第九話『私の合理』
俺は苦笑しながら、ある意味で俺もまた世利華を使った思考実験をするかのように、会話の応酬を続ける。
「しかし、俺が癪だって言っても、構わないと言っても、結局世利華の感情は変わらない、だろ?」
「それもそうだ。君は随分と頭が回るね。しかしこちらのギフトではなさそうだ。ただ察知というわけでもない……では家庭事情か何かかな?」
――空気が一瞬静かになって、止まった気がした。
中庭の涼しい風が、急に身体にまとわりつくような感覚。
この程度の会話で、俺の状況まで見抜くあたり、やはり彼女は思考系のアドを最適に使いこなしている。
合理不合理で興味を持つには、危ない存在なのかもしれない。
「ご明察だが……その話は、俺にとってのセロトニンの意味がなくなるな。面白くはあるかもしれないが、俺に不合理な話になるから、やめてもらいたいね」
「それは失礼した。人の感情を深く知ると、何かを得られるような気がするのだけれどね、結局は、この本も良くわからなかった」
彼女は立ち上がり、さっきまで読んでいた一冊の本、夏目漱石の『こころ』をゴミ箱に捨てた。
「っておい、流石にそれはあんまりだろ!」
「いいや? もう私には必要ないものだからね。中身は大体覚えたけれど、理解は出来ない。だからいらない。持っていても邪魔なだけだしね。欲しいかい?」
そういう問題では、ない。
ただ、その行動は人の感情を理解しようとする人間ならば、しちゃいけない行為だ。
合理や不合理で、片付けていい問題じゃ、ない。
彼女から微かに感じていた、感情を求めているような――どうにか人を理解しようとしているような雰囲気が、その行動一つで全て否定された気がして、悲しみより、怒りが勝っていた。
ほんの少しのやり取りではあっても、俺は彼女を決して悪い人間だとは思わなかった。
クラスメイトとして、一人きりでいる事は構わない。俺を思考実験の対象にするのも構わない。
――だから、捨てられた『こころ』に、俺の手が伸びる。
「欲しいか欲しくないか。じゃねえんだ。俺は今、少しだけ悲しい。それ以上に、苛立ちも感じてるよ。今会ったばかりのお前に、こんな事をいう義理はないかもしれない。でも、俺がこう思った理由を、考える事は出来ないか?」
彼女は立ち上がったままスカートの裾を数回払って、こちらの顔をじっと見る。
「悲しみ……それに怒りか。すると君は、その本が好きだったかな? だとすると怒っても仕方がないだろう。ただ、あの本の所有者は私なのだから、どうしようと私の勝手ではあると思うけれどね」
ただ、すれ違う。
思考に優れている彼女から、圧倒的に足りない部分が見える。
「好きか、好きじゃないかでも、ねえんだ。お前は何が欲しくて、中庭に来て、それを読んだ?」
「陽の光を浴びに来た。ついでにこの本が人の感情を書いてると聞いてね。読んでみたんだが、意味が分からなかった。この話は不合理に過ぎる。出てくる人間人間、クドクドと、逡巡の繰り返しで、下らない」
彼女は表情も変えずに、淡々と俺の熱を奪うかのように理由を並べ立てていく。
「お前が捨てたのが何だったか分かるか? 意味が分からない? だったら分かるまでやるのがお前が持って生まれたアドなんじゃねえのかよ」
言っていて、滑稽だと思った。与えられたアドを隠して生きてる俺が、アドを説くなんて、本当に滑稽な話だ。
それでも彼女は表情を変えない。
「理解は試みたさ。だから全ページ読んだのだろう? さっき言った通り、内容は大体覚えた。人間の不合理な逡巡が繰り返されるドラマだということが分かったから、これはもう必要ない。それだけが、私にとっての合理だ。だから、捨てたまでさ」
それが、彼女の言う合理なのならば、感情を理解しようとした行為に合理なんてなかったはずだ。
だけれど、それを彼女が言い切るのならば、俺が踏み込む理由はもう残っていない。
それでも、これだけ頭の回る思考系相手だとしても、問うべき事は残っている。
「だったら、なんで人間の感情なんて、お前が分からないものを、不合理なものを、求めてんだよ」
「……それは、考えた事が無かったね」
彼女は静かにそう言ってから、俺に背を向ける。
「ふむ……少し、勉強になったよ。その本が好きだったのなら、勝手にしてくれ。私が捨てた、けれど拾うのは君の自由だ」
「あぁ……お前がしているこの皮肉もきっと、お前には分からないんだろうな」
彼女は、感情を探して、その結果『こころ』をゴミ箱に捨てたのだ。こんな、皮肉があるだろうか。
「皮肉、か。よく分からないが、分かる必要もなさそうだ。じゃあ、私はそろそろ行く。空の調子も悪そうだしね」
そう言って、彼女は中庭を後にした。
残ったのは、ゴミ箱に手を突っ込む男が一人。
俺はゴミ箱から少しだけ汚れた本を取り出す。
古びている、というよりも何度も読まれた形跡がある。それが彼女の理解しようとした努力だったのかもしれないし、たまたま古本を持っていただけなのかもしれない。
「安いほうが合理的だからね」と言いそうな彼女の言葉が頭に浮かぶ。
俺は、今日出会った三者三様のアドを想う。
人の心を救おうとする正義がある。
人の心を察する優しさがある。
人の心を探す探究心がある。
ヒカリにはヒカリの、水引さんには水引さんの。
そうして、世利華には世利華の努力や苦しみがあるのだろうとは思う。
