勝負の結果
湯引きが終わると、二つの配管から流れ出す湯で、あたりはもうもうとした湯煙と、源泉独特の匂いが満ちた。
千秋は勝利に酔っているのか、ヘンに浮かれて星太夫にまとわりついては追いやられていた。
夏波を気遣って、六曜は夏波を中居達と共に、協力してくれた『湯引き体験』の客達のもてなしの為、大宴会場へ呼ばれていた。
「こんなに景気よくふるまっていいのかしら、負けた挙句に大赤字では、目もあてられないわ」
皮肉をこめて、千秋は立ち去ろうとしていた六曜と夏波に向かって嫌味を言ったが、二人は相手にせずに大宴会場へ急いだ。
宴会場では、あらかじめ料理長の手によって準備されていた弁当が配布されていた。
湯引き体験と、法被と手ぬぐいはそのままお土産に、湯引きの後の振る舞い酒と、昼食の弁当。ここまでの支出をどうやってまかなったかといえば、何のことはない、『有料』だったのだ。
赤字どころでは無い、今までは従業員に『手当』を出していた『湯引き』を、『湯引き体験』として昼食付きのイベントにしたてたのだ。だが、客の前でそんな事を言うわけにもいかず、六曜は無言を通し、今は夏波と中居達と共に接客に専念していた。
お茶を入れたり、おかわりを運んだり、夏波は、中居の面々とは馴染みが無かったが、六曜の傘の元にいたせいか、すんなりと受け入れられて、大いに助けてもらった。
また、湯引き体験について語り合う客達も、夏波を見ると、
「いやー、あの、竹刀を手刀でこう、すぱああっとやったところ、よかったねえ、胸がすいたねえ」
「惜しかったねえ、もうちょっとだったねえ」
と、ねぎらいの言葉をもらう事もしばしばだった。
全ての客を見送った後の、夏波の表情は晴れやかだった。
「ずいぶん、いい顔になったねえ」
六曜が言うと、
「人に喜んでもらうのって、こんなに心が満たされるんですね」
夏波は、少し放心したような顔で答えた。
けれど、『負け』は『負け』なのだ。そして、あの、三太郎が笛で呼び出した、黒い羽の男。
夏波は、拉致されそうになった時の事を思い出して身震いした。
「どうしたんだい?」
六曜に言われて、夏波はようやく昨晩の怖かった事を思い出した。
「三太郎……あの子は……」
事情を聞いた六曜は、怒りをあらわにして、三太郎の元へ向かおうと踵を返した。しかし。
「六曜、夏波も、おいで、もう宴会場の方は片付いたんだろう?」
女将がやって来て、言った。
「六曜、あなた、随分やりたい放題やってくれたわね」
言葉はキツいが、そう言っている女将の顔は怒っても悔しそうでも無かった。うれしそうに、喜んでいるように、夏波には見えた。
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すっかり片付いた大宴会場の、ステージの前に女将が立っていて、三太郎と藤五郎、源次郎は既に来ていた。
「若旦那は?」
六曜が尋ねると、走って何かから逃げるようにして星太夫が現れた。
「ああっ、夏波ちゃん! 助けてっ!」
そう言って、夏波の後ろに星太夫が隠れると、星太夫を追いかけてきた千秋が続いた。脇目もふらずに追いかけてきたのだろう、髪を振り乱し、走ってきた千秋は、その場に女将がいる事に気づいて、あわてて足を止めた。
白々しく身繕いをして、何事もなかったかのように三太郎の前に立った。
中央に女将、右に千秋、左に夏波が立っていたが、その立ち位置に千秋が真っ先に意見をした。
「夏波、あなたはこっちよ、場所、変わりなさい」
「え? 何で? 決まってるの?」
何も考えずに、元々いた場所に残っていただけなのに、後から来た千秋に文句を言われて夏波は驚いた。
「あなた、本当にものを知らないわね、左側の方が偉いのよ、今回の勝負に勝ったのは私なんだから、私が偉いに決まってるでしょう?」
すでに自分が勝者である事をはばからない千秋は、居丈高に言い放った。
「あー、そうなんだ」
夏波は、勝負に負けた事は自覚しているつもりだったので、素直に千秋に従って、場所を動こうとした。しかし。
「いいえ、動く必要はないわ」
女将が、動こうとした夏波に言った。
「え、でも、私……」
どちらの言い分に従うか考えれば、この場において、一番上に立つのは女将のはずだった。夏波はどうしていいかわからなくなって、女将と千秋を交互に見た。
「千秋、あなた、どうして自分が勝ったと思っているの?」
女将の言葉は冷ややかだった。その迫力に圧倒されたのか、千秋の顔から高慢な笑顔が消えた。
「え……、だって、湯引きが先に終わったのは私の方で……」
「私は、先に湯引きを終えた方が勝ちなどと言ってませんよ」
女将の言葉に、夏波も驚いて六曜と源次郎を見た。二人は、どうやら予想していた様子で、納得している表情を浮かべている。三太郎も、苦々しい顔をしていた。
「どういう事?!」
取り乱して、千秋が三太郎に取りすがったが、三太郎は六曜をじっと見て、押し黙っている。
「で、でも、夏波は、お客様を使役したり、お酒やお弁当を振る舞ったりして、星流楼へ損害を……」
