第八話『私はゴミ箱じゃない』
俺はサンドイッチをくわえて、ぼんやりとベンチに手をつき、空を見上げる。
「……なんて名前だったっけな」
中庭に二人きり、距離を取りつつも、言葉を交わさない彼女は、同じクラスメイトとして印象が強い人だった。
むしろ印象だけが強すぎて、名前をど忘れするレベル。
どうせ向こうは俺の名前なんざ覚えていないだろうけれど、俺の方は忘れようもない。
彼女は、そんな典型的を通り越すくらいに思考系アド持ちらしい挨拶をかましたのだけは覚えている。
遠目に見ても、切りそろえた前髪にしっかりと結ばれたポニーテールが風に揺れている。
凛々しく見えるけれど、おそらくはそれが一番彼女にとって生活しやすい髪型なだけなのだろう――と、彼女の自己紹介の文言を思い出して、やっと名前がピンと来ない理由に気づいた。
ど忘れしたのでは無い、俺は彼女の名前を知らないのだ。
何故なら、彼女の自己紹介の文言は『アドバンスドギフトは思考、以上』だけだったから。
そのせいで彼女は完全にクラスの中では浮いた存在になっている。
友達といる所を見た事もないし、俺は彼女の声を聞いた事すらないかもしれない。
もはや教師さえ気を遣っている程に、彼女からは圧が見える。思考系にしても色々なタイプがいるものだけれど、彼女は特に成熟しているように思えた。
実際、チラリと彼女を見ると物凄いスピードで本のページを捲っている。サンドイッチは既に膝の上から消えていた。拳を握って人差し指だけでページを捲っている。多分ゴミはあの手の中なのだろう。
山岸も思考系で、俺の母さんも思考系だ。
そうして目の前の彼女も思考系。だけれど思考系はそれぞれ思考のベクトルが違う。
山岸は社会的な思考に秀でていて、俺の母さんは哲学的な思考に秀でている。
そうして彼女の場合は、おそらく合理性か何かに囚われているのだろう。
どうしても母が思考系という個人的なトラウマがあるせいで、思考系には良い印象を持てない。
山岸くらいさっぱりした思考の深さならば、まだ付き合いようもあるのだが、と考えていた所でサンドイッチは俺の腹に収まった。
ゴミ箱は丁度、例の彼女の近くにある。
正直、近寄りがたい雰囲気はあるのだが、とはいえポイ捨てするというのも、こっそりポケットに入れて他の所で捨てるというのもおかしな話だ。
なんせ相手はただのクラスメイト。関わられたら困る事もあるが、同じクラスにいるというだけだ。
そうして、話した事もない相手にわざわざ話しかけてくるという事もないだろう。
「葦名か、こんな所で食事なんて変わっているな」
話しかけられるなんて事があってしまった。しかも、しっかり名前まで覚えられている。
「あぁ……えっと、教室にちょっと居づらくてな」
「ならトイレで食べればいいだろう。その方が近い。わざわざこんな所に来る理由があるか?」
なんて事を言い出すのだ。トイレ飯を女生徒に勧められるなんてのは、余程特殊なメンタリティがなければ普通に罵声ではないだろうか。
「いや、トイレ飯はちょっと……流石に、なぁ?」
「そうか? 我が校のトイレは清潔だぞ?」
そういう問題じゃないのだけれど、そういう問題が通じない相手なのは良く分かった。
「とりあえず、名前くらい教えてくれないか? 俺の苗字を知っているのはありがたいけれども、俺は……君が自己紹介をしなかったって印象しか残ってない」
彼女は、一瞬だけ俺の顔を見て、すぐに本に目を戻す。
「そうか、名乗る必要もないから名乗らなかったのだった。しかし会話に呼び名はいるな……。私は日下だ。日下世利華。日の下で世界を利益とする華とでも言えば分かりやすいか?」
思考系アドの特殊な部分でもあるのだろうなと思いつつ、言葉は淡々としていて、表情も喜怒哀楽のどれもが存在していなかった。
無表情というわけでもない。ただ『考えている人』という像を今、女子高生で作ったならこんな顔をしているのかもしれない。
「なぁ、ところで葦名よ。そんなに私を見てどうするつもりだ? 私はゴミ箱じゃない。ゴミを捨てたいなら隣に捨ててくれ。それとも私のゴミも捨ててくれるのか?」
