第七話『水引さんってほんっとーに』
窓の幽霊の正体が分かった。赤い顔をしているのも、なんとなく分かる。
流石に、彼女も反射からバレたと観念したのだろう。小さく、机の上でヒラっとバレないように手を振り返してくれたが、その表情はあまり明るいようには見えなかった。
さっきまでのことを考えて、心配してくれているなんて思うのは、思い込みすぎかもしれない。
ただ、彼女も空を見たい気分だったと思うには、あまりにもしっかり目が合っていたような気がする。
水引さんが良い人なのは、ほんの少しのやり取りでも、何となく分かる。
――だからこそ、確認しておきたい事があった。
「なぁ、ヒカリ」
俺は、ヒカリだけ聞こえるように、彼女を呼ぶ。
丁度予鈴が鳴ってくれたくれたお陰で、ギャル子さんとおっとりさんは席に戻ろうとしていた。
ただ、ヒカリに引き止めは、聞き間違えるような小さな声でも、強い意味がある。
そもそも俺から話しかける事なんて殆どしていないのだから、彼女は俺の声を聞いて喜々として足を止めてくれた。
「なになに?! 予鈴鳴っちゃってるよ?! いや聞くけど! 聞かせて欲しいけど!」
バディの話じゃないのはなんとも悪い気もしたが、俺は小さい質問を彼女にぶつける。
残念ながら聞かせて欲しいのは、こっちの方だ。聞くべき事は一つでいい。
というよりも、もしかすると聞くまでもない事かもしれない。
あれだけ、目が合っていた。そうして、あんな表情を向けられた。
だから、俺はそんな水引さんの事を。
「あのさ、水引さんって――」
言いかけた瞬間、バッと水引さんがこちらを見た。それだけで、答えは十分だった。
――彼女が、察知系のアド持ちだと確信したかった。
彼女のあの反応は、俺の言葉一つで空気を読み切ったという事だ。
つまり、彼女はとてもとても、優しい子だったという事。
ペットボトルの件も、俺がギャル子さん達相手に狼狽しているのを見て、助け船を出してくれていたというわけだ。
俺の感情の曇り方を見て、様子を伺っていたと考えるのも自然になる。
「うん。水引さんってほんっとーに、いい子だよなぁ……」
「は?! は?!」「へ?!」
そりゃまぁ、そういう反応にはなるだろうなぁと思う。
ヒカリの声の中に水引さんの声が混じっていたような気がするが、気の所為という事にしておこう。
「うん?! うん、いい子だよ?!」
「そう、それだけ」
ヒカリのジトッとした視線の中に、もっと何か凄く冷たいものが入っているのを感じるが、これで見限ってくれても全然構わない。
けれどヒカリは、静かに俺の机の上のノートを手に取り、くるくると丸めた。
丸められたノートで思い切り頭を引っ張かれた『スッパコーン!』という音は、授業のチャイムより大きかった。
とりあえず、全力じゃなかろうなぁという思いで、頭を触る。
「うん、とりあえず話せて良かった」
「葦名くんってそういう趣味があるの?!」
「そういう趣味もどういう趣味もねえよ。ほら、授業始まるぞ」
後に痴話喧嘩とギャル子さんに揶揄されたが、もうなんだか、好きにしてくれと思っていた。
ヒカリはなんだかんだ、俺をバディとやらにスカウトするのを諦めるつもりは無いようで、周りの元気っ子グループには余り気にせず、手を変え品を変え勧誘してくる。いい加減、ギャル子さんとおっとりさんの視線も痛いので、やめて欲しい。彼女達も、ヒカリの妙な執着に違和感を持ち始めているようだった。
「とりあえず、今日はこのくらいにしといてくれ。俺は飯を食ってくる」
ただ一人の静かな時間が欲しい一心で、俺は席から立ち上がる。
ヒカリは不服そうな顔をしていたけれど、流石に彼女も昼休みは食事の時間だ。流石に納得してくれたようで幸いだった。財布を持って、教室から出ようと歩き出した時、ふと水引さんと目があった。
実際の所、彼女が察知系のアドを持っているというのは限りなく確信に近い俺の推論でしかないのだけれど、そっと彼女が「おつかれさま」と笑ったのを見て、この子は本当に俺達の空気を察知して上手く合わせてくれていた事を確信する。
