お湯を引け!
ドォーーーーーーン、
ドォーーーーーーン、と、大太鼓が青空に響いた。
宿泊客が退出して、宿内に客は居ない。今日は延泊者がおらず、延泊希望の客については、事情を説明して大日屋へ誘導した。『湯引き』の必要性は、客も心得ており、不満を言うものはいないのだという。
夏波は、『この世界』の温泉は、夏波の知っている『温泉』と、その効能において大きな違いがあるのではないか、と、思い始めていた。
まるでそれは、夏波の世界の信心深い人たちが、ご利益を求めて一宮を巡るように、まず『湯』があって、その神威をいただくような敬虔なところがある。
そう考えると、客室の備え付けられた物とはいえ、煩悩にまみれた事を考えてしまった自分が恥ずかしくなるのだが、そんな夏波を見透かしたのか、星太夫が耳打ちした。
「命の営みも、それはそれは神聖なものだと、僕は思うけどね」
星太夫が夏波の腰をひいて、耳元に意味ありげに囁くと、階段を挟んだ向こう側のテントにいる千秋が、憤慨したように夏波達を指差して、三太郎に何か言っているのが見えた。
星太夫は、箍が外れたように夏波にべたべたとまとわりついていた。もう、どうみても……。
「思いを、遂げられたようだね」
鼻をふくらませて六曜が言うと、夏波が恥ずかしくなるほどに、星太夫がやにさがっただらしない顔を見せた。
「いや、まだ、正確には……」
思わず際どい会話になりそうなところで夏波が思い切り星太夫の足を踏みつけた。
「……ッ」
涙目で無言になり、しかし、必死で痛みに耐えている星太夫に、六曜がうれしそうに笑って言った。
「既に、敷かれ初めてるンじゃあないのかい?」
「……知りませんッ!」
真っ赤になって、照れた夏波がそっぽを向いた。
どこかなごやかな夏波達のテントに対して、千秋の方には殺伐とした空気が漂っていた。
どう見ても『出来上がっている』としか思えない夏波と星太夫の様子に、気づかないほど千秋は鈍感では無い。
みかねた三太郎が千秋に言った。
「……もう、やめない? 若旦那の気持ちは、もうどうやったって手に入らないと思うんだけどね」
たしなめるように言った三太郎が、向いのテントでいちゃつく星太夫を夏波の様子に、
「あー、もう、見てられないねえ」
その場にいる皆が、千秋に同情的でそんな空気は、針でできた筵のように千秋をいっそう苛立たせる。
「だから何よ、私、夫になる人の浮気くらい許してみせるわ! 何があったって、別に、私がせいちゃんの最後の女になれば勝ちだもの」
もはや、星太夫への恋心ゆえなのか、夏波の思う通りにさせたくないという、幼稚な自尊心なのか、どちらが大切で、どちらが優先されるのか、千秋にもわからなくなっている。
「……好きだからこそ、身を引く、っていうのも、女ぶりを上げると思うけどね」
「何よ、それ、六曜の事?」
星流楼の先代の愛人、……そして、三太郎の、母親。
「母は、自分を惨めたらしいと思った事など一度も無いと思うな、あの人は、己の欲望に忠実なだけ」
「星太夫に、一度でも情けを受けて納得しろっていうわけ?」
もちろん、千秋がそんな事で納得するとも三太郎には思えなかった。
あー、この短期間でいい女になったなー、これなら落し甲斐もあると思うんだけどな―、と、不埒な事を思いながら、泣きながら、星太夫を求める千秋を組み敷いたら、どんなに胸がすくだろう、と、妄想する自分も、たいがい難儀な癖だなあ、と、三太郎は思った。
「……何よ」
三太郎の不埒なものを含んだ視線に気づいたのか、千秋が睨み返す。
「いいえ、なんでも」
にっこりと微笑んで、三太郎は、あー、こぶち犯してぇ、と、口汚く、心の中で毒づくのだった。
「知ってるのよ、あんたの好みは結局母親なんだから」
思いがけない方角から流れ弾が飛んできて、驚いた三太郎はいつもの『何を考えているのかわからない笑顔』を一瞬だけ忘れた。
「まさか」
とりつくろった笑みを作って、三太郎は少し大げさに肩をすくめてみせた。
