第五話『精々ゲームの一凸分』
ノートに書かれた|陽雁《ひかり》という文字を見ながら、ほんの少しだけ和んでいると。
その雰囲気を知ってか知らずか、タイミングが悪い男が再登場して、俺はとうとう溜息を吐き出してしまった。
「おや、珍しい組み合わせだな」
「あ、山岸くんだ。おはよー」
「さっきも言ったが……おはよう! 今日も元気で良いね、百瀬くんは。葦名も少し見習うと良い。挨拶は自発的にするものだぞ?」
挨拶の話で、会話に入ろうとしてくる人も珍しいし、やはり山岸は少し鬱陶しいなと思いつつも、彼は女生徒から人気があるので、周りのテンションを惹きつけてくれたのは、正直助かる。
「そうだよー、葦名くん。挨拶は大事。ちなみに葦名くんの名前はどう書……」
言いかけたヒカリがパッと口を塞いだのは、彼女なりの配慮だったのは分かった。
知りたがりなのは分かってはいたけれど、言った事を覚えていてくれたとは、少し意外だった。
俺が、自分の名前を好きじゃないという話をしたのはついさっきの事だ。
ただ、そこまで気にされる事でもない。
――付けたのは、俺じゃないしな。
「あぁ……気にしないでいい。理由を追うと書いて、理追だよ。女っぽいって笑うなよ?」
「教えてくれるんだ、ありがと! でも、私は良い名前だと思うけどなぁ……女の子っぽくは、あるかも?」
笑わずに受け止めてくれるのが少しありがたい。自分の名前を嫌うのと、人が名前を褒めてくれるのは、別の話だ。無神経のようで、それでも彼女の顔が本音を語っているようだから、俺もまた受け止められた。
実際、俺と母さんの名前は同じ読みなのだから、女っぽいというよりも中性的なのはその通りだ。
だけれど、流石にそれを説明するのも、正直かなり気が引ける。
「俺もいい名前だと思うぞ! 親から貰った大事な名前だしな!」
親から貰った大事な名前というところにひっかかりはしたが、あくまで模範解答らしい言葉をりがとうと思いつつ、その模範が間違っている場合もあるんだよなぁと、複雑な感情を飲み込む。
「功生なんてのも、お前にピッタリの名前だろうよ。名は体を表すもんだな。特にお前ら二人は……」
なんとも、どういう因果か分からないものの、俺の数少ない友達という枠に収まった二人を見て、俺は軽く笑う。
「俺もちゃんと、成功を生きられたら、いいのだがな……」
自嘲するように山岸が呟く。俺の模範解答も、また彼には模範にはならなかったようだ。
そうして、それを皮切りに、少しずつ俺の中で空気が淀む。
「山岸くんもさ、理追くんもさ、連絡先交換しない? 今度遊ぼーよ」
ギャル子さんがスマートフォンを出す。察知系のアドを持ってなくとも、俺はついでだという事が分かった。
山岸はその爽やかな容姿と磨き上げたような清潔感、やや強めに整った顔立ちからして、モテる人にはとことんモテるが、彼自身が色恋に興味があるタイプではないのは見ていて分かる。
彼はなんというか、人を人としか見ていない節がある。女子がどう、男子がどうではないのかもしれない。
彼は快く連絡先を交換していたが、俺は正直、面倒な気持ちに圧し潰されかけていた。
愛想は苦手だ。それを強制されるのは尚の事、苦手だ。山岸も、ヒカリも、きっとこれから俺を名前で呼ぶことはないだろう。だけれどギャル子さんは、今みたく俺を名前で呼ぶ。
別に彼女を責めたいわけではない。友人になるのならば、それを嫌だと言うのも一つの手だろう。
だけれど、俺とギャル子さんは友人ではないし、そうなれる気もしない。だからこそ、嫌でも何となく受け止めてしまいそうな自分に、うんざりとしてしまう。
ヒカリや山岸くらい、行動の反応がわかりやすければまだ良い。
だが、あのやり取りで名前を読んだギャル子さんを思えば、気を使わざるを得ないこの空気感は、実家を思い出す。
