第十話『お願いなんてしないでくれ』
クラスの引き戸をガララと空けた俺に、視線が集まっていた。
きっとそれは俺に向けられたものではなく、静寂を壊した引き戸の音について、向けられた視線だ。
その視線の質は、明らかに不快で、不穏なものを含んでいた。
昼休みの終わり際なんて、クラスの中じゃまだ名残惜しくそれぞれが談話していてもいい時間帯だ。しかし今のクラスの雰囲気は明らかに発言が邪魔になってしまうような静寂。
何があったか確かめようにも、クラスメイトの多くは席に座っているか、立っている人間もそそくさと自分の席に戻っていく。すぐに俺への視線は分散して、それらの視線は、ある一点へと集まっていた。
数人の女子と、軽く机を叩く音が響く。
「だからさぁ、三割負担の癖に、たかがテストの点数に拘るのとか、馬鹿じゃない?」
――三割負担だなんて言葉、俺ですら使う事がない。
特殊な嫌味、それも悪意でしかない嫌味だ。俺のように自分を嫌って使う言葉じゃない。
三割――自分の両親が子にアドを与えようとしても、アドが発現しないおおよその確率。
それを、医療制度に紐づいているアド因子を得るための投薬の、負担額に絡めた、蔑称だ。
「別に、偉そうになんか……ただ、ね? 頑張ればさ、ギフトがなくてもある程度までは……」
その言葉を聞いて、机を叩いていた女子生徒の怒りは増長しているように見える。
俺は水引さんの表情を一瞬伺い、青い顔をしているのを確認して、状況の悪さを見る。
そうしてヒカリは何をしているのかと思えば、流石にセンシティブな話だと思ったのだろう。近くに立ってはいるが、言葉を選んでいるように見えた。
「まぁ、まぁ、君達。学校のテストの範囲で知能は分かりきれないだろう? ここは両成敗と行こうじゃないか!」
空気を読んでいるようで全く読めていない山岸のフォローは、結局何の解決にならない。むしろ鼻で笑われて無視されていた。
山岸は難しい顔をしたまま何かを考えているようだが、彼も思考系なだけあって、感情レベルで起きている諍い事には解決策を提示しにくいのかもしれない。
事実、困っているとも言っていた。
「生意気じゃない? 三割負担の癖に、先生に媚びて教えてもらってるしさ。どうせアド持ちには敵わない癖に」
「アドもないのになんで努力なんてしてるわけ? それでアタシらより成績良くて満足?」
取り巻きの悪意が、更にアドを持っていないであろう子にぶつけられている。
これが、山岸の言っていたアド格差の問題なのだろう。
アドによって生まれた弊害、この時代だからこその、イジメなのだろうと想う。
人間が、世界が期待したアドバンスギフトという才能の芽への、過剰な期待が産んだ結果だ。
才能の努力不足による逆転構造、アドはあくまで人よりも少し、優れている。
アドなんてのは、ただその系統に強みを持てるというだけで、努力をしなければ大した意味がない。
思考も、察知も、運動もそうだ。
要は学校のテストなんていう、努力が明確に点数になるものであれば、アドがあろうとなかろうと。大きな差は生まれない。そこに必要なのはただ一点、努力だけだ。
こんな事は、アドバンスドギフトが生まれてからどれほど議論されているかも分からないような事。それでも一クラス内で、こういう事が置きてしまうのも、分からないわけではない。
「ねぇ……とにかく、こういうのは良くないと思うんだ」
ヒカリが、真面目な顔で話の間に入る。机の上に手を差し込んで、何度も机を叩いて威圧する女子生徒を止めた。
「運動系の百瀬さんが言ってもねぇ? 頭、悪いんだから黙っててくんないかな?」
ヒカリに対しても、その女生徒の態度は変わらない。おそらく口ぶりからして思考系のアド持ちなのだろう。プライドが高い事だけは伺える。
「頭は……確かに良くはないけどさ。でもやっぱり、努力したのは本当の事でしょ? 別に、二人への当てつけなんじゃない、よね?」
ヒカリの言葉に、ターゲットにされている女生徒は少しだけ安心した顔で頷く。
それで分かってくれるような相手ならば話も早いのだけれど、なまじ思考系のアドを持っているのだ。
性格と目的が一致していれば、口は回る。
「だからさぁ、そういう事言ってんじゃなくて、不合理じゃん? テスト如きで頑張っちゃって、努力が何の意味になるのって言ってんのっ!」
ヒカリの制止している机を器用に避けて、苛立ちが叩きつけられて、音になる。
学校のテストにどれだけの意味があるかと言われたら、ある程度の学生は各々考える事もあるだろう。だけれど、彼女が思考系アド持ちとして言っているのは、最早立場を使った暴論に近い。
丁度、さっき俺は合理だの不合理だのという言葉を聞いていたからよく分かる。
彼女の言う事は、確かに見方によっては合理的ではあるかもしれない。学校での勉強の意味、テストの意味を考えるならば、確かに言いえている。何のためになるのか、と。