だけれど、俺は誰ものことを、ほんの表面程度の事しか知らない。
だからこそ、たった今見てしまった世利華の行動は、ショックだった。
ただただ、それぞれがそれぞれの出来ること、したいことををしようとしているだけなのに。
ヒカリだって、水引さんだって、世利華だって、やろうとしている事の本質は、きっと同じはずなのに。
どうして、それが上手くいかないのか。
そんな努力をしていない俺には、考えても分からない事が、悲しみを増長させる。
結局、心を休ませに来たつもりが、どっと疲れてしまった。
だけれど、多分俺はもう、彼女とクラスで話す事はない。
ポツリ、ポツリと雨が降る。
「セロトニンも得られなきゃ、此処にいても、合理性は無い、か」
俺は拾った『こころ』を制服の内ポケットにしまって、少しだけ雨粒を顔に受けながら、中庭を後にした。
なんだか、今日は妙に感情的に揺らされてしまう日のような気がする。
セロトニンどころじゃどうにもならないくらいの、熱と冷却の連続。
ただ、ヒカリの向こう見ずな行動について覚えた感情は、怒りで間違いない。
だけれど世利華の、倫理がズレている行動について覚えた感情は、怒りこそ勝ったが、悲しみも強い。
それはきっと、俺がほんの少し、他人に期待をしてしまったからなのかもしれない。
彼女と少しだけ話して、思考系の人間で、合理を求める人間にも、少しくらいは人間味というものがあるのかもしれないという事を、期待してしまったのだろう。
「家族に頑固者がいると、これだから困るな……」
アド格差なんて、山岸の言葉が頭をよぎる。
本当は、アドを持っていようがいなかろうが、同じ人間だという事には変わらないというのに。
それでも、それを増長させたのは、人間でありアドなのだと、そう思ってしまう。
――誰もが、誰もとズレている。そのズレを、アドはより大きくしまった。
結局、そう思う事しか出来ない自分が、答えを見つけるだなんて、出来るとは思えない。
予鈴が鳴り、俺は少しだけ歩幅を広げる。
怒りと悲しみが混ざった鼓動が、未だに小さく鳴っていた。それが、内ポケットに入れた『こころ』にぶつかって、内側に感情が押し戻されているような気がする。
それでも、あれは彼女が選んだ事。
俺はただ、彼女が捨てたものを、拾っただけ。彼女に返す理由はない。
雨に濡れて、そのうちにぐしゃぐしゃになった、一冊の本を想うと拾わずにはいられなかった。
「正義感じゃ、ないよな」
これを正義と呼ぶには、あまりにも短絡的過ぎる。
俺は、歩きながら水を一気に飲み干して、クシャリとペットボトルを潰す。
「必ずしも、正しかないのは分かってても、な」
元々、世利華はそんな性格だったのだろう。
それをアドが増長させたというのが正しい所なのだと思っても、やはり少しやりきれない。
合理的思考という考え方自体は理解出来るし、他人のそれを否定したいわけでもない。
だけれど、彼女がああやって生きていくことは果たして幸せと結びついていくのだろうか。
そう思うと悔しくて、つい、さっきのように言葉が溢れてしまう。
その言葉を受けても、彼女はきっと気にしない。事実、そうだった。
だけれど、気にしないだけじゃ人間は生きていけない。
思考し続けるという事は、思考せずに生きるという自由を奪ってしまっている。
考えずに、感覚で動くことも、時には大事なはずなのに、彼女にはそれがない。
これはきっと運動系のアドを持ちながら、それを最大限に活かさなかった俺だからこそ、思える事なのかもしれない。
ヒカリも、世利華も、もしかすると水引さんも、彼女達なりにアドを使いこなそうとして努力してきた人間なのかもしれない。
だけれど、結果的にその行動に、ズレが起きているような気がしてならなかった。
「まぁ、それがどうなるかは、俺には関係のない話か」
教室が見えて、喧騒も収まった廊下で、俺は呟く。
あの三人の事を俺がどれだけ考えた所で、実際の所何かを決めるのは本人だ。
一個人の俺が、踏み込みすぎるのも、きっとおかしい。
通学路でヒカリを思わず怒鳴ってしまった事も、中庭で世利華の行動に対して強く批判してしまったのも、俺自身の領分を超えている。
たとえばヒカリが本当に俺のバディならそれも成立するだろう。
世利華との距離がちゃんと近ければそれも成立しただろう。
だけれど結局、宙ぶらりんで生きている俺に出来る事は、そう多くない。
たまたま、俺が思う正しさを語れる位置に誰かがいて、何かが起きた。それだけの事。
だから、このままでいい。きっとヒカリは今朝のことを少しだけ反省して、もう気にしていない。
そうして、世利華に至っては少しも気にした素振りが見えなかった。本当に馬の耳に念仏だったのだろうと思う。
なのに俺が気にしていたらどうしようもない。
同じ事を考え続けるのは、俺の良くない癖だ。
切り替える事が、きっと今の俺には重要なのだと思う。
目下、必要なのはヒカリの勧誘をちゃんと断る事だと、考えを切り替える。
予鈴を気にして自分のスマートフォンの時計を見ると、まだ授業が始まるまで少しだけ余裕があった。
だけれど、廊下の喧騒とは対照的に、近づくにつれて教室が妙に静まり返っていることに気付く。
何か、嫌な予感がした。
今日は妙に感情が揺れる事が起きる。
だからこそ、俺は察知系のアドなんて持っていなくとも、溜息を飲み込んでいた。