だから、俺は基本的に人とはあまり関わり合いになりたくないのだ。
――居心地が、とても悪い。
俺は助けてくれという気持ちを最大限込めてヒカリに視線を送るが、そういう所にはどうしてもうといようで、気づいてくれない事に悲しく思う。
今こそ正義感を出す時だぞと思っても、気づかなければ仕方がない。
彼女も風船が飛んだ事に気づかなければ跳躍はしないのだ。
だが丁度、そこでヒカリが別の正義感を燃やしてくれた。
「あ、ちょっと待って! 私やるよー」
ヒカリがパッと俺の席から少し離れた席へと動いて、ギャル子さんも山岸と連絡先を交換し終わった所だったようで、それについて行きつつ俺には「またあとで!」と言い残してヒカリの方に歩いていった。
俺に『またあとで』はなくてもいいので、そのまま山岸と仲良くしていてほしい。
ギャル子さんとおっとりさんをヒカリが連れて行ってくれたので、俺は少しだけホッとする。
「……お前も、中々大変だよな」
残った山岸に何気なく話しかける。
思考系アドを持っていても、彼の場合は社会的かつ友好的な思考をするタイプだから、きっとどういうやり取りも苦ではないのだろう。だから俺の言葉に、彼は不思議そうな顔をしていた。
「大変、ではないぞ? 連絡先を交換しただけだろう?」
「俺から見りゃ、大変なんだよ……色々とな。よく付き合ってられるもんだよ」
言いながら、ヒカリの方に目をやると、ペットボトルを持っているのが見えた。
「いや、やはり大変ではないな。葦名はギフト格差を公言しないし付き合うのは大変ではない。委員長としては、ギフト格差の話はどうしても避けて通れないからな!」
俺のことではないんだけれどなと思い、俺は肩をすくめて、ギフト格差という言葉を考える。
アドバンスギフトを持っている人間と持っていない人間は、制度の内容上、明確に存在する。
ただ、その差を大きいと捉える人間と小さいと捉える人間は、どうしても衝突する。うちのクラスも、半分程はアドを持っていない。
「まぁ……アドがなかろうと、ある程度は努力でひっくり返す事くらい出来るだろ。現にアドなんざ、精々ゲームの一凸分の限界突破をして生まれたようなもんだ」
「ギフトを持たない立場の人間が、皆そう言ってくれるとクラスも平和なんだがな!」
実際は、俺もギフトを持つ立場なのだけれど、今このクラスで、というよりも俺の家族以外で俺がアド持ちなのを知っているのは、ヒカリだけだ。
そんなヒカリは、いつのまにか頭から水をかぶっていた。
どうやら、女生徒がペットボトルを開けるのに苦戦していたのを手助けしていたようだ。
近頃はペットボトルの蓋を開けられないなんて話も聞いたりするが、それも彼女にとって、風船とひったくりと同列の人助けなのだろうか。とはいえ、あれもまた失敗だ。
「ぎゃー! ごめん!」
柔らかい水のペットボトルなんかは、普通に開けるにしても力加減を間違えると水が溢れがちなのに、ヒカリの力で開ければ結果は目に見えてるだろう。
しかし、ヒカリの友達達は彼女の行動に慣れているのか、少し距離を取って小さな水害から回避していた。
ヒカリに見つかったばかりに、頼まざるを得なくなった子は、逆にやや申し訳に笑っていた。
「あぁ……言わんこっちゃない」
「うむ、よく見る光景ではあるな」
こういう失敗が多いから不思議ちゃん認定されてると思うと、やはり、少しヒカリが不憫にも感じる。
謝るヒカリと、それ以上に謝っている女生徒のやり取りを見ながら、ヒカリも、今朝一緒に登校した感じ、心意気と実力だけはあるのになぁと思う。
だけれど、きっとひったくりを捕まえただなんて自慢をするようなタイプじゃない事も、分かっていた。
「あー……なんだかなぁ……」
「ふむ、やはり今日の葦名は珍しいな。百瀬くんに思う所が?」
