維持していた、巨大な蜘蛛型の広域放送アンテナだった。
「……夢を、見させてくれて……ありがとうよ、帝国」
剣はデリートソード**を抜き、目の前のアンテナを一刀両断した。
火花が散り、すべての幻影が消える。
後に残ったのは、やはり冷たい風と、雪の匂い。
そして、夢から覚めたことでさらに深まった、耐え難いほどの孤独だった。




