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星太夫の本気

 離れの鶴の間へ向かった星太夫は、女のものと思われる叫び声を聞き、即座に反応した。他の離れの客への説明へ向かう三太郎と目配せする時間わずか数秒。


 星太夫は、そうはいっても三太郎の察しのよさと、意志を通じる為にあまり言葉を必要としない点において、一番事を進めやすくやりやすい事を実感した。


 侵入者と思われる影が、夏波と思われる女性をかついで立ち去ろうとする前に、星太夫が立ちはだかった。


「お前は誰だ」


 夏波は、頭に袋をかぶせられていた為、声はよく聞き取れなかったが、自分を抱えている何者かが立ち止まった事はわかった。


 カチャリ、と、金属音が響き、喉元に金属がつきつけられる感覚がある。


 刃物をつきつけられているという本能的な恐怖に、夏波は身をすくめた。無力に抱え上げられるのも初めてならば、刃物を突きつけられるのも初めてだ。


 怖い、ただただ怖い、と、思いながら、夏波は目を閉じて、身体を固くする。


「夏波ちゃん!」


 それは、星太夫の声だった。


 恐怖に震え上がりそうだった夏波だったが、星太夫の声に自分でも驚くほど安心し、救われた思いがする。


 星太夫が近くにいてくれる、そう思うだけで、恐怖が薄らいだのがわかった。


 落ち着いて、今の自分をどうにかしなくてはという思いが、ようやく湧いた夏波は、今の自分の状況を把握すべく、感覚を研ぎすませた。


 足は、動く。両腕は動かない。頭に袋はかぶせられているが、解けないほどの戒めでは無い。足が地につかない事で、不安はあったが、三メートルを超えるような高さでは無いはずだ。


 幸い、離れに来る道は、玉砂利が敷いてはあったが、敷石は無かった。万が一でも頭を打つことは無い、そう、思い至った夏波は、足の触れている場所を確かめて動いた。


「もう一度尋ねる、お前は誰だ」


 星太夫の声にあわせて、夏波は思い切り、足で触れる場所を蹴りつけた。


 ぐらり、と、夏波をかかえていた者の体が揺れて、バランスを崩した一瞬、夏波は、反射的に身体を丸めながら、転がり落ちた。一瞬息はつまったものの、痛みはそれほどでは無い。そして、落下の衝撃で夏波の頭にかぶせられていた袋がとれた。


