エピローグ 路地裏のない場所
目が覚めると、俺は自分の部屋にいた。
実家の自分の部屋だ。机の上に、大学の教科書が積み上げられている。カレンダーは、十年前の夏を指していた。
夢だったのか。それとも、あの店での時間は、現実の隙間に挟まれた数年だったのか。分からない。だが、一つだけ確かなことがある。
俺の目から、涙が流れていた。
そして、机の上に、オルゴールがあった。
木製の、小さなオルゴール。蓋に花の彫刻が施されている。俺は震える手で蓋を開けた。あの旋律が流れた。夏の日の庭で、向日葵の下で、ねえちゃんが俺に聴かせてくれた曲。
俺はオルゴールを握りしめて、泣いた。
でも、今度は逃げなかった。涙が止まるまで、ちゃんと泣いた。
***
それから、時間が動き始めた。
俺は大学に戻った。卒業した。就職した。普通の生活を始めた。忘れ物預かり所での経験が、俺を変えたのかもしれない。人の痛みに、人の記憶に、以前より敏感になった。
あの店には、もう行けない。駅の南口から商店街を抜け、ラーメン屋の脇の路地を入っても、そこには何もない。ただの塀と、ゴミ袋の山があるだけだ。
でも、時々思う。
誰かが強く忘れたいと願った時、あの店はまた現れるのかもしれない。新しい keeper と一緒に。誰かの忘れ物を預かって、いつか返す日のために。
俺の手元には、オルゴールがある。ねえちゃんの忘れ物にして、俺の宝物にしたもの。
蓋を開けるたびに、あの曲が流れる。夏の日の向日葵と、三日月の笑顔を思い出す。
忘れることは、逃げることじゃない。
思い出したくなった時に、取り戻せる場所があること。それが、ねえちゃんのくれた優しさだった。
俺は今日も、オルゴールの蓋を開ける。
旋律が流れる。
忘れ物預かり所は、もうない。
でも、忘れ物は、ちゃんと持ち主のところにある。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語のテーマは「忘れることと、思い出すこと」です。
忘れることは決して悪いことではありません。心を守るための、自然な反応です。でも、いつか思い出す勇気を持てた時、人は一歩前に進めるのだと思います。
悠真が最後に選んだのは、忘れ続けることでも、無理に思い出すことでもなく、「自分のペースで向き合うこと」でした。それが、彼の従姉・琴音が遺したかったメッセージでもあります。
もしよければ、感想をいただけると嬉しいです。
では、また別の物語で。
程爺




