第四章 オルゴールの底
三日間、俺は考えた。
店は開けた。客が来れば忘れ物を返した。三件あった。一人は定年退職した老人で、妻との初デートの記憶を忘れていた。一人は小学生の男の子で、初めて自転車に乗れた日の記憶を忘れていた。一人は若い男で、弟と仲直りした日の記憶を忘れていた。
一人一人の記憶を返すたびに、俺は思った。この記憶は、誰かにとっての宝物だ。取り戻せたから笑顔になれる。だが、店が消えたら、取り戻せない記憶が四十七個ある。
三日目の夜、俺は決めた。
「琴音さん。全部返します。四十七件の忘れ物を、全部持ち主に返します。それから、自分の忘れ物も取り戻します」
「……全部返す? どうやって?」
「一つずつ、持ち主を探します」
琴音さんは首を振った。
「悠真くん。この店の忘れ物はね、持ち主のところに自分で戻るようになっている。ただし、keeper が手渡した時だけだ。店が消える前に全部手渡すには、四十七人全員にここに来てもらわなきゃならない。それは無理だよ」
「来てもらえばいい」
「どうやって?」
「店を閉めません。ずっと開けておきます。そして、忘れ物を呼び寄せます」
「呼び寄せる?」
「忘れ物は、持ち主を引き寄せる。なら、逆もできるはずです。忘れ物が持ち主を呼ぶ。俺がその橋渡しをする」
琴音さんは長い間、俺を見ていた。そして、ふっと笑った。
「君は変わったね。前は、そんな風に考えつかなかったのに」
「前って、いつの前ですか」
「十年前の前だよ。君は昔から優しかったけど、人に頼ることはしなかった。全部一人で抱え込んで、壊れてしまった。今の君は、違う」
俺には自分が変わったのかどうか分からなかった。だが、一つだけ確かなことがあった。この店で忘れ物を返し続けて、俺は人の記憶の重さを知った。誰かの忘れ物を返す時、その人の目が光を取り戻す瞬間。それが、俺にとって何よりも大切だった。
「やりましょう」
「いいよ。でも、悠真くん。一つだけ約束して」
「何ですか」
「全てが終わったら、オルゴールをもう一度開けること。最後まで、全部見ること。逃げないと約束して」
「約束します」
***
それから、七日間が過ぎた。
俺は毎日、店を開けた。忘れ物を一つずつ手に取り、持ち主を呼んだ。不思議なことに、俺が忘れ物を握りしめて念じると、その持ち主が数日以内に店を訪れた。一人、また一人。忘れ物が持ち主に戻っていくたびに、棚が空いていった。
七日目の夜、最後の忘れ物が戻った。
小さな女の子が来た。五歳くらい。母親に手を引かれて。女の子が忘れていたのは、生まれる前に亡くなった兄の声の記憶だった。兄の絵本が忘れ物の器だった。
女の子が絵本を手に取った時、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「おにいちゃんの声、きこえた」
母親が泣いた。女の子はきょとんとしていたが、絵本を抱きしめて笑った。
棚が、空になった。
「終わった」
俺はカウンターに座り込んだ。七日間、ほとんど寝ていない。だが、不思議と疲れはなかった。胸の中が、温かいもので満たされている感じがした。
「悠真くん」
琴音さんが、カウンターの向かいに座っていた。お茶を二つ、淹れてくれていた。
「飲もうか」
「はい」
お茶を啜った。今までで一番美味しかった。柚子の香りが、胸の底まで届いた。
「さあ、約束だよ」
琴音さんが言った。
俺は倉庫に入り、オルゴールを持ってきた。カウンターに置き、蓋を開けた。
旋律が流れた。あの曲だ。夏の日の庭で、琴音さんが俺に聴かせてくれた曲。
そして、映像が見えた。
***
病室だ。白い壁、白いシーツ。
琴音さんがベッドにいる。痩せている。でも、笑っている。
俺は十九歳の俺だ。ベッドの横に座っている。目が赤い。
「ゆうくん、泣かないで」
「ねえちゃん、俺――」
「聞いて。お願いがあるの」
琴音さんがオルゴールを差し出す。
「これを預けて。私の忘れ物として。このオルゴールを、忘れ物預かり所に」
「なんで」
「因为、君はきっと忘れようとする。私のことを。それはそれでいい。忘れることは悪いことじゃない。でも、いつか思い出したくなった時に、取り戻せる場所が必要でしょ? だから預けて。私のことを、忘れ物として。そうすれば、いつでも取り戻せる」
「ねえちゃん……」
「それと、もう一つ。約束して。私がいなくなっても、君は生きるって。ちゃんと生きるって。泣きたい時に泣いて、笑いたい時に笑って。忘れ物を返す仕事をしていると、君も少しずつ癒されるから。だから――」
琴音さんの声が震えた。
「私のことは忘れていい。でも、君自身のことは絶対に忘れないで。君は、生きていいんだよ」
***
映像が消えた時、俺は泣いていた。
声を上げて泣いていた。子供みたいに。琴音さんの膝に頭を預けて、泣いていた。
琴音さんの手が、俺の頭を撫でていた。枯れた手だった。だが、温かかった。
「思い出したかい」
「思い出した。全部。ねえちゃんが、俺に生きてほしかったこと。俺が、逃げていたこと。全部」
「そうか。よかった」
琴音さんの声が、少し透けていた。文字通り、透けていた。彼女の輪郭が、店内の光に溶け始めている。
「琴音さん、消えていくんですか」
「うん。もう、いいんだよ。君が思い出したから。私の役目は終わりだ」
「待ってください。まだ――」
「悠真くん。君が忘れていたもう一つのこと、分かったかい?」
俺は涙を拭いて、言った。
「俺が忘れていたのは、琴音さんが俺に遺した言葉だ。『君は生きていいんだよ』って。俺はそれを忘れて、自分を生きることをやめていた」
「そうだね。そして、それを思い出した今、君はもうこの店にいなくていい」
店内が、光り始めた。棚も、壁も、天井も、全てが白く溶けていく。風鈴が最後に一度だけ、大きく鳴った。
「ねえちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
琴音さんが笑った。三日月のような目で。オルゴールの中の少女と、同じ笑顔だった。
「ありがとう、ゆうくん。生きてね」
光が、全てを包んだ。




