第一章
幸せな時は、そう長くは続かなかった。
高校のころから野球部のエースとしてちやほやされ、甲子園では重圧を楽しむように軽々と優勝した。ドラフトでは重複指名され、プロ入り後は一年目から先発ローテーションを任された。二十代に入るころには若き左のエースとして君臨し、オールスターにも出場。また一つ瞬きをすれば、俺はもうチームのエースとなっていた。
だが、順調だったのはそれまでだった。人生は、そう簡単にはいかないものだ。
左腕を軽く動かし、適当な投球動作をしてみる。だがそれは、肘に走る痛みと共にボロボロと崩れた。監督やコーチはゆっくり治せと言ってくれているが、もうかれこれ二年以上実戦から遠ざかっている。焦るなと言われても無理な話だった。
今日も今日とてトレーニングとも言えないような自主トレに励む。自然公園のランニングコースを淡々と走るだけ。そんな時間にさえ、年俸は支払われているのだ。集中している時はいいのだが、ふと我に返った時にはどうしても考えてしまう。……投げられないピッチャーに意味はあるのだろうか、と。
ランニングを終え集中を解くと、不意に誰かに見られている気がした。ファンが物陰からこちらを窺っているのだろうか、などという自意識過剰な思考は、見渡す必要もなくすぐに打ち消された。
一人の女性が、当然のように堂々とこちらを見つめていた。年齢は二十代前半といったところだろうか。見た目から、気力に溢れる若さと大人びた感情が共存しているのがわかった。
彼女の不躾な視線に同じものを返していると、ふとその目つきに既視感を覚えた。つり目というのだろうか。彼女の鋭い目つきは、相手も思わず正直になってしまいそうなほどに鋭利だ。それは、自主トレ中に何度も見かけた目つきだった。彼女はいつも、すれ違い様にその目つきで俺を観察してくる。だが、歩みを止めたのは初めてのことだった。
何か声をかけたほうがいいのだろうか。俺が悩んでいると、彼女のほうが先に動いた。いつも見かけていた力強い歩みで向かってくる。そして、俺の真正面で立ち止まって言った。
「ねぇ、あんたさ、よく見かけるけどいつも何やってんの?」
凛とした声。身長差から彼女のほうが大きく見上げる形になるが、彼女はそれでもお構いなしだ。人によっては、彼女のその勢いだけで怖じ気づいてしまうかもしれない。だが俺は、彼女よりも恐ろしいバッターと幾度も対戦してきている。むしろ、物怖じしない彼女に感心しているぐらいだった。
「これがたこ焼き売ってるように見えるか?」
「何それ。売ってるのは油なんじゃないの? あんた毎日のようにいるわよね」
「なかなか言いづらいことをさらっと言うな。だが生憎と、俺はこれが仕事なんだ」
半分本当で、半分嘘だった。仕事のための自主トレではあるが、本来の仕事とは程遠い。
「へぇ。怪我してんのに無理してトレーニングするのも仕事?」
「気づいてたのか」
「見てればわかるわよ。走ってる時もそうでない時も、ずっと左腕庇ってるじゃない」
それなりには鋭い子のようだった。だが、左腕を庇うのは怪我がどうこう以前に大切だからに他ならない。左腕にもしものことがあれば、それこそ全てが終わってしまう。と、そこまで考えて、今まさにその状態になりつつあることを思い出した。
「んー……それが仕事ってことは、スポーツ選手か何かよね。だったら、正体とか訊かないほうがいい?」
「いや……」
ここまで訊いておいて何を、とも思ったが、そもそも相手が俺を知っている人間なら見つかった時点でバレている。彼女は、俺を知らないのだ。適当に答えるのも一つの手ではあったが、知られて困る職業でもない。俺は、正直に答えることにした。
「俺は野球選手だ。こんなんでもな」
「やきゅー?」
普段、その単語を口にすることは殆どないのだろう。幼い子供が親に聞き返すようなイントネーションだった。
「じゃああんた、もしかして有名な人なの?」
「さあな。それは世間に訊いてくれ」
最優秀防御率や最多勝などのタイトルだって獲得したことがある。それらは毎年刻まれていき、野球の歴史にだって残る偉大な記録だ。
それでも、今の自分はそれらを誇る気にはなれなかった。天狗の鼻は、大切な左腕と共にへし折られてしまったのだ。
「じゃあ、世間に訊くから名前教えて」
本当に彼女は、何故こんなにも懐に入り込んでくるのだろう。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。そうさせない何かを、彼女は持っているような気がした。
「……白坂。白坂光司」