「ありがと、助かったよ」
何を、とは言わない。ただ素直に、感謝だけを伝えた。
「その割に、ヒカリちゃんと話してる時は嫌じゃなさそうだったよ?」
思わず少し驚いて苦笑すると、彼女もまるで「図星でしょ」と言わんばかりに微笑んでいた。
きっと、俺の驚きだけを見て感情を察知したのだろう。
その辺りの感覚まで把握出来るという事は、彼女は相当に人間の感情の機微に長けているのだろうと思う。
ヒカリと話している時の、俺達の軽口が不快じゃなかったという事すら見抜かれてしまっていたのは少し悔しかったが、それが彼女のアドだ。
ただ、そのアドのお陰で実際にギャル子さんの言葉を受けて困っている俺の事を助けてくれてもいる。ただそれはきっと、アドでもなんでもなく彼女の優しさだと思いたい。
だから俺も小さく笑い返して、肩をすくめた。
教室から出て、昼時の喧騒の中を歩く。
意外と嫌いじゃない騒々しさは、心のノイズを少しだけ軽減してくれる気がした。
なんとなく、雑踏の音が心地よいと言われて作業用の音楽として採用されるのが分かるような気持ちがする。
そう思えるのもきっと、最後に水引さんとの密やかな対話があったからなのかもしれないが、とはいえ彼女に負担をかけさせるわけにはいかない。
「ほんと、空気が読めるってのは凄いもんだな……」
やっと一人きりになれた廊下の中、小さく息を吐いて、独り言を呟く。
察知系のアドは、一番制御が難しいと思っていた。
使いこなせるようになれば、勝手にでも人の表情や、感情を読み取ってしまう。
実際、水引さんがさっき俺にしてくれていた事もだいぶ高度な事のように思えた。ヒカリの突飛な行動をすぐ察知して、絡まれている俺を観察、そうして俺が本当に困っているだろうタイミングでの助け船。
これはある意味で、自己犠牲でもある。
だけれどそれを自分にしてもらったのであれば、ヒカリに言った自己犠牲についての考え方を押し付けるわけにはいかない。
これは施されてしまった俺が、本来自分で何とかするべきだった事だ。
彼女は、窓越しの幽霊になってまで俺の表情を密かに伺っていた。
正直、それは察知系だとはいえ、やりすぎだ。
だからきっと、それは優しさというよりも、不和の回避に近かったのかもしれない。そう考えるとヒカリを手伝っているという事についても、何となく納得出来る。
俺は、教室の中とはうってかわって心地良い喧騒の中に混じる。
なんとなしに今日の事を考えながら、とりあえず購買でサンドイッチと水を買い、穴場スポットの中庭を目指した。どの教室からも少し距離があるからか、昼時は意外と誰もいなくて、個人的にはとても助かっている。
中庭へ向かう間も、俺はどうやらしっかりとヒカリに巻き込まれてしまっているようで、頭の中ではスカウトの問題を整理し続けていた。
ヒカリは明確にやりたい事が決まっていて、その為に俺をバディとして迎えたい。
俺は明確にやりたくない事を決めていて、だからこそ俺はバディになりたくない。
彼女はヒーローであり、俺はバディというよりも、サイドキックという役割が近いのだろうけれど、俺がそれを拒む理由は、彼女がアドから得た力の行使を、強く正義と結びつけているように思えたからだ。
俺はアドから得た力を、特別に行使することを嫌っている。
いつか、詳しい話をしなければいけない、聞かなければいけないのかもしれないと思った。
正義とアドは、関係があるのかどうか。
ただ、彼女は俺にアドがあると分かる前でもバディになってくれと頼んできていた。
ある程度の確証はあったのかもしれないが、彼女自身、自分が衝動的に動いてしまうという自覚はあるのだろう。
だからこそ少しでも動けた俺に、目をつけたというのが妥当だろうか。
なまじあのタイミングで、俺は落ちてきた大枝を掴んでしまった。
――彼女の跳躍が、俺の人生を飛び越えたのかもしれない。
「……いや、言い過ぎだな」
感情がだいぶ落ち着き、少し適当な事を考え始めている自分を自嘲して、俺は誰も歩いていない中庭への廊下を歩く。
ヒカリがやっている正義という行為。
それが善行だという事も分かる。