 袋をかぶせられていたせいか、夏波の目は、既に暗闇に慣れていた。空は星がまたたいていたが、月は見当たらない。だが、すぐ近くに星太夫がいるのがわかった。


「星太夫ッ!」


「夏波ちゃん、こっちを見るなッ!」


 星太夫の気が、一瞬夏波に向いた隙をついて、夏波を拉致しようとしていた影がかけ出した。


「クッ!」


 踵を返して、星太夫が影を追いかける。


 夏波は、腰に力が入らず、そのままそこに座り込んでしまった。


 自分を拉致しようとした者よりも、闇の中で赤く光っていた星太夫の瞳。その影の大きさ。声は、確かに夏波の知っている星太夫のモノだった。


 しかし、闇の中で身を翻して影を追った星太夫の姿は、人のソレでは無かった。


 広げられた、大きな翼。怪鳥のモノ。大きな鳥が、助走をつけて飛び上がる姿を、夏波は恐れ、声を失った。


--


 どれほどの時間か、夏波を一人にしておけないと、すぐに戻って来たらしい星太夫の姿は、元の姿に戻っていた。


「夏波ちゃん、大丈夫? 怪我は?」


 夏波は、今しがた見てしまった星太夫の姿について尋ねるべきか迷った。


 しかし、思いとどまった。少なくとも、星太夫のおかげで、暴漢に拉致される事は無かったわけだし、自分は救われたのだから。


 夏波は、恐怖で震える足をつねりながら、立ち上がった。


「大丈夫、ありがとう……今のは、何だったのかしら」


 声は震えていない。夏波は、自分の態度がおかしいのは、星太夫の翼を見たからでは無く、拉致されそうになった恐怖のせいだと星太夫が思ってくれる事を願った。


「わからない、……しかし、あれは、あの姿は、もしかしたら」


 星太夫には、何か思いあたるところがある様子だった。


 そして、このまま夏波を一人にしてよいものか悩んでいるようだった。


「……夏波ちゃん、……その、やっぱり、ここでは、警護が難しい、俺の部屋に、来てもらってもいいだろうか」


 星太夫は夏波の手をとり、よろけそうになっている体を支えようと腰に触れていた。


--


 夏波は、母屋にある星太夫の部屋に通された。

 壁一面をおおう本棚と、広い机には、読みかけのものと思われる本や、書きかけのノートが広げてある。扉の裏には地図が貼られていて、ゆかずち温泉七湯めぐりのそれは、事務所の社長室に貼られているものと同じだった。


 少し違うのは、七つの宿それぞれに何か細かい字で書き込みがされているという事だろうか。


 がたん、と、わずかな物音にも、驚いて夏波は身をすくめる。


 扉を開いた音にすら青ざめる様子の夏波を見て、星太夫はいたたまれない気持ちになった。


「夏波ちゃん……」


 僅かに肩を震わせるほど怖がっているのに、それを気取られまいとする夏波が愛おしいと、星太夫は思った。抱きしめて、腕の中に、自分の庇護下におきたいと考えながら、慎重に手をさしのべる。


 性急に触れて、怖がらせまいとして、星太夫は距離をとりながら言った。


「その……もし、君が嫌じゃなかったら、君に、触れてもいいだろうか」


 恐る恐る手を差し伸べようとする星太夫に、抱きついたのは夏波の方だった。


「怖かった、怖かったよう……」


 幼子のように、夏波は星太夫にしがみついていた。とくとくと、鳴る鼓動が、強く、力強い腕が、夏波を安心させてくれた。


 なんて、居心地のよい場所なのか、夏波は、星太夫に身を投げ出すように体を預け、星太夫もまた、そんな夏波をやわらかく受け止めた。


 胸の中で涙を流す夏波の瞳の下を唇でなぞり、涙を舌で受け止め、瞼へ、頬へ、くちづけを落としていく。


 涙を拭う、暖かな唇の感触に、夏波がうっとりとすると、今度は夏波の唇を星太夫の唇が塞いだ。


 重ねていた唇は、熱をはらみ、次は求め合うようにして舌が絡まった。


 二人の熱は、互いを煽るようにして燃やし、いたわりあうような口づけは、次第に激しいものへと変わっていった。


 補い、支え合うのでは無く、熱を奪い合うようにはみながら、夏波の体を支える星太夫の腕に力がこもる。


 ささえるだけでは無く、指先が、夏波の望む快楽をくすぶらせ、燃やし、恐怖の昂ぶりは、より生物的な本能に近いものをあらわにしていった。


「……ゴメン、嫌じゃ、ない?」


 理性の、最後の望みにすがるようにして星太夫が確かめると、夏波は、迷いない様子で答えた。


「嫌じゃ、ない……、その、もっと、触れて、私を、確かめて、どこにも行ってしまわないように」


 わずかに残された理性を、手放すがごとくに、星太夫は夏波を抱き寄せた。何度も口づけし、唇が、存在を確かめるように触れていくと、夏波が甘い声をあげる。


 舌と、唇で、深くなっていく甘い声を、貪るようにして、夏波も、星太夫も、自分を戒めてい理性の枷を解き放った。


 首筋に吸い付かれる感触に、うっとりと酔うようにして夏波が声をあげると、


「もっと、声、聞きたい」


 と、星太夫がねだり、


「もっと、触って、私の、奥の深くまで」


 と、夏波が求める。


 星太夫の指が、求めに応じて夏波の内へ分け入っていくと、肌が泡立ち、自分でも思っていないような甘い声が出る事に、夏波自身も驚いていた。


 ああ、自分も、こんな風に甘い声をあげて、誰かを求めるという事があったのか、と、夏波は、かつて触れていた肌のふれあいが、形だけのものだったのだと痛感した。


 体の内に、熱がともったように、もっと、もっと、と、もどかしく求めている。


 足りない、もっと、もっと欲しい、と、夏波自身も星太夫の体に指を這わせた。


 やわらかな衣擦れの音と共に、互いの肌を探りながら、届かないもどかしさと、触れた指先から伝わる鋭敏な快感に酔うように、夏波は、そこが寝室では無い事も忘れて求め合った。


