第二章 奥の棚
あの男が来てから、俺の日常が少し変わった。
仕事は同じだ。客が来れば忘れ物を返し、棚を整理し、店主とお茶を飲む。だが、合間に俺は考える。俺の忘れ物はどこにあるのか。「もっと奥」とは何なのか。
店の奥には、カウンターの裏を通って、小さな倉庫がある。忘れ物の在庫が入っている場所だ。ダンボール箱が積み上げられ、埃っぽい空気が漂う。俺は何度もここに入っている。だが、男の言葉を聞いてから、見方が変わった。
倉庫の一番奥に、古い箪笥があった。
以前から存在は知っていた。店主が「これは触らなくていい」と言っていたので、気にも留めていなかった。引き出しは三段。一番上には鍵がかかっている。
俺はその箪笥の前に立った。鍵はかかっている。だが、よく見ると鍵穴の周りが磨り減っている。誰かが何度も開け閉めした痕だ。
「悠真くん」
背後で店主の声がした。振り返ると、店主が倉庫の入り口に立っていた。表情は穏やかだったが、目が笑っていなかった。
「そこには触らないと約束したよね」
「……いつ、約束しました?」
「ずっと前だよ。君がここに来た時に」
俺にはその記憶がなかった。
「すみません。気になりすぎて」
「いいんだよ。ただ、あの中にあるものは、君が見るべき時が来たら自然と開く。それまでは、待っておやり」
店主はそう言って、俺を倉庫から連れ出した。
それから数日が過ぎた。
客は変わらず来る。忘れ物を返すたびに、俺は思う。この人たちは忘れていた記憶を取り戻し、店を出ていく。だが俺は、自分の記憶を取り戻せないままだ。
ある夜、店を閉めた後、俺は一人で店内に残った。店主は奥の部屋に戻っている。
俺は倉庫に入り、箪笥の前に立った。
鍵が、かかっていなかった。
俺の手が震えた。誰が開けたのか。店主が「時が来たら」と言った。もしかして、その時が来たのか。
一番上の引き出しを開けた。
中には、一つのオルゴールがあった。
掌に収まるほど小さな、木製のオルゴールだ。蓋には花の彫刻が施されている。見覚えがなかった。だが、手に取った瞬間、指先が熱くなった。
オルゴールが、鳴った。
ゼンマイを巻いていないのに。蓋を開けていないのに。旋律が、俺の中に響いた。
――それは、俺が知っているはずのない曲だった。でも、体が覚えていた。指が勝手にリズムを取る。口が勝手にハミングする。
そして、映像が見えた。
***
小さな庭がある。夏の日だ。向日葵が咲いている。
俺は子供だ。五歳くらい。隣に、女の子がいる。
俺より少し年上に見える。黒い髪を二つに結んでいる。
「ゆうくん、聞いて。この曲、おばあちゃんに教えてもらったの」
女の子がオルゴールを開ける。あの旋律が流れる。
「綺麗な音だね」
「でしょ? ねえ、約束して。この曲を聴いたら、絶対に忘れないって」
「忘れないよ。ずっと一緒にいるんだから」
女の子が笑った。太陽みたいな笑顔だった。
***
映像が消えた。俺は倉庫の床に座り込んでいた。オルゴールが止まっている。手の中で、木の温もりだけが残っていた。
あの女の子は誰だ。
俺は知っているはずだ。名前が出てこない。顔は見えたのに、名前だけが穴のように空白だ。
そして、もう一つ。
あの庭。あの向日葵。さっきの客――篠原海葉のストラップと同じ花だった。偶然か、それとも。
翌朝、俺は店主に切り出した。
「店主。あのオルゴールの中の女の子は誰ですか」
店主はお茶を淹れる手を止めた。長い沈黙の後、湯呑みを置いた。
「見てしまったのかい」
「鍵が開いていました」
「……そうか。開いたということは、時が来たということだね」
店主は椅子に座り、俺と向かい合った。いつもの微笑みはなかった。初めて見る、真剣な表情だった。
「悠真くん。私は話さなければならないことがある。でも、その前に一つ聞かせてほしい。あなたは、ここでの生活が好きかい?」
「好きです。この仕事も、店主と一緒にいる時間も」
「そうか。なら、覚悟を決めて聞いてほしい」
店主は一度目を閉じて、それからゆっくりと語り始めた。
「この店はね、悠真くん。普通の店じゃないのは分かっているね。忘れ物を預かって、記憶を返す。その仕組みは、この店そのものが、ある人の願いから生まれたものなの」
「ある人の願い?」
「そう。ある人が、どうしても忘れたいことがあって。その痛みがあまりに深くて。忘れたいと強く願った。その願いが、この店を作った」
「その人というのは――」
「君だよ、悠真くん」
空気が止まった。風鈴が鳴らない。お茶の湯気が揺れない。
「君は、ある人の死をきっかけに、全てを忘れたかった。忘れることで生きていけると信じた。そしてこの店が生まれ、君はここに留まった。店の keeper として。忘れ物を返す役目を担うことで、自分の忘れ物から目を背けて」
「俺が、この店を作った?」
「無意識の願いだよ。君が望んだわけじゃない。心が、勝手に守ろうとしたんだ。君を」
「じゃあ、あの女の子は。オルゴールの中の女の子は誰ですか」
店主は長い間、黙っていた。そして、言った。
「私だよ」
俺は声を出せなかった。
目の前にいる小柄な老女と、オルゴールの中の少女が、同じ人物だとはどうしても重ならなかった。だが、よく見れば、目の形は同じだった。笑った時の三日月も同じだ。
「私の名前は、柊琴音。君の、従姉だよ。君より五つ年上で、子供の頃からよく一緒に遊んだ。君が私のことを『ねえちゃん』と呼んでいたのを覚えているかい?」
覚えていなかった。だが、その言葉を聞いた時、胸の奥で何かが震えた。
「私はね、悠真くん。もう、この世の人間じゃないんだよ」
二度目の衝撃は、一度目よりも深かった。




