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第三章 店主の話

店主――柊琴音は、お茶を淹れ直して、語り始めた。


「十年前の夏、私は病気で亡くなった。二十四歳だった。君はその時、十九歳だったね。大学に入ったばかりで、私のことをとても慕ってくれていた。私が死んだ時、君は――壊れたよ」


 琴音さんの声は静かだった。感情を押し殺しているのではなく、もう感情を通り越した人のように、淡々としていた。


「君は私の葬式に来なかった。来られなかったんだね。その後、何日も家から出なくなって。ご両親が心配して、色々な人に頼んで。でも君は誰とも話さなくなった。ただ、私が残したオルゴールを抱えて、曲を聴き続けていた」


「……」


「ある日、君は言ったんだ。『忘れたい。全部忘れたい。ねえちゃんがいなくなったことを忘れたい』って。それが、この店を生んだ」


「俺が、この店を」


「そう。君の願いが、現実と狭間の間にこの場所を作った。忘れ物預かり所。人々の忘れた記憶を預かり、返す場所。そして、君自身の記憶も、ここに預けられた。君が忘れたのは、私のことだけじゃない。私と過ごした全ての時間、私がいたという事実そのもの。君はそれをオルゴールに封じて、奥の箪笥にしまった」


「じゃあ、俺がここで働いているのは」


「君が自分に課した役目だよ。他人の忘れ物を返すことで、自分の忘れ物に向き合わずに済むから。ずっと、そうしてきた。客の記憶を返すたびに、君は少しずつ癒されていくと思っていたのかもしれないね。でも、それは違う。君はただ、逃げていただけだ」


 逃げている。その言葉が胸に刺さった。


「でも、店主――琴音さんは。なんでここにいるんですか。もうこの世の人じゃないって」


「私の魂が、この店に繋がれているからだよ。君が私を忘れられない限り、この店は存在し続ける。そして、この店が存在する限り、私はここにいられる。君のそばに」


「それって……」


「残酷なことだよね。君が忘れられないから、私はここに縛られている。君が忘れたら、私は消える。でも君が忘れない限り、君はここから出られない」


 俺は理解した。この店は、牢獄だった。


 俺自身の牢獄であり、琴音さんの牢獄だった。


「じゃあ、あの男は。あの客は誰だったんですか」


「彼は……この店の前の keeper だよ」


「前の?」


「この店はね、悠真くん。君が初めての keeper じゃない。ずっと昔からある。誰かが強く忘れたいと願うたびに、この店は現れる。前の keeper も、大切な人を失って、この店に留まった。やがて彼は自分の忘れ物を取り戻し、店を出ていった。その後、君が来た」


「あの男は、俺に忘れ物を取り戻せと言っていた」


「そう。彼は知っているんだ。忘れ物を取り戻すことの意味を」


「忘れ物を取り戻したら、どうなりますか」


 琴音さんは目を閉じた。


「この店は消える。私は消える。君は現実に戻る。私のいない現実に」


 沈黙が、店内を満たした。


「でも」琴音さんが続けた。「まだ終わりじゃないよ。もう一つ、話さなければならないことがある」


「まだ、あるんですか」


「この店には、君の忘れ物だけじゃない。まだ返されていない忘れ物が、たくさんある。この店が消えたら、それらも全部消える。持ち主に返されないまま、消えてしまう」


 俺は棚を見た。ハンカチ、ストラップ、文庫本、ピアス、傘。あれはただの物じゃない。誰かの記憶が宿った、誰かの人生の一部だ。


「何件、残っていますか」


「今、棚にある忘れ物は全部で四十七件。それぞれに持ち主がいる。まだ気づいていない人たちだ。この店が消えたら、彼らは永遠に取り戻せない」


 俺は椅子に深く座り込んだ。


 選択肢が見えた。だが、どちらも正解ではない気がした。


 忘れ物を取り戻せば、店が消える。琴音さんが消える。四十七件の忘れ物が消える。


 忘れ物を取り戻さなければ、俺は永遠にここにいる。琴音さんも永遠に縛られたまま。二人とも、生きているとは言えない。


「琴音さん」


「ん?」


「俺は、どうすればいいんですか」


 琴音さんは微笑んだ。三日月のような目で。


「それは君が決めることだよ。私は何も言わない。ただ――」


「ただ?」


「一つだけ、教えておきたいことがある。君が忘れているのは、私のことだけじゃない。もう一つ、大事なことを忘れている。オルゴールの中には、まだ見えていない記憶がある。全てを取り戻す覚悟ができたら、もう一度開けてみるといい」


 その夜、俺は眠れなかった。

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