否、『気にしていないふり』をするのがせいいっぱいだった。
--
湯引きは、声を出して呼吸を整える声方と、曳き綱を配管に入れて押し出す押方と、排出口まで到達した綱を身体に巻きつけて、引手を支える綱取りが必要だ。
千秋の方の声方は三太郎、押方は千秋で、綱取りは藤五郎だった。
対して、夏波の方の声方は六曜、押方は星太夫で、綱取りは源次郎だ。
「ちょっと待ってよ、私と夏波の勝負でしょう? 何でせいちゃんが出るのよ!」
憤慨して千秋がくってかかってきた。千秋の言い分はまあ、もっともではあるのだが、それではいくらなんでも夏波側が不利すぎる。夏波は、『湯引き』を一度も見たことが無いのだ。ましてや、押方は、スピードを左右する要の役割。夏波を押方にするのでは、負けが決まったようなものだ。
「僕は、優勝賞品になったつもりはないんだけどね、僕が推すのは夏波ちゃんだ、僕が押し方をやるのがふさわしいと思えないかい?」
今の星太夫に敵はいなかった。思い人と思いが通じ合った男の本気を、三太郎は見た。
そして、少しだけ嫌がらせをしたくなった。
「でも、お嬢の言い分も尤もだと思えない? 男女の別ってだけで、お嬢にとってはたいそうなハンデだ、……夏波ちゃんは、お嬢と向き合って、己の意志を見せる必要があると思うけどね」
それは、星太夫だけでなく、夏波に対する挑発だった。
「気がついたらこちら側で、いいなーと思う男性に告白されてって、ちょっと都合よすぎると思わない? 夏波ちゃん」
三太郎が、不敵な笑みを見せた。
--
声方が、それぞれ櫓に乗ると、六曜が三太郎を一瞥した。
「まさか、あんたとこんな形向き合う事になるとはね……」
「いつまでも、現役でいられたら困るんですよ、あなたにうろうろされると、私の出世の邪魔になりますから」
母と息子が、向き合ったのは別陣営に分かれての事だった。どちらが望んだ結果なのかは、今となってはもうわからない。
「もう、足腰弱ってるんじゃないですか、いつまでも若いつもりでいるあんたに、今日引導を渡してやるよ」
いつも温和な藤五郎も、好戦的な雰囲気に飲まれたか、日頃たまったうっぷんをはらすかのように、父親相手に向こうを張った。
「しゃらくせえ、力でどうにかなるって思ってるようじゃあ、まだまだ俺は引退できねえなあ」
そう言って、着物の袖をまくった源次郎の二の腕は、とても老齢とは思えないほどの張りと輝きを見せている。
「……何だよ、結局筋肉自慢かよ、オヤジ」
そう言って、藤五郎は裾をからげて四股を踏んだ。藤五郎の長い足の指が、しかりと大地を踏みしめる。藤五郎のこの頑健な下半身をもってすれば、そうそう縄がたわむ事は無いに違いない。
「まさか、受けてくれるとは思わなかった、本当、あんたって、いっつも黙って美味しいところをもっていくのよね、……大ッ嫌いよ」
千秋が、夏波に向かって思いの丈をぶつける。
「誰のせいだと思ってるのよ」
夏波はつぶやいた。
「どういう意味よ!」
目を血走らせる千秋に何か言って、火に油をそそぐがごとき真似はしたくない夏波は、
「何でも、さあ、そろそろ始まるんじゃないの?」
着物にたすき掛け、足元は草履。この段階で、随分なハンデだな、と、夏波は思ったが、勢い込んで階段を昇っていく千秋が、一瞬足元をよろけさせているのを見て、ああ、もしかしたら、あまり変わらないかも、とも、思った。
「千秋! 夏波!」
配管と配管の中央にある階段の一番下の段で、女将が双方を呼びかけた。
「どちらも、用意はいいかい?」
「もちろん!」
と、余裕たっぷりに千秋が返し、
「はい!」
と、気合を入れるように、夏波が腹に力を込めた。
女将の背後に控えていた大太鼓が三度鳴り、その三度目がスタートの合図だった。
ドーーーン、
ドーーーン、
ドォぉぉーーーーーん!!
太鼓の音を合図に、各々綱を持った千秋と夏波が、源泉の注ぎ口の方へ向かって階段を駆け登っていった。