だけれど、彼女自身がやっていることが、既にイジメという不合理でしかない。
ただ自身の感情を、アドを持たない子の努力に対してぶつけているだけだ。
「不合理だとかじゃなくて……私はただ……っ!」
ターゲットの子がもう一度、不合理に立ち向かおうと口を開いた時、その声を誰かが遮った。
――合理だの、なんだの言っているから、こうなる。
「クドクドと、本当に喧しいな。君達はいつも」
――だから、本当の合理が口を開いてしまった。
「は? 何? 誰?」
世利華が近くの席から立ち上がり、当事者達へ強い言葉を放つ。
だがそこには相変わらず、感情のようなものは見えない。
彼女は、イジメっ子曰く『三割負担』と揶揄されていた女生徒の答案を見る。
「この場合、私が誰かは問題ではないだろう? 私は君たちのつまらない話を毎日耳に入れられていただけの人間だよ。それで、彼女の点数は93点のようだね、確かに三割負担と言われても仕方のない、低い点数だ。それで、君の点数は幾つだったんだ?」
その言葉に、責め立てていた彼女が一瞬たじろぐ。
その様子だけで、要は今日のイジメの内容については、自分より高い点数を取られてしまった事への僻みによる攻撃だったのだろうと察しがついた。
「言えないか? そうだろうな。毎日近くで聞かされる身としては、何の論理も成立していない。これをイジメとでも言うのだろう? であればそんな事に時間を使っている君こそが不合理だと、思えないのか?」
俺もまた、それが本質だと思った。
だけれど、言える人間はそう多くない。
――誰もが、自分の身を案じてしまうから。
ただ、世利華の場合、そういうわけではないようだった。
「いやいや、私は努力が不合理って話をしていて……」
思考系アド持ちとしての確実なアドバンテージは、世利華にあるように思えた。
アド同士のアドバンテージだなんて、言葉遊びのようなアド格差。
アドを持つ人間と持たない人間の格差がある。
――そうして、アドを持つ人間同士にもまた、格差がある。
「テストで良い点数を取る努力が不合理である、と? 話が耳に入ってきたから分かるが君はどうやら思考系を自負しているように思える。しかし、何か勘違いをしているようにも思えるな。知っているか? テストで良い点数を取るとだな。良い大学に行ける。彼女が三割負担とはいえ、努力をして、その程度の点数だという事は否定しない。しかし、アドを持たない人間にしては行動として合理が取れているだろう?」
決して、世利華は、相手を馬鹿にしているわけではないのだろうなと思った。
だからこそ、相手は馬鹿にされていると思うのだろうなとも、思った。
懇切丁寧な説明なんて、普通に考えるならば、必要ない。
「アンタ、何様?」
イジメの主犯格の女子が世利華の胸ぐらを掴み、ヒカリがそれを止めようと動きかけた瞬間、山岸が間に入る。
「待て、待て、落ち着きたまえよ! ……暴力は、良くない」
彼も彼なりに、ヒカリの動きも観察していたのだろう。
密かに女生徒たちと距離を詰めていたようで、山岸はそっと世利華の胸ぐらを掴んでいる手を離させた。
ヒカリがやっていたら誰かが痛んだり、衣服が壊れかねない。
俺でも分かることだ。山岸のような思考系が想像できないわけもない。
さっきの世利華の話から考えると、実際にこのイジメは前から続いていたようだ。
今日の朝、山岸が難しい顔をしていたのも、納得した。
それを世利華自体は常に理解していて、今日このタイミングで、あまりにも合理に欠けた話になったと判断したのだろう。
実際、世利華の突然な介入で、イジメられていた女子生徒は置いてけぼりの状態になっていた。
しかし、その表情はあまり明るくない。世利華はイジメの内容の不合理を刺したが、実際にイジメられていた子の点数については過小評価している。
努力についての合理を認めていても、三割負担らしい低い点数と言い放っている。
それはある意味で、現実を突きつけているようで、差別的でもあった。しかしそこに、悪意はないのだろう。
「私は、暴力で受け止めて構わないが、もしそれを君の合理などと言うならば、お笑い草だというのだろうね。私が殴られる事で君が満足して、それで終わりかい? 止めるのも野暮だよ。山岸、やらせたいならやらせばいい。理解は出来ないがね」
やはり、倫理より合理なのだろう。殴られる痛みより、正しさを前提に話しているのを聞いていると、中庭で覚えた悲しみが蘇ってくる。
――だけれど、俺が関わるような事ではない。
しかし、水引さんが小さな声で俺に囁く。
「葦名くん……どう思う?」
立ったまま、ただの観測者でいた俺に、水引さんの震える声が感情として伝わってくるような気がした。その顔は、怯えのようなものと、助けを求めるような弱さのようなものが見える。
俺に、この状況をどうにかする力なんて、無いというのに。