 机で背後をささえながら、自分の身を全てさらけ出した夏波に、星太夫がのしかかる。


 星太夫は、夏波を強く求める気持ちを隠しはしなかった、……しかし。


「……ダメだ、これ以上は」


 そう言って、星太夫は夏波の上からどいた。


「そんな、どうして?」


 素直に求めすぎていた夏波は、はしたない様子に幻滅されてしまったのかと思い、起き上がった。


「その、ものすごく、夏波ちゃんが欲しいという、僕の気持ちに間違いは無いし、僕が夏波ちゃんを好きだという気持ちに間違いは無い、でも、性急にそれをしてはいけないんだ」


 夏波は答えず、じっと星太夫を見つめた。


「……その、ユキヒトが、こちらがわのモノとそういう行為に及ぶと、その……戻れなく、なるんだ」


 戻れなくなる、という意味が、夏波は一瞬わからなかった。


「……それって……」


 ようやく星太夫の言葉の意味を、夏波は理解した。

--


 翌朝、夏波は星太夫の腕の中で目覚めた。いつの間に移動したのか、星太夫の寝室で、昨夜の事を思い出して赤面する。


 星太夫は安らかに寝息をたてていて、昨夜の激しい様子とは、とても同じ者とも思えなかったが……。


 星太夫に組み敷かれ、本能のままに求めてしまった自分を恥じてしまう。


 ……いくら怖かったからといって、本当に昨夜はどうかしていた。


 そう、思うのに、安らかに眠る星太夫の様子を見ると、そんな恥ずかしささえもが、愛おしく、うれしく思えてしまうのは何故だろうか。


 あんな、獣じみた激しさを見せたかと思いきや、今はこんなにも無防備で、そして、どこか可愛らしくもある。


 柔らかそうな髪に触れる。


 見た目に反して、星太夫の髪は固かった、けれど、それは嫌な硬さでは無かった。干した草の日向の匂いのような、心地良い香りだった。


 星太夫、なんて名前で、若旦那で、本当だったら夜の方が似つかわしいのではないかと思うのに、星太夫の髪は陽だまりの香りがする。


 わしゃっと触れたところで、星太夫がうっすらと目を開けた。


「……おはよう」


 そう言ったものの、世はまだ明けていない。薄明るい、夜明けの直前、冬ならば、一番冷え込む時間だったろう。


 けれど、既に外はもう蒸し暑く、日中の暑さの前触れのようだ。


 星太夫は、驚いたように起き上がり、夏波を腕に抱いていた感触を思い出したのか、赤面して後ずさった。


「……ごめん、その、僕は、本気だったんだけど、でも、まだ、心の準備ができていないんじゃないかって思って……」


 あわてて下半身を隠すように、星太夫は布団を引き寄せた。そして、そうした上で、言った。


 寸前まで行った行為を、夏波に恥をかかせるような形になってしまった事を恥じているのか、あわててしどろもどろになっている星太夫を、夏波が柔らかく抱きしめた。


「……星太夫は、ただ、その、私が欲しかった、だけ?」


 身体だけなのか、と、そう尋ねたいのか。けれど、夏波もうまく言葉を紡げない。


 あの時は、言葉はなくても、互いの気持ちがわかるような気がしていたのに、あれは気のせいだったのか、性欲が招いた錯覚なのか。そんな風に思いたくは無いけれど、では、アレは。


 友人だと思っていた、大切な彼氏だと思っていた。性欲のせいだとわりきれれば、もっとわかりやすかったのに。いつからだったのか、私が何とも思わない、とは、一ミリも考えてくれなかったのだろうか。


