三太郎のたくらみ
階段を駆け上るのは、わずかに夏波の方が早かった。けれど、夏波にとっては、初めての事だ。念の為と説明はされたが、気持ちも焦るし、すぐに千秋も追いついて来る。
慎重に注ぎ口に綱を入れて、管の先へ向かって押し込めていく。当然、配管の中には湯の花が蓄積されていて、最初こそ、するすると入っていった綱は、だんだん重くなっていく。
そうなると、網状になっている蓋を外して、そこから手を入れて、つまっている部分を抜ける必要があるのだが、差し入れた綱の長さと、詰まっている場所を判じるのは、夏波にとって容易な事では無い。
既に千秋は、詰まっているとおぼしき場所の網を外して、湯の花をかき出し、綱を先へ進めた。
ダメだ、これではラチがあかない、そう思った時に、ぱっと夏波は閃いた。階段沿いにある土産物屋へ行き、竹刀を一本購入した。
そして、手刀一発! 器用に竹刀の途中を割って、その中に綱を括りつけ、竹刀ごと綱を管へ戻した。
つまりは、巾着袋に紐を通すやり方だ。竹刀を紐通しの替りにして、綱を押す。少々障害物があっても、竹刀はそこを分け入るようにして進んでいった。
そうなると、途中で網を上げて、押し出してやる必要の無くなった夏波側の方が有利だ。
注ぎ口に待つ、綱取りの源爺にまで綱が届くと、やりとげた夏波は湯の花と湯で全身を汚しながら、力尽きて座り込んでしまった。
「すごい! すごいよ夏波ちゃん!」
座り込んだ夏波を抱きしめて星太夫が言った。
「あー、いやあー」
少々間抜けな声をあげて、夏波が恐縮した。
儀式化されたせいで思考が停止してしまったのか、ちょっと考えればわかる事が、案外盲点になっていたのかもしれない。
綱が渡ると、今度は曳き綱になるが、いまだに綱取りの藤五郎の元へ辿りつけない、千秋陣営の、三太郎が言った。
「やるねえ、夏波ちゃん、でも、引き手の数がこちらとそちらでは段違いだ、それくらいの差、あっという間に縮めてみせるよ」
勝ち誇ったように言う三太郎に、六曜が言った。
「余裕だねえ、だが、こっちはこっちで何の手も打ってないと思うのかい?」
「……どういう事だ」
三太郎は、六曜相手にはペースを乱しがちだった。三太郎を見下ろすように上段に構えた六曜が右手をあげた。
「さあッ、引き手の皆さん、そろそろいくよッ!」
六曜の声で、星流楼の法被姿の老若男女がわらわらと見物席から進み出て来た。
「それではぁー、皆様、声を揃えてー、わーーーっしょい!!」
見物客から引き手が出現した事の意味に、三太郎はすぐ様気がついた。
「バカな、そんな、お客様に引き手を!?」
先ほどの夏波同様、膠着状態からは思いつかない策だった。宿の働き手で手が足りないのならば、外から人を入れるしかない。そして、その人手はごくごく近くにいる。
『湯引き』は裏方の仕事、という先入観が、『湯引き体験』として、客に参加させるという発想にならなかった。
太鼓の音と、はずむような六曜の声に、誰もが笑顔で綱を引いている。
しかし、人数が少々まとまったとしても、熟練度の高いこちらの方が有利、と、三太郎は、まだ高を括っていた。
少し遅れて、千秋が縄の先端を手に、階段を降り切った。藤五郎にそれを渡すと、六曜からわずかに遅れて三太郎が声をあげた。
縄を手にするのは、星流楼の従業員達で、慣れた調子で綱を引く。みるみるうちに、流れ出る湯の量が増えていく。
綱を引き、湯の花を掻きだすたびに、湯の量が増えていく。最初は夏波側が優勢だった、千秋側も息の合った様子でその差は縮まっていった。
「もう、あとちょっとなんだから! 急いで! 急いでッ!」
金切り声をあげる千秋に、星流楼の皆はぎょっとした。藤五郎ですら舌打ちをしている。
一方、夏波は、引き手に混ざって一緒に綱を引いていた。
引き手の息を合わせる必要のある場面ではあったが、夏波は一人でも綱の持ち手が多ければよいと考え、皆に混ざったのだ。
一方、千秋の方は、金切り声を上げるだけだ。
その様を、星太夫は見ていた。
女将も、その場にいる従業員達も。
焦る三太郎に、六曜が皮肉を込めた視線を送った。
三太郎は、しかし、不敵に六曜を睨み返した。
一瞬、三太郎の声がやみ、太鼓の音だけになると、三太郎は懐から鳥笛を取り出し、空に向かって吹いた。
高い、耳障りな音が、六曜達の声を遮るように鳴り響くと、太陽が陰る。
大きな翼を持った黒ずくめの影が、太陽を遮ったのだ。黒い羽を羽ばたかせて、三太郎の横に降り立ったそれを見て、夏波の顔色が変わった。
「夏波ちゃんっ!」
星太夫が夏波の手をとって落ち着かせる。夏波側の引き手達が、そんな二人に気を取られた一瞬の事だった。
千秋側の配管から、大量の湯がほとばしる。
「ああっ」
夏波が、両手で顔を覆った。ほとんど同時に、夏波側の管からも、湯が流れだす。
ほぼ同時ではあったが、ほんのわずかな一瞬、千秋側の方が早かった。
先ほどまでにヒステリックにわめいていた千秋は大喜びではしゃぎ出していたが、藤五郎も三太郎も、割り切れない様子であったし、他の星流楼の従業員達についても同様だった。
反して、夏波側の源次郎は、悔しがったりせずに、まず最初に手伝ってくれた人々をねぎらった。六曜は、即座に櫓を降りて、ふるまいの酒を配り始めている。
六曜の声がけで、千秋側で綱を引いていた中居達も、ふるまい酒の給仕を始めた。
法被を着た客達は、口々に残念であったと言いながらも、晴れやかな顔で、存分に湯引きを楽しんだ様子だった。
先に湯の花を散らせたのは千秋の側だったが、人が集まっているのは、夏波と星太夫二人の方であった。