「まぁ……拗れるだろうな。ヒカリに解決出来るような事でも無いだろうし、山岸にも世利華にもどうにか出来るようには……思えんなぁ……」
そうして、やはり俺もまた、何が出来る立場ではない。
ただ、こういうのを見ているのは、少しだけ腹が立つのも事実。
「きっと、この空気だと日下さんが次のターゲットになっちゃう……ヒカリちゃんもああいうことはきっと苦手だし、山岸くんの話も通じてない、よね……」
「まぁ……イジメなんてそんなもんだろ。世利華なら気にしなさそうだし、なんとか出来そうなもんだけどな」
「あっ、お友達だったんだね……?」
俺が世利華と呼んでいることで、水引さんは少し先回りをするが、決して俺と世利華は友達といえるような関係ではない。
「いや……どうだろう。名前を覚えていてくれただけで友達になれるなら、友達かもしれないが……」
だとすると、水引さんも友達ということになるが、自分の発現に引っかかっている場合でもない。
少し明るい顔をした水引さんには悪いが、流石になんでも察知出来るわけではないらしい。
合理不合理だけで物事を考えているような彼女であれば、実際にイジメのターゲットが移ったとしても、移った事自体にも興味が無いだろうし、高校生レベルのイジメであれば冷静に対処するだろう。
実際に合理を選ぶのならば教師に言うなり、自分でどうにかするなり、いくらでも方法は取れそうだ。
「どうあれ、アイツがやったことだからなぁ……」
「ん……それでも。見てて気持ち良いものじゃ、ないよ。最近はずっとあそこの空気が悪かったけど、とうとう爆発しちゃった。でもまさか日下さんがあんな事言うなんて……」
「見てて気持ち良いもんじゃないのは同意だな。世利華はなんというか。ヒカリとかとは違う意味でズレてそうだから、どうなるもんだかなぁ……」
言いながらちらりと水引さんの表情を見ると、顔色があまり良くない。こういうことについては、察知すること自体が負荷になっているようにも思えた。
彼女自身が、イジメという現象を許容できるタイプでもなさそうだし、実際に人の感情に対して敏感なせいで、彼女は彼女で勝手に痛んでしまうのだろう。
――どいつもこいつも、結局苦しんでるじゃないか。
アドバンスドギフト――それは本当にギフトなのだろうか。
持ちうる者と持たざる者との対立。持ちうる者同士の対立。
結果として、アドが今の状況を作り出している。それが引き起こしたイジメなんてものは、一般的なイジメよりも、もっと拗れているような気がする。
「ねぇ、葦名くん」
困っているヒカリ、言い負かしている世利華、宥めている山岸、そうして止まらないイジメの主犯格。
それらを見ながら、俺は小さな溜息をついた。
俺には、手が届かない場所の話だ。
「私たちで、なんとか出来ないかな?」
だけれど、隣にいる水引さんには、手が届いてしまう。
結局言われている事は、ヒカリと同じ事。要はスカウトやバディなんて言葉が省略された、ただの手助けのお願いだ。
「……俺に、何が出来るとも思わないけれどな」
「でも、日下さんとはおともだ……知り合いなんだよね?」
確かに知り合いと言い直してくれたなら、そうだとも言える。
だが、世利華はそう思っていないだろうが、俺からの印象はあまり良くない。
ただ、イジメが蔓延る教室は、確かに鬱陶しい。
「知り合いと言えばそうかもしれないけれど、一回話しただけだぞ?」
「それでも、きっと何とかなるよ。ヒカリちゃんの代わりに、私が葦名くんにお願いするよ」
――その先を言われてしまえば、俺はもう、選べなくなる。
「私たちで出来る事は、ないのかな。葦名くんも協力してくれたらきっと……だから……」
「……悪い、断る。ヒカリの手前、俺がブレるのは筋じゃない。それに、俺に何が出来るわけじゃあない」
俺は彼女の表情が曇るのが分かっていても、俺には何も出来ない。
ヒカリがしていることが厄介事だとは思わない。
だけれど、これは本当の厄介事だ。
だというのに、俺は俺を許す理由を探していた。
俺は、俺を助けてくれた彼女に恩を返す為に、少しだけ手を伸ばすのだ、と。
アド持ちとして与えられた力を貸すわけじゃない、俺個人が自分で手に入れた力と、思考を貸すだけならば、きっと、良い。それ以上に、こんな光景、本当に見ていられなかった。
「ただ、そうだな……一緒に考えることくらいは、付き合うよ」
誰もが、ズレの中で歪んでいっている。
「だから、俺にお願いなんてしないでくれ」
俺の声色で何かを感じ取ったのか、水引さんは真面目な顔をして「ありがとう」とだけ言って、頷く。
その顔に、少しだけホッとした温度が見えたのは、彼女の察知に当てられた気の所為だったのだと、思う。
ヒカリから始まった縁が、奇妙に続く。
厄介なのは、俺も一緒じゃないかと思いながら、俺は目に映る歪みに小さく拳を握りしめていた。




