第二章
いつものようにランニングを終えたところで、ふと背後に足音が迫ってくるのがわかった。つい最近聞いた覚えのある、力強い足取りを連想させる音。俺は確信を持って振り返った。
そこにはやはり、昨日の彼女がいた。
「『四年前に驚異的な数字でタイトルを総なめしたエースも故障の影響で二年連続登板なしに終わった。ノビのある直球と落差のある変化球で打者を手玉に取る左腕は二十五歳とまだ若い。一日も早く故障から復帰し、まずはファンの待つ一軍のマウンドに上がりたい』」
「何だそりゃ」
「野球選手がたくさん載ってる本で読んだの。あんた、凄い人だったのね」
「読んで、わざわざ暗記までしてきたのか」
名前を元に、選手名鑑でも探したのだろう。彼女が口にした独特な文章の響きは、まさにそれ特有のものだった。
「お前、野球知らないんだろ? 数字の見方もわからないのに、凄いかどうかなんて判断出来ないと思うんだけどな」
「野球はルールもよく知らないけど、あんたがファンの心を掴んでるのは文章からわかったわよ」
「そうかよ」
なら、そのファンを裏切り続けている俺はどうなんだ、とは言わなかった。彼女に言っても仕方のないことだ。
「ってことは、あんたがここにいるのは試合に出られないから?」
「よくわかったな」
「怪我してるって言ってたじゃない。あと、さっきのコメントに故障ってあったし」
実績を褒め称える部分だけでなく、ちゃんとよく観察していたらしい。
「それに……」
「あ?」
「……ううん、何でもない」
バッサリものを言う彼女にしては珍しい態度だった。……などと一瞬思ったのだが、よく考えれば俺達はまだ出会って数日だった。それだけ彼女がわかりやすい、ということかもしれない。
「言いかけたんだから最後まで言ってくれ。モヤモヤして気持ちが悪い」
「……なら言うけど、気分害したらごめん」
彼女はそう予め謝って、
「走ってる時のあんた、物凄く辛そうな顔してたから。きっと、怪我で悔しい思いしてるんだろうなって、なんとなくわかっちゃったの。最初は、陸上とかそっち系かと思ってたんだけどね」
「……ああ」
自分が納得したのか肯定したのか、或いは両方かはわからなかった。わかったのは、彼女の観察眼がしっかりしているということと、もう一つ。
「だからあの時、俺に話しかけてきたのか?」
「そういうこと。あんた、鏡見ながら走ったほうがいいわよ。正直、苦しそうで見てられなかった」
「それじゃ電車で化粧してるOLみたいじゃねぇか」
俺がそう言うと彼女は一時だけおかしそうに笑って、すぐに表情を引き締めた。
「冗談を言えるだけの余裕はあるってことね。なら、少しはよかったかな」
彼女は自分のことのように安堵する。そういう性格なのだろう。普通なら、怪しい人間が毎日のように苦しげに走っていたらむしろ関わりたくないと思うはずだ。
「それで、何で俺が気分を害すると思ったんだ?」
「え、だって、そういう自分って見られたくなかったかなって。男の人ってそういうもんじゃないの?」
「思春期じゃあるまいし、そりゃ考えすぎだ。気にかけてもらえるのはありがたいことだと俺は思うけどな」
「そうなんだ。子供はともかく、大人の男性の知り合いっていないからよくわからなくて」
「へぇ」
勿体無いような気がしたが、出会って間もない女性にそういうことを言う図々しさは持ち合わせていなかった。
「ま、そんな感じで世話焼き好きだからさ。この公園は毎日通るから、話し相手ぐらいにはなるわよ」
乗りかかった船ということだろうか。野球選手以外の知り合いがあまりいない俺には、正直ありがたい話だった。野球は大切だからこそ、忘れたくなる時もある。
「なら、機会があれば愚痴でも聞いて貰おうかな」
「オッケー。子供の話し相手は慣れてるから」
「誰が子供だ」
「あはは、冗談よ。あたし、赤沢美波。周りにはいつも名前で呼ばれてるから、美波って呼んで」
彼女は軽快に笑って、さもついでのように名乗った。
「そういえば本であんたの生年月日見たけど、あたし一つ年下なのよね。敬語にしたほうがいいかな。呼ぶ時は“さん”づけのほうがいい?」
「んなもんゴミと一緒に捨てておけ。出来る話も出来なくなる。光司で構わねぇよ」
「そうこなくっちゃ!」
美波と名乗った彼女は俺の答えがわかっていたように、けれど嬉しそうに言って俺の手を取った。
「じゃ、またね。光司」
「またな。美波」
奇妙な縁で出会った彼女は、軽快な足取りで去っていった。




