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プロローグ 路地裏の店

俺の働いている店には、看板がない。


 正確に言えば、あったのかもしれないが、俺がここに来た時にはもうなかった。風雨に晒されて文字が消え、最後は軒先から落ちて誰かの足音と一緒に砕けたのかもしれないし、最初から存在しなかったのかもしれない。どちらにせよ、今はただ古びた木の板が一枚、店名らしきものを隠すように入口の上に横たわっているだけだ。


 場所は、駅の南口から徒歩七分。商店街の一角を抜け、ラーメン屋の脇にある細い路地を入り、ゴミ袋の山を左に曲がると、そこに忽然と現れる。雨の日は少し分かりにくくなるが、晴れの日なら夕方四時頃に西日が路地の隙間を縫って差し込み、店のガラス戸を橙色に染める。その光が目印だ。


 店の中は、見た目は普通の古い雑貨屋に近い。棚には色とりどりの小物が並んでいる。ハンカチ、携帯ストラップ、読みかけの文庫本、片方だけのピアス、折り畳み傘、使いかけの消しゴム。どれも誰かが忘れ物をした時に一緒に預けてしまったものだ。


 ただし、この店が預かっているのは物理的な忘れ物だけではない。


「お客様がいらっしゃったよ、悠真くん」


 カウンターの奥から、店主の声がした。


 店主――俺は彼女をそう呼んでいるが、本名は知らない。年齢不詳の女性で、見た目は七十代の小柄なおばあさんだが、背筋は驚くほど伸びている。いつも薄紫色のカーディガンを羽織り、銀色の髪を低く結い上げている。目は小さく細いが、笑うと三日月のように優しくなる。


「はい、ちょっと」


 俺は棚の整理を途中で切り上げ、カウンターに戻った。ガラス戸の向こうに、人影が迷うように立っている。


「いらっしゃいませ」


 扉を開けると、風鈴がチリンと鳴った。夏じゃないのに、と客は不思議そうに天井を見上げた。


「あの、ここは……」


「忘れ物預かり所です。何かお探しですか?」


 客は三十代くらいの女性だった。仕事帰りらしく、スーツの襟に小さなブローチをつけている。だがその表情は、何かを探しているというより、何かを失くしたことに気づいていない人特有の、ぼんやりとした空虚さを漂わせていた。


「探しているというか……最近、どうも泣けなくて。悲しいことがあっても涙が出ないんです。前はそうじゃなかったと思うんですが、いつからだろう。それが気になって、でも病院に行くほどでもなくて……ふと、この道を通りかかったら、ここが見えて」


「どうぞ、お座りください」


 俺はカウンターの前にある椅子を引いた。店主が奥からお茶を持ってくる。湯気と共に、ほのかに柚子の香りが漂った。


「お名前を教えていただけますか」


「三上、三上紗英です」


「三上さん。あなたが忘れているものは、ここに来た時になんとなく分かるんです。少し質問させてください。最近、ハンカチをなくしませんでしたか?」


 彼女は目を見開いた。


「……ええ、実は。母の形見のハンカチを。先月、実家を片付けている時にどこかに置いたまま帰ってきて。探したんですけど、見つからなくて」


「そのハンカチ、ここにあります」


 俺は棚から一枚のハンカチを取り出した。白地に小さな藤の花が刺繍された、上品なものだ。少し古びているが、丁寧に畳まれている。


「これを手に取ってみてください」


 三上さんがハンカチを受け取った瞬間、彼女の指先が微かに震えた。


「あ……」


「何か見えますか?」


「母が、これを洗っているのが見えます。裏庭で。私が小さい頃、横で遊んでいて……母が『紗英、これお洗濯手伝って』って言ってきて、私が水跳ねをして怒られて……」


 彼女の目から、涙がこぼれた。


「あれ、なんで……急に、泣けるようになった」


「忘れていたのはハンカチじゃありません。あなたがお母さんと過ごした時間の、ある感情の記憶です。ハンカチはその記憶が宿っていた器だった。手元に戻ったことで、記憶があなたに帰った」


 三上さんはしばらく泣いていた。店主が黙ってティッシュを差し出した。店内には風鈴の音だけが遠く響いていた。


「ありがとうございます。すっきりしました。あの、お金はいくらくらい?」


「お代はいりません。忘れ物は持ち主に返るのが当然ですから」


 三上さんは何度も頭を下げて、店を出ていった。夜風が扉の隙間から入り込み、風鈴をもう一度鳴らした。


 店主がお茶を淹れ直してくれた。


「悠真くん、今日は何件だった?」


「三件です。朝にサラリーマンの方、お昼に学生さん、そして今の三上さん」


「お疲れ様。いい仕事をしているね」


「店主こそ」


 俺はお茶を啜った。柚子の香りが鼻を抜ける。このお茶はいつ飲んでも美味しい。不思議なことに、同じ茶葉を使っているはずなのに、毎回味が微妙に違うのだ。店主は言う。お茶の味は飲み手の心で変わるのだと。


 俺はこの店に来て、どれくらい経つだろう。


 不思議なことに、それが分からない。一年かもしれないし、三年かもしれない。十年という気もする。カレンダーは壁に掛かっているが、日付を見るたびに数字が曖昧に滲んで、確信を持てない。


「店主」


「ん?」


「俺さ、この店に来る前は何をしてたんだっけ」


 店主はお茶を啜り、ゆっくりと湯呑みを置いた。


「前のことは、気にしなくていいよ。あなたはここでよく働いてくれている。それだけで十分だろう」


 いつもそれだ。前のことを聞くと、店主は微笑んで話を逸らす。まるで、俺が聞かない方がいいと知っているかのように。


 俺自身の忘れ物は、どこにあるのだろう。

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