「いや、日下さんが捨てろというなら捨てるけれども……」
捨てろの『す』を言いかけたあたりで、彼女はこちらに左手のゴミを差し出していた。
判断がとても早くて助かるというか、なんというか。
割り切るのには時間がかかりそうだけれど、だからといって長く関わっていくような間柄になることもなさそうだ。ヒカリのように自分からこちらに来るタイプではないだろう。
きっと、俺に声をかけたのも、彼女なりの気まぐれのようなのだと思う。
しかし、さては失礼とかそういう概念が飛んでるな? と思いながらゴミを受け取ると同時に、彼女が口を開く。
「あと、日下、ではなく、世利華で構わない。君にはどうやら私の苗字と似た音の友人がいるようだしな」
どれだけ観測をしているんだ。教室じゃ物静かに見えて、俺とヒカリのやり取りすら聞いていたという事か。
「流石というかなんというか、よく覚えてるもんだな……」
「常に回る頭で、忘れる方が難しいものだよ。かといって、なんでも知っているかと言われればそういうわけでもないが」
彼女は眼鏡を外し、目を軽く擦って、小さく欠伸をした。
パタン、と指を本の隙間に挟んで、目薬をさしているのを横目で見ながら、俺は二人分のサンドイッチのゴミを近くのゴミ箱に捨てた。
何となく、話をしてしまった手前、行き場に迷ってぼうっと陽の光を浴びていると、隣で小さな溜息が漏れる。
「葦名、君はその名の通り、植物か何かなのか?」
確かに、世利華がそう言うのも頷ける。今の俺は挙動不審だった。しかしそれも仕方がない話だ。
まさか、彼女がこんな風に喋る人だとは思っていなかったのだ。確かに自己紹介の時点で随分とアッサリというか、ザックリした思考系のアド持ちだという認識はあったにせよ。思考系というには何処かズレているような気もする。
「いや、流石に話をしていたわけだし、じゃあこれでっていうのも失礼じゃないか?」
「そんなものかな、別に私は構わないのだけれどね。必要が無いなら教室で寝ていた方がまだ合理的だ」
――やはり、彼女は合理で動いている。
トイレもそう、ゴミ捨てに俺を使ったのもそう、倫理より社会性より何より、合理で動いているように思えたのは、間違いではなかった。
「合理的、なぁ。じゃあ世利華はなんでこんなとこまで来てるんだ?」
彼女が本を開こうとした瞬間、『こころ』という文字が一瞬見えた。
文庫本で『こころ』と言われたなら、夏目漱石しか出てこない。
思考系の母の影響というか、強制もあってか、子供心にも圧を感じる程度に文学や哲学書なんかは無理矢理齧り続けさせられた。
ただ、その中でも『こころ』という本の、人間の逡巡の数々は中々に興味深かった覚えがある。
「私か? 見てわからないか」
彼女は『こころ』から目を逸らさずに、相変わらずパラパラとページを捲っていく。これならあの長文すぎて手紙のレベルじゃないだろと言われた有名な『先生の手紙』もあっという間に読み切ってしまうだろう。
「合理的かと言われると、此処に来るのは中々不合理な気がするけどな」
彼女が呆れたように、人差し指を立てる。
「最近、少し面倒事があってね。セロトニンさ。陽光を浴びるだけで状態が整えるというのは合理的だろう?」
確かに陽の光は差しているし、セロトニンはストレス軽減に良いとも聞くにしても、わざわざ中庭に出向くのが彼女なりの合理というのは、少し興味深い。
面倒事について深堀りたいとは一切思わなかったが、彼女の思考プロセスは純粋に面白いと思った。
思考系は性格にも顕著に影響するようで、山岸なんかは思考系でも調和を基礎としている感じがあって、分かりやすい。
うちの母は哲学的、とにかく何を言っているのかあまり良くわからないが、何を話しても上を取られ、煙に巻かれ、話になる気がしない。
そうして今目の前にいる日下世利華というクラスメイトは、合理的で話を聞けば分かるのが少し面白い。
そう思えた自分をふと思って、純粋にアド嫌いというよりかは、『自分のアド』が嫌いなのかもな、と気づく。
「じゃあ俺もセロトニンを浴びておくよ。状態を整えたいと思っていた所だ」