そうして俺が手伝ったなら、ちゃんと彼女の衝動的な行動にもある程度まではフォロー出来るだろうという自負がないわけでもない。
あの危なっかしさならば、誰かしら手伝う人がいて然るべきだろうという気持ちは、見ている限り理解は出来るのだ。
それに、彼女のスカウトが厄介だと感じながら、彼女のしている事が厄介事だと言われた時に覚えた怒りは、嘘ではない。
彼女が自己犠牲の可能性を考えず引ったくりを追いかけた時の怒りもそうだ。
――あの時の俺の中には、俺の正義が生まれていた。
だからこそ、俺の人生を軽く飛び越えて、そこから手を伸ばしてくる彼女は、本当に厄介な存在だ。
だからといって、それでも俺は、俺が手が届く範囲にしか手を伸ばさない。
その気持ちだって、一朝一夕で生まれたものでは無いのだ。
だから、ちゃんと話をすべきだと、思った。
登校でもなく、休み時間でもなく、ちゃんと話をして、断らなければいけないと思った。
一人で考え込んでいると、いつのまにか中庭からの風がスッと舞い込んできた。
自分と関係のない喧騒も心地良いが、鳥の声が少し漏れ聞こえる静けさも、決して嫌いではない。
俺の場合、あまり拘りがないのだ。
誰にも迷惑をかけず、誰からも不快な思いにさせられないのなら、喧騒も静寂もまた、どちらも心地良い。
中庭の緑が、目に眩しい。
天気はコロコロと代わり、曇り空からは光が差しはじめていた。
まだ雨が降る程ではなさそうだったが、実際雨にでも降られやしたら本当に昼食を何処で食べるか迷う所だったので、個人的には非常に助かる。
気まぐれな天気でも、そのタイミング自体は悪くない。
窓ガラスが曇っていたお陰で、水引きさんの事も知ることが出来たし、雨も振らないからこそ中庭で食事を摂れる。
そうしてまぁ、あれだけ朝天気が良かったからこそ――というのは別の話かもしれない。
昼休みの中庭は、穴場スポットだとは思いつつ、実はあまり需要が無い。
実際、カップルは屋上で食べがちだし、友達同士なら教室で食べがちだから、購買からわざわざ歩く必要のある中庭で昼食を食べている人間は殆どいない。
実際、中庭というだけあって、内窓を覗くのが趣味な人間だらけなら衆人環視に晒されるという話にもなる。
だけれど、ある程度は植えられた木々が隠してくれるし、整備も行き届いているから、個人的には落ち着くのに丁度良い。
放課後になるとちらほら人もいるけれど、特に昼休みあたりは、時間的にも一番狙い目だ。
水引さんあたりがいたなら、きっと絵になるのだろうなと、さっきの教室での出来事を思い出す。
やはり、人間関係は得意ではないが、話してみないと分からない事があるのも事実だ。今日は幾つかの出会いがあったが、水引さんのような温和そうな人となら、楽に過ごせるのかもしれないなんて事を、木漏れ日を見て思った。
「っと、珍しいな」
好んでいるとはいえ、俺が中庭を使うという事自体が珍しくはあるのだけれど、中庭の奥のベンチに、一人で静かに食事を摂っている女生徒がいた。
彼女は俺を一瞥してから、まるで何も見すらしていなかったかのように、手に持っている本のようなものに目を落とす。何とも冷たい態度ではあるが、そもそも愛想が得意ではない俺が人に愛想を求めるのも何とも間違っている。
彼女の膝の上にはサンドイッチ、そうして遠目からでも顔を見れば分かる。
偶然にも、彼女はクラスメイトだった。
「また、随分珍しい人と珍しい所で……今日はそんな日なのかね……」
俺は小さく呟いて、彼女が座っているベンチから少し距離を取り、鳥の声を聞きながら、サンドイッチを齧る。
正直、食欲はあまりなかったが、食べないというのも何か負けたような気がする。
カニ風味カマボコでも売っていたら齧り付いてやりたい気分だったが、購買は焼きそばパンの取り合いが起きる生徒にとっての戦場であっても、船上では無い。
購買には蟹もカニ風味カマボコがあるわけもない。
やっと、少し適当なことを考えられてきている自分にホッとしながら、俺はとりあえず空を軽く仰いでから、サンドイッチを齧った。




