第一章 泣けない女の子と、笑わない男
翌日も、店は開いた。
正確に言えば、この店に定休日は存在しない。雨の日も風の日も、正月も盆も、扉は開いている。客が来ない日もある。そういう日は棚の整理をしたり、店主の話を聞いたりして過ごす。店主の話はいつも面白い。戦前の話でもなさそうだが、妙に古いことを知っている。
昼過ぎに、客が来た。
女子高生だった。制服のスカートが少し短く、鞄にはキャラクターのキーホルダーがいくつもぶら下がっている。だが目は笑っていなかった。いや、正確には、目が笑うことを忘れているようだった。
「あの、ここって、占いとかしてくれるんですか」
「占いじゃありませんが、忘れ物をお預かりしています」
「忘れ物? 私、何も忘れてないけど」
「忘れているからこそ、ここが見えたんですよ。どうぞ」
彼女は少し躊躇してから、椅子に座った。名前は篠原海葉といった。高校二年生。
「最近、何か変なことがありませんか? なくしたつもりがないものがなくなっていたり、いつもできていたことができなくなったり」
「……あ、それある。最近、全然笑えないんです。友達が面白いこと言っても、心から笑えなくて。作り笑いはできるんですけど、なんか違くて。前はもっと自然に笑えてたはずなのに」
「何かなくしませんでしたか? 小さなものでいいです」
海葉は考え込んだ。そして、ふと思い出したように言った。
「あ、ストラップ。携帯につけてたストラップを先月なくして。友達とお揃いのやつ」
「どんなストラップでしたか」
「ひまわりのやつ。友達が向日葵で、私が太陽。セットで買ったんです」
俺は棚に向かった。ストラップの棚には十数個のストラップが並んでいる。その中に、小さなひまわりのストラップがあった。黄色い花びらがプラスチックでできた、安いけれど愛着のありそうなものだ。
「これですか?」
「あ、それ! それです!」
海葉がストラップを手に取った瞬間、彼女の表情が変わった。
「あ……そうだ。私、このストラップを買った日に友達と喧嘩したんだ。些細なことだったんだけど、私が意地張って謝らなくて。それからずっと、気まずくて。笑えないのは、笑いたい相手の前で笑えないからなんだ……」
彼女の目に涙が浮かんだ。だが、すぐに拭って、少し恥ずかしそうに笑った。
「ありがとうございます。謝らなきゃ。友達に」
「忘れ物が戻ってよかったですね」
海葉はストラップを握りしめて店を出ていった。扉が閉まる時、風鈴が短く鳴った。
その日の夕方、もう一人客が来た。
男だった。四十代くらいで、背が高く、少し痩せている。スーツを着ているが、ネクタイは緩んでいて、全体的に疲れが滲んでいる。だが、俺が違和感を覚えたのはそこじゃない。
この男は、店に入ってきた時、迷っていなかった。
他の客は皆、扉の前で立ち止まる。ここに入っていいのか、ここは何の店なのか、一瞬ためらう。それが普通だ。この店は、忘れ物をした人が無意識に引き寄せられる場所だから、本人もなぜここに来たのか分からないことが多い。
だがこの男は、迷わず扉を開け、真っ直ぐカウンターに歩いてきた。
「いらっしゃいませ」
「久しぶりだね、悠真くん」
俺は息を止めた。
「……俺を知っているんですか」
「知っているも何も。君がここに来る前から知っているよ」
男はカウンターの向かいに座った。店主が奥から出てきて、男を見た瞬間、動きが止まった。ほんの一瞬。だが俺は見逃さなかった。店主の目が、いつもの三日月ではなく、鋭く細められたのだ。
「おや、あなたは……」
「こんにちは、店主さん。元気そうだね」
男は穏やかに言った。だが店主の表情は戻らなかった。
「悠真くん、お茶を淹れてきてくれるかい」
「はい」
俺は奥に下がった。だが、途中で立ち止まり、壁の隙間から二人の様子を伺った。
「君は来るべきじゃなかった」店主の声が低かった。
「彼はまだ気づいていないのかい?」
「気づかせるわけにはいかないよ。彼はまだ――」
「店主さん、君は残酷だね。彼がこのままでいいと思っているのかい?」
沈黙が落ちた。
「彼が望むなら、それが彼の選択だよ」
「選択? 選択肢を知らない者に選択なんてないよ」
俺がお茶を持って戻ると、男はもう立ち上がっていた。
「悠真くん。一つだけ教えておくよ。この店にある忘れ物の中に、君自身の忘れ物もある。棚にはない。もっと奥に。見つけたら、開けてみるといい」
「俺の忘れ物?」
「そう。君が忘れているのは、ただの記憶じゃない。もっと大事なものだ」
男はそれだけ言って、店を出ていった。風鈴が鳴らなかった。扉がまっても、あの音だけはしなかった。
俺は店主を見た。店主はお茶を啜り、何事もなかったかのように微笑んでいる。
「店主。あの人、誰ですか」
「ただの客だよ。お茶が冷める前に飲みな」
俺の質問は、またしても微笑みに飲み込まれた。




