後編
うり造の着物もカゴも、ぜんぶ田端の手もとにあった。だからあれは決して夢じゃない。あれから放心状態で食器を片付けて風呂を掃除し、うり造の着ていたもの一式を干した。破れていたところは補修したし、銀の杯もピカピカに磨き上げた。うり造のことを考えながら、ひたすら手を動かしていた。
婦人会の旅行から帰ってきた母も、猟銃片手に猪を担いで帰ってきた父も、息子の様子が変なことには気付いた。だがいつも通り家事を手伝ってくれきちんと仕事へ向かうものだから、声をかけることもできなかった。もちろん、聞いても答えるような息子ではないのだが。
キャベツの千切りは山のようにでき、庭の草という草を抜きまくり、田端家のすべてのハンカチ、ワイシャツ、Tシャツがアイロンでピシリと整えられた。
失恋か、と言いそうになったのは田端父だ。しかし母親に無理やり口をふさがれて力づくで物陰に連行されるとお説教された。見た目が怖いと言って女性と縁遠い息子の傷口に塩を塗り込むようなことはしたくなかったのだ。……ということは母親は失恋前提で考えているのでこれはこれで失礼なのだが。
心ここにあらずな田端をよそに、一週間経っても、うり造は現れなかった。そうするうちに母はフラダンスクラブの特訓旅行へとハワイに行き、父は船舶免許をもって海へ旅立って行った。
広い縁側で一人たばこに火をつけると、不定形な煙がゆらりと立ち昇る。今でも頭の中で聞こえるのは「うりー、うりはいらんかねー」といううり造の声。なにもかも夢だったというにはあまりにも物的証拠が残っている。それに自分に笑いかけてくれたうり造が、どうしても目に焼き付いて離れない。
「……将軍さまのにぎり飯、うまかったなぁ」
なんだ、ついに俺の頭は妄想まではじめたか。
田端はたばこの火を消すと、大きく息を吐いた。そう言ってくれるだけでもずいぶんと気持ちが上昇する。なんて都合のいいことを考えているんだと思っていたが、妄想はずいぶんはっきりと聞こえ、実際に誰か近くで泣いているようにすら感じた。
「ぐすっ……将軍さまに、会いてえなぁ」
そのあまりのリアルさに声のした方を見る。
すると縁側のすぐ近くに、膝を抱え小さくまとまった男いた。月明かりに照らされ、田端があてがった白いTシャツはもうすっかり汚れているのがわかる。
田端は思わず立ち上がりサンダルをひっかけて近よると、脇に手を入れ、その細っこい身体を後ろから持ち上げた。
「わわっ!」
「……あんた、うり造さんか?」
涙にぬれたうり造の瞳が、田端をとらえる。
「将軍、さま」
こぼれ落ちそうなくらいに大きく目を見開くうり造。本当にこぼれやしないか心配になるほどだ。
「また盛大に汚したな。風呂用意してやるから入れ。あ、腹はへってないか? なんか作ってやろうか?」
声をかけてもぽかーんとしていたうり造だったが、目の前の男を実感したのか次第に笑顔が広がる。
「ほんとに、将軍さまだ!」
無邪気によろこぶうり造が素直にかわいらしいと思った。そしていつまでも自分を将軍と呼ぶこのアホの子に、名前を教えていなかったと今さらに気づく。
「省吾だ。俺の名前は田端省吾。……まあこのなりだからよくショーグンと呼ばれていたが」
「すごい! また会えた! はじめてだ!」
手足をばたばたさせてよろこぶものだから、田端はいったんうり造をおろし、縁側に座らせた。髪はまたボサくれてホコリだらけで、頬に汚れをこさえている。泣いていたのか鼻は赤く目も腫れていた。
聞けば、あんまりにも田端に会いたくて、眠れなくて、家を抜け出して一人ぐすぐす泣いていたらしい。田端と引き離されたあと、商売道具をなくし、ぶかぶかのTシャツハーフパンツで帰ってきたうり造に母親は大激怒。棒手振りが棒手なくしてどうすんだい! とたいそう叱られたそうだ。
「でもな、でもな、すげえ男前の人に会ったんだよ。身体が大きくて、目つきも鷹みたいに鋭くて、ほんとに将軍さまみたいな人だったんだ。しかもとくべつ優しいんだ」
そう言っても周りは誰もうてあってくれない。いるわけないだろうそんな人、とうり造をバカにした。
自分と将軍さまの思い出を否定されたようで、うり造はとても悲しくなったそうだ。飯を食うたんびに田端の作ってくれた白い握り飯を思い出すし、髪を結びなおすたびに風呂で頭を洗ってくれたことを思い出す。いい匂いに包まれて、太い指の腹でわしわしと髪を洗われるあの心地といったら、極楽以外なにものでもない。
「もう会えないと思ってたから、うれしいなあ」
へへ、と笑ううり造に、田端は思わず目を細める。口もとがゆるむのが自分でもわかった。それを見てギョッとしたのはうり造の方だ。
「……将軍さまは、ほんとに男前だ。おれ、照れちまうよ」
暗がりのなか、うり造の頬が赤くなっていることに田端は気づかない。
「あんまりそう言うな。俺が照れる。ほら、また髪洗ってやるから風呂いくぞ。ああちょっと待て、だいぶ汚れてるから俺が抱える」
大男がひょいと抱えると、ひょろっこいうり造は簡単に脇におさまる。暗に汚いからうろつくなと言っているのだが、ぬっしぬっしと抱えて歩けばうり造はとてもうれしそうだった。
「おれ、果報ものだなぁ」
「俺だって楽しいさ」
こうして田端には、うり造というなんとも世話のやき甲斐がある友人——と言っていいのかわからないが、とにかく知り合いができた。たまに庭先に現れる時代錯誤なその男は、田端を見るとうれしそうにその胸に飛び込んでくる。会うたびに髪はボサくれ頬には泥をつけているので、すぐ風呂に連行されるのだが、風呂に入れてもらいたくてわざとやってるのではと思うほどである。
「ほら、髪かわかすぞ。こっち来い」
「えへへ」
少し頭のゆるいうり造は、いつまで経っても田端のことを将軍さまと呼んだそうだ。
「なあなあ、この前な、しっだーるたって人に会ったんだ。すっごいお腹減って倒れてたからうりあげたんだけど、かわりにいつまでも枯れない花もらっちまった」
「ほら、うごくな。……そりゃすごいな、押し花か?」
「よくわかんねえや」
そして、いつぞやかうり造が貢ぎ物として持ってきた木箱の中には、歴代の偉人たち所縁の品がたっぷり詰め込まれていた。そうと知らずにそれらは田端の部屋の片隅に大事にしまってあるという。
歴史の影にうり造あり。
そしてうり造に世話やく将軍あり、である。