番外編 「その、終わりの日」~D~
ディレインは中庭を通り掛かって、その足を止めた。
厳しく躾けられている侍女達が今日は小走りに廊下を通って行くのを見て、ディレインは少しだけ笑う。
今日ばかりは王城の内部が騒がしいのは仕方がないだろう。何しろ、昨夜から王妃が産気付いているのだから。
もう今すぐにでも生まれそうな状態だと聞いたが、年嵩の産婆が初産はとにかく時間が掛かるのだと言っていたらしいから、王妃の夫、王であり兄であるグラウディオはきっと今頃気が気ではないだろう。
先々月行われた王の即位一周年の式典の時、王妃のお腹は既に大きかった。
ディレインも真面目とは言えないが、王弟だ。側室を設ける期限である三年の決まりくらい知っている。
生まれる子が男児であれば、見えないプレッシャーと戦っているはずのリーリエールの気持ちは随分と楽になるだろうと思えば、『幼馴染』の彼女のためにも男の子であるように祈ってしまう。
「……僕だって、望まなかったわけじゃないんだけどね」
風に消えてしまう程度の小さな呟きをして、ディレインは自嘲する。
グラウディオとディレインは五つ違いの兄弟だ。
二年前まで隣国と諍いをしていたように、不安定だった当時のドーレイミ。国としては男子が兄だけでは心許ないのは当然で、本当ならばすぐにも弟妹をと望んでいたのだが、戦争によるゴタゴタや当時の王妃が丁度体調を崩して長患いしてしまったので、ディレインを懐妊するまでにこんなにも間が空いてしまったのだった。
その間、当然のように持ち上がった側室問題をすり抜けた手腕は、やはりあの策士の兄の父なのだろうと密かに思う。
ディレインが物心つく頃には、五つも歳が離れた兄は既に帝王学をみっちりと学ばされていた。
自分が兄に万が一の事があった場合の代役なのだと分かっていて、それを嘆いた事も恨んだ事もなく当然だとは思っていた。思っていても、人間には向き不向きがあって、ディレインは勉強をするのがとても苦手だった。
そうして勉強を度々サボってフラついていた頃、リーリエールと出会ったのだ。
ディレイン八歳、リーリエールは六歳だった。
「グラウディオ殿下が今のディレイン殿下の御年の頃には、既に出来ていましたぞ」
歳を取ったせいか、元々の気質がそうなのかは分からないけれど、頑固なほどに頭の固い家庭教師の一人の口癖がそれだった。
ディレインにだって、ずっと自分しか王位継承者がいない状況で『やらなければならない』と必死で頑張って来た兄の苦労は分かるつもりだ。それでも、こんな風に言われるのは気持ちの良いものではない。
ディレインが逃げ出したのは当然だったと思う。
「初めまして、ディレイン殿下。私は宰相ファソンの娘、リーリエールと申します」
自分よりも年下なのが信じられないくらいに完璧な礼に、ディレインは瞠目した。
「宰相のファソンって言うと、……侯爵の?」
「はい。父に連れられて寄せて頂きました。以後、お見知り置き下さいませ」
六歳の子供らしくない、自分だったら二度は舌を噛みそうな台詞を話すリーリエールに、ディレインは興味を示した。
ファソン家が王家と同じくらい歴史のある家柄だと言うのは、当然知っている。当分は自分が兄の代役としての役割しかないと知っているように、彼女は王女のいないこの国の駒となる事を幼いながらも知っているようだった。
そして、そんな彼女の姿は、兄を思い起こさせた。
けれど兄より身近に感じる事が出来たのは、リーリエールがディレインと歳が近かった事や、忙しい兄とは違って話す時間を持てた事だろうと思う。
それから何度も会うようになったのは、リーリエールの父が兄グラウディオの教師になったせいなのだと知り、目撃されるようになった二人で話す姿から、気が付いた時には彼女がディレインの婚約者の最有力候補になっていた。
――それが、彼女にも自分にも一番良いのだと、彼女の本当の笑顔を知らずに思っていた。
「……リーリエール?」
この日も勉強を抜け出したディレインはリーリエールが来ていると聞いて中庭へと足を運んだ。
そこで聞こえた楽しそうな笑い声に身を潜めてしまったのは、違和感を覚えたからだった。
ディレインの目に入ったのは、兄と話すリーリエール。
身体に走る違和感の原因は初めて見た二人が話している姿ではない。とても気を抜いたリーリエールのリラックスした表情と話し方に、だ。
ついでに言うなら、同じように笑う兄の姿にも。
「あぁ……そうか」
出会って四年も経つのに、婚約者の最有力候補と言われ、ディレイン自身もそうであれば良いと思っていたのに、彼女のこんな笑顔を見た事がなかった。
柱に身を隠すようにして伺った二人の空気は穏やかで、何より七つも歳が離れているはずの二人の纏う雰囲気がとても似ている事に衝撃を受けた。
「甘えて逃げてきた結果……かな」
大きな責任を幼い頃から背負って来た二人だからこそ、分かち合える感覚があるのだと目の前の光景がディレインに教える。
でもまだリーリエールは十歳だ。婚約こそ既にしていてもおかしくはない年齢ではあるけれど、隣国が不穏な動きを見せている事くらい、細かい事は分からなくても知っている。
リーリエールの存在がその駒になりうる可能性ために、その決定を下せていない事も。
「それなら僕がやるのは一つだけ」
今からだってリーリエールに相応しくなる努力をするだけだ。
誰よりも彼女と共にいたのは自分なのだから、きっとこれからもそう在れるはず。
――けれどそれは、逃げていたディレインの唯一の行き場となっていたリーリエールへの執着であり、微笑んでそれを受け止めようとしてくれていた彼女に対する、愛情と呼ぶには拙すぎる感情であった事をディレインは後に知る。
「それでも確かに、僕にとっての初恋だったと思うんだけどね」
リーリエールがあのままディレインと結婚していたら、立場や重い責任からは自由になれただろう。
――愛する事も、本当に愛される事も知らずに。
だから、これで良かったのだと今は心から思う。
「……僕も」
リーリエールとグラウディオのように隣国の王女を想えれば、と思う。
結婚も恋愛も、国の駒である自分たちに自由はないけれど、それでも想い合う事の出来た兄夫婦のようになるには努力が必要ならば、今度は逃げずに向き合ってみようと思えた。
先ほどと違って慌しく駆け出して行く侍女の姿を視界に入れて、ディレインは生まれただろう甥っ子の顔を見ようと、行く先を変えて踵を返す。
その口元には憂いのない笑みが浮かんでいた。
――それは、初恋の終わった日。
小説家になろうを利用してまだ二作目。
手探りでやっていた部分の大きなお話でしたが、とてもたくさんの人に読んで頂けて、本当に嬉しく、そして楽しく書かせて頂けました。
本当にありがとうございました。また次作でお会いできたら良いですね。