「ダメだ、お嬢、夏波ちゃん達は、利益をあげたんだ、僕らは支出のみで、売上は無い、それに、自分の振る舞いを思い出してごらん」
「どういう事よ……」
三太郎が言いにくそうにしていると、六曜が言った。
「あんたも夏波も、振る舞いを試されていたのさ、あんた、自分が何をしたか覚えてないのかい?」
「別に、私は湯引きを……」
「ああ、確かにそうだね、あんたは湯引きをしていた、ただ、湯を引いた、それだけだ」
「だって、今回の課題は湯引きでしょう?」
「若女将の適性を見るのが目的……だったんじゃないのかい?」
六曜が顎をしゃくって、女将の方を見た。女将は無言で頷いた。
「千秋、あなたは、押し方の役割を終えた後、自分がどこにいたか覚えている? そして、その時、夏波が何をしていたかを」
女将の声は静かで、何の感情もこめられていないように聞こえた。それだけに、ひどく冷ややかに聞こえた。
千秋は、赤面していた。怒りの湯気が、頭から出てきそうなほどだった。
「……ッ、だって! そんな事、誰にも指示されなかったもの! そうよ、誰も教えてくれなかったわ!」
「誰かに指示をされる立場なのかい? 若女将という存在は」
女将が言った。
千秋は、何かに気づいたかのように表情を変えて、それ以上言葉を重ねる事はしなかった。
「では、私の考えを述べます、若女将には、夏波を指名します」
「待って下さい」
女将の言葉を夏波が遮った。
女将が、六曜が、千秋すらも、夏波を見た。
「……あの、言葉を許していただけるのなら、よろしいでしょうか」
たどたどしく、夏波が言った。一斉に注目される事で、少し緊張しているようだった。
「……辞退させて下さい、私には、無理です」
「どうして、そう思うの?」
女将が、鷹揚に尋ねた。
「売り言葉に買い言葉で、……いえ、むしろ、千秋への対抗心だけで、お受けしてしまいましたが、私は、この、星流楼の事をまだ何も知りません、今回は、六曜や源さん、星太夫に助けてもらって務める事ができましたが、私一人ではまだ何もできません、そんな人間が、若女将とか……、もし、私がこちらの勤め人だったら、そんな人間に指示されるのは、嫌だと思うんです、今のお話を聞いて、確信しました、私は、指示を出すべき能力に欠けています」
千秋は、赤かった顔を真っ白にして、三太郎によりかかり、体を支えてもらった。
三太郎が、そんな千秋を支える。
「ただ、もし、許していただけるのでしたら、星流楼で私を雇っていただけないでしょうか」
夏波は、やっと言えた、という面持ちで、胸をなでおろした。
「馬鹿にしてるの?! 私の事を」
千秋は、三太郎の腕を支えにしながら、夏波に言った。
「私をなぶって、それで楽しい?」
「誰もそんな事は言ってない」
「言ってるのと同じよ! 自分一人いい子のような顔をして、あんたは昔からずっとそう! 先生のお気に入りで、取り入るのが上手、今回の事だって、事前に根回ししていたのではないの?」
星太夫がたまりかねて、何か言おうとするのを、三太郎が遮った。
「いい加減にするんだ、お嬢」
「今回の件、お嬢の方がずっと有利だった、違うか?」
「でも、結果は!」
泣き出す一歩手前のような顔をして、千秋が言う。
「ああ、そうだ、藤五郎を先に味方につけて、従業員達まで、できる事は全部した、前の晩、彼女を拉致する事には失敗したが、できる事は全部やった、台無しにしたのはお嬢じゃないか」
いじわるそうにそう言う三太郎の視線は嗜虐心に満ちているようで、頬は紅潮し、どこか気持ちが昂ぶっている様子だ。
「わ……私が悪いっていうの?」
「そうじゃない、自分のした事には責任をとるべきだと言っている」
一番の味方だと思っていた三太郎の言葉に、千秋の感情がついに爆発した。
「何よ! 皆で私を馬鹿にしてっ!」
そう言って泣き出し、千秋は三太郎の腕すらふりほどいて宴会場から出て行った。
「俺が、追います」
三太郎が言って、星太夫に向かってウインクをした。その表情はどこか晴れやかにも見えた。一瞬、六曜とも視線が合って、その時は、はにかんだ笑顔を見せていた。
「大丈夫……かな」
夏波が心配そうに言うと、星太夫が少し苛立ったような顔をして言った。
「……結局、三太郎に踊らされた結果になったわけか……、まあ、しょうがないんだけど」
「あいつは、ああやって好きなものを追い詰めるんだよ、根性ネジ曲がってんのさ、まったく、誰に似たんだか」
母親にそんな風に言われると、三太郎の方も憐れではあったが、ともかくとして、一応その場は収まったという事になるのだろう。
「さて、千秋は行ってしまったけれど、本音はどうなのよ、夏波」
六曜が、からかうように言った。どうやら六曜は、夏波が千秋に遠慮をしてあのように言ったのだと思っているようだった。
「これが、本音です、だって、私は何もしてません、みなさんの力です」
真面目くさって夏波が言うと、六曜は女将の方を見、女将もまた六曜を見た。互いに、心得たり、といった様子だった。
「それが、あなたの望みと思ってよいのですか?」
確かめるように女将が言い、納得したように、夏波がうなずいた。