 ただ、言える事は、二人とも、夏波よりも、別の誰かを大切にしたのだという事だ。それが悲しかったのか。


 今になって、ようやく夏波は気がついた。大切な人であっても、そこに順番があって、私はどちらからも選ばれなかったのだという事に。


 大切な人に替えがないという気持ち。

 自分は取り換えのきく誰かだったという事に気づいてしまった寂しさ。


 そして、今、自分は、星太夫を利用して、自分を取り戻そうとしているではないかと。


 身体が目当てならまだよかった。夏波は『誰でもよかったのではないだろうか』突然、自分のいやらしさにめまいがするほど嫌気がさした。


「……ごめん」


 耐えられないような顔になって、夏波もシーツで顔を隠した。


「夏波ちゃん? どうしたの? 本当は嫌だった? 僕が、あんな……」


「違う、違うの」


 いやいやをするように、首をふり、自分で自分の身を抱きしめるように夏波は両腕を重ねた。


「私、あなたを利用した」


 こんな事を、星太夫の耳に入れるべきではない、そう思っても、堰を切った夏波の感情の本流は止まらない。昨夜、星太夫が夏波の胎内へそうしたように、夏波は、自分の身の内にある激情を、今、星太夫にぶつけようとしていた。


「聞くから!」


 星太夫の手が、どうかすると儚く倒れてしまいそうによろける夏波をしっかりと抱きとめた。


「僕の、夏波ちゃんへの気持ちは、伝わってる?」


 星太夫の胸に顔をおしつけるようになっている夏波に、星太夫の表情は見えなかった。けれど、優しい言葉は、ゆっくりと、染み入るように夏波の荒ぶる感情を鎮めていく。


「ずっと好きだった、君の事が、君を閉じ込めて、誰にも会わせたくないくらい、僕一人だけのものにしたい、君は僕を利用したと言ったけれど、僕は君を利用こそしていないけれど、独り占めにしたいとは思ってる。……本当は、君を、力づくで閉じ込めて、その、こちら側へ残らざるをえないようにしてしまいたい、と、思った事もあったんだ……」


 一瞬、星太夫の腕が緩み、夏波が顔をあげると、顔を赤く染めて、せっぱつまった様子の星太夫の顔があった。


「そういったら、君は僕を軽蔑する? 誰にも会わせずに、僕だけの人形のように、君をここへ閉じ込めて、一歩も外へ出したくないって言ったら、嫌になる?」


 社長室の奥の小部屋へ、夏波を捕らえようと準備をした事を、思い返しながら星太夫は言った。


「でも、あなたはそんな事、しないでしょう」


 とくん、とくん、とずっと耳についている音は、自分の鼓動か、星太夫の鼓動かわからない、けれど、それは、とても安らかな響きで、夏波は耳を星太夫の胸にそっと置いた。


「……ずるいな、君は」


 跡継ぎの事も、次代の若女将の事も、湯引きの事も、全て忘れて、ただ夏波をむさぼりたい衝動と戦いながら、星太夫が言う。


「君だって、そうだろう? 君は、確かに僕を利用しようとも思っていたかもしれない、でも、その相手は誰でもいいってわけじゃないはずだ」


「君がそんな風に甘えるのは、僕だけなんだと、うぬぼれる事をゆるしてくれる?」


 ああ、こんな時でも、星太夫は、こんな風に私を甘やかすんだ、夏波は思ったが、けれど、今はそんな優しさがひどく心地よかった。


「そうだね、うん、私が利用したいのも、甘えたいのも、あなただけ」


 たまらない、という顔になった星太夫が、もう一度夏波に口づけた。出来る限り優しく、触れるように優しく。


 二人共、まだ足りない、と、思いつつ、明けてくる朝日の存在感に、その思いを我慢する事にした。


「ねえ」


 星太夫の耳元で、夏波はそっと、素直な自分の望みを言った。


 星太夫は、真っ直ぐ上を見て、両目を両手で覆った。


「あーーーーー、もう、本当に、君は、どこまで僕の限界を……」


(今夜も、ここで一緒に眠ってもいい?)


 そんなかわいい事を言われたら、なんとしてでも湯引きを成功させなくちゃって思うじゃないか。


「そう、じゃあ、また、夜にね」


 どれほどそれが生殺しであったとしても、最奥まで触れる事ができなくても、ただ、ただ、側に居たいと、星太夫は思った。


 僕が、耐えればいいだけの話なのだし……そう、星太夫は覚悟を決めた。 


 名残惜しそうに、二人はベッドを抜けだして、身支度を整えた。

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