第三章
「左腕の調子はどう?」
そんな声に振り返ると、美波がそこにいた。規則的な生活をしているのか、彼女が現れる時間は変わらない。
「同じだ。良くも悪くもなってない」
「あたし思ったんだけど、そういうのって家でゴロゴロしてたほうが早く治るんじゃないの?」
美波の言葉を聞きながら、二人してベンチに腰かける。
「そりゃそうだが、その分他のところで失うものが多すぎるんだ」
「筋肉とかスタミナとかってこと?」
「そういうことだな」
話していて思ったが、彼女は結構頭がいいのかもしれない。勉強がどうこうではなく、察しがよかったり先回りされたりということが度々ある。それはきっと、世話焼き好きという点も含めて才能なのだろう。
そんなことを考えていて、ふと気になったのは彼女の職業だった。年齢からして学生とは考えづらい。果たして、こういったことを軽々と訊いていいものだろうか。そう思いながら美波を見つめていると、彼女は訝しげに口を開いた。
「なによ」
棘のある物言いが様になっていた。などという感想を見透かされるとまずいので、俺は考えていたことを正直に明かした。
「あー、あたしの仕事かー……」
「別に言いたくないならいいぞ」
「ううん、あたしもあんたにあれこれ訊いちゃったし、別に言えないような仕事じゃないから」
そういえば、美波に根掘り葉掘り訊かれたから今のこの時間があるのだった。変に遠慮する必要もなかったかもしれない。俺が一人で納得していると、美波は俺が答えを待っていると勘違いしたらしい。妙に言いづらそうに、彼女らしからぬ小さな声で言った。
「……幼稚園の、先生」
「ほう」
美波の答えに、俺は思わず感心してしまった。人に何かを教えるというのは、ある種の才能がないと務まらない。ましてやそれが吸収の早い純真な子供相手ともなれば、先生一人で両親が育ててきた子供を簡単に壊せてしまう危険もある。彼女はそんな仕事をしているのだ。
俺は数年前、天狗になっていた時期でも思っていた。選手としてどれだけの結果を残せても、コーチにはなれないだろう。コーチの姿を見ながら、自分にコーチが務まるとは思えなかったのだ。
それだけに、彼女がどれだけ立派かがわかり、同時に察しの良さや世話焼きなどの部分からそれは天職なのではないかとおこがましくも思った。
「凄いじゃないか」
熟考の末にシンプルな言葉を選んだのだが、美波はお気に召さなかったらしい。見事なまでに仏頂面だった。
「何か気に障ったか」
俺が問うてもしばらくそのままな彼女だったが、やがて静かに首を振って言った。
「あんたは、言わないのね」
「何を」
「……意外だ、って」
美波は、怒っているのではなかった。その仏頂面は、怒っているというよりもいじけているのに近いのだろう。つまるところ、彼女は拗ねていたのだ。
「仕事を明かした時は決まってみんなそう言うから、あんたも言うのかなって……そう思ってただけ」
「なるほどな。ちなみに、これも言いたくなかったら言わなくていいんだが、どう意外なんだ?」
俺が訊くと、美波は少しはにかむように笑って言った。
「みんなが言うには、あたしに物言われたら子供泣いちゃうんじゃないのって。ほら、あたしってこういう喋り方だし、目つきキツいってよく言われるしね」
そういうことを本人に直接言うということは、恐らく相手はそれなりに親しい人間なのだろう。美波をある程度知っていたからこそ、相手は言えたのだ。
だが、美波はそれを気にしていた。そこまではその相手も知らなかったのだろう。そもそも意外というのは、あまり使っていい言葉ではない。それが罪であるかは微妙なところだが、美波からすれば少なくともいい気分はしないはずだ。はにかんでいるところをみると、半ば諦めているのかもしれないが。
「でも、あんたは言わなかったわよね。それが、ちょっと嬉しかったの。それだけ」
「上から目線で悪いが、俺はむしろお前に向いてると思ったけどな。世話焼き好きなんだろう?」
「うん、子供も好きなんだ。だから、今の仕事も好きだし、子供達とも上手くやっていけてると自分では思ってる。あたしだって物言いがキツいのは自覚してるけど、子供相手にこんな言い方しないわよ」
「なら、自信を持って続けるだけだな。上辺だけで判断するヤツってのはどうしてもいるもんだ。でも、相手が自信を持っていれば、そいつらもいつか気がつくだろうよ」
「そう……そうよね」
美波は一つ大きく頷くと、勢いよくベンチから立ち上がった。
「あんたもいいこと言うじゃない。励まされちゃった」
「苦労してるからな」
さも軽いような口調で笑いながら言うと、美波はどう捉えたのか同じように笑いながら言った。
「あはは、そうでしょうね。苦労多そう……」
美波は座り続けて疲れたのか、黄金色の空に大きく伸びをした。そう言う彼女も口には出さないが、少なからず苦労していそうだった。
「……決めたっ」
気持ちよさそうに伸びを終えると、美波は軽やかに振り返った。
「あたし、頑張るわよ」
「……何を?」
「勉強。あんたがどんな苦労してるか、少しでもわかるように」
美波は、それ以上何も言わなかった。
結局そのまま、楽しそうに笑うだけの美波とまた会う約束を取りつけ、俺達は別れ帰宅した。