「合理付けは嫌いじゃあない。しかし立っているのも疲れないか?」
世利華は当たり前のように、自分のベンチから少し身体を動かして、隣に座る事を勧めてくる。
ヒカリに散々付き纏われているせいで、半日にしてクラスの中では既に色恋なんていう話すら聞こえだしそうな始末なのだ。
今更クラスメイトと隣同士で昼食を共にするくらい、気にする事もないかと、俺はベンチに座って改めて空を眺めた。
「君がいやに空を見ているのには、意味があるのかい?」
さっきから彼女は、俺の事を見てもいないだろうに、随分と俺のしている事を把握している。
彼女の言う合理の中に、観察が含まれているとは思わない。特に個人観察なんてもってのほかだろう。
自己紹介をほぼ放棄してクラスメイトとの縁を初っ端から切りに行った事から考えても、人に興味があるようには思えない。
「どうだろう。お前が言う合理か合理じゃないかって話でいうなら、研究的に顔に光を浴びる方が効果があるなら合理的なのかもな。まぁ、どうなのかは分からんけれども」
実際、空を見る意味なんて考えた事は無い。なんとなくそこに空があるからとしか言いようがない。
しかし、彼女にそれを言うのは少し、自分の価値が下がっていく気がした。
元よりアドの差で思考力なんてのは、それこそ天と地ほどあるのだろうけれど、それでも少しだけ、自分が自分なりに覚えてきたアドの無い思考で話してみたいと、そう思った。
「あぁ、光は目、というより網膜で受けているからね。そういう意味ではより理にかなっているだろうけれど、私が聞きたいのは合理じゃない理由さ」
逆に、合理でしか考えられないからこそ、不合理を理解しようという動きなのだろうか。
それにしたって、その前に倫理みたいなものが必要な気がするけれど、それは言わずにおくが花というものだ。
「合理じゃなくても見る理由があるなら、そうだな。青く、赤く、白く、黒く、黄も橙も浮かぶからっていうのはつまらないか? そもそも、深く考えた事もないさ。でもなんだか、悪くないと思うんだよ」
彼女は、ページを捲る手を止めて、空を見上げて呟く。そこには淡々とした口調の裏に、少しの寂しさのようなものが混じっているような気がした。
「やはり、私には分からないな。色味などいくらでも変わる。空とはそういうものだろう?」
「そういうもの、だけど好きになるかどうかは、合理で決められるもんじゃないさ」
俺の言葉を聞いた彼女は。俺と会ってからはじめて表情を崩して、少し難しそうな顔をして、眉を潜めていた。
好きかどうかまで合理で考えてしまっては、人生は少しつまらないような、そんな気がする。
彼女がもし何もかもを合理で決めていて、正しいもの、正しくないものだけに拘ってしまうという縛りの中で生きているのなら、やはり少し寂しい気持ちになる。
きっとこれは、性格だけでは説明がつかない。アドバンスギフトというものが増長させてしまった、一つの不利益だ。
「好きか、嫌い、か……分からないな。まあ、期待をしていたわけじゃないから、構わないさ」
彼女は、パタンと本を閉じる。時刻は昼休み終了までまだ少し時間があった。
「やっぱり、俺と話したのも気まぐれか?」
「いいや? 合理さ。ただ、気まぐれだとも言える。私は私しか分からないからね、誰かを知ろうとするのももしかすると何か意味があるのかもしれないと、そう考えたのさ。とどのつまり思考実験、付き合わせて癪だったかな?」
そこまで当たり前のように言われてしまっては、こちらももう笑うしかない。
彼女なりの思考実験は、どうやら失敗のようだったから、笑うのも失礼かもしれない。
しかし俺も十分失礼な事をされたのだからこれでどっちもどっちというものだろう。彼女は、途中から軽口に変えた俺の口調に関しても何も言及しなかった。
要は特に気にしていないのだ。なんて呼ばれようが、どう思われようが。
「まぁ、いいけれど。もし癪だったとしたら、世利華はどうするんだ?」
「そりゃ、まぁ謝るくらいはするさ。形だけはね」
顔色も変えずに、そんな事を行ってのける彼女を、結局の所、俺は苦笑しながら受け止めていた。