思考系らしく、こいつは妙に食いつきが良い時がある。普段あまり人と絡まない俺がヒカリと関わっているのを、ある意味で思考の対象として面白がっているのだろう。
「……思う所はないさ」
ないわけではない。ただ、それを言葉にして面白がらせてやるのも、少し癪だった。
「そうか……しかし普段は人と関わらない葦名が誰かといるのは、俺としても嬉しいぞ!」
関わらない選択をしているだけであって、俺自身さっきみたいな居心地の悪い状況は本当に勘弁してほしいのだが、俺の周りの誰もが悪意で動いているわけではない。
ギャル子さんみたいな打算を感じると少し距離を取りたくはなるが、そこに悪意があるわけでもないから、困る。
――逆に、悪意よりも善意の方が痛いことだってある。
山岸に連絡先を聞いたから、俺にも一応聞かないとなという気を遣う感覚だ。
言い換えればそれは善意のようにも思えるが、あくまでそれは自分のポジションを維持したいだけだから、利用されている気がして、それはやはり良い気持ちではない。
――だから結局、一人が楽でいい。
雑に扱えるような山岸であったり。雑に扱わないとどうにもならないヒカリみたいなのが、俺の友達としては、丁度良いのかもしれないなと思った。
両者ともに、面倒な所はあるものの。それはそれで許容出来る。
そうして、今日何度目か分からないヒカリの失敗の様子をぼうっと眺めていると、ヒカリ達の合間から、ふとペットボトルの持ち主の女生徒と目が合った気がした。
相変わらずの困り顔で笑っているが、俺を見て少しだけ嬉しそうな顔をした気がして、妙な違和感を覚える。
名前は何だっただろうかと考えても、やはりその子の名前も記憶にはなかった。
せっかく俺のピンチを、偶然だとはいえ救ってくれたのに、名前を知らないのも申し訳ない。とはいえ名前を知った所で何をするわけでもないが、名前くらいは今度覚えておこうと思った。
しかし、どうして嬉しそうだったのだろう。ヒカリのファンか何かなのだろうか。だとすれば申し訳ないが、その同好の士を見つけた感じには応えられそうもない。
結局、またヒカリは失敗しているけれど、皆が最終的に笑えてるのならばいいのかなと思う。
「あれはあれで、らしいってもんなのかねぇ……」
水をかぶったヒカリは、頭にタオルを乗っけたまま、教室をダッシュで飛び出していった。予鈴までもう三分を切っているのだけれど、まさか買い直しにでも行くつもりだろうか。
その行動力だけは本当に認めたいと思うけれど、廊下は走るなという事に対して彼女の正義は働かないのだろうか。
なんというか、彼女は規律規範というよりも、人への衝動で生きている気がする。シャツの出しっぱなしや廊下のダッシュはさして気にしないあたり、何とも独特な考え方をしていると思った。
そうして、多分しょんぼりして帰って来るのだろうと思った予想は当たり、しっかりと担任の先生に怒られながら、少し中身が減っているペットボトルを三本抱えて、例の女子に渡して自分の席に戻っていった。ちなみにタオルは絞れそうだった。
予鈴が鳴り、怒られながらヒカリが戻ってきた後は、流石に朝礼が始まって、教室は静かになる。
視界に映るヒカリはタオルで一生懸命水を何度もかぶったであろう制服を拭いていて、少し目に喧しかった。なので、俺は担任の話を何となく聞き流しながら、改めて落ち着いた自席で、ぼうっと窓から青空を見る。
風船やら、ひったくりやら、ペットボトルやら、ヒカリの世界は随分と騒がしそうだ。羨ましいとは決して思わないが、もしかしたら自分にもそういう生き方があったのかもしれないと想像して、軽く首を横に振った。
きっと、そんな事を思うのは、彼女が風船を追いかけて飛び上がったシーンが、強く脳裏に焼き付いているからなのかもしれない。
地面を強く踏みしめて、青空と、光に照らされながら、大枝を掴んで身体を持ち上げて、風船に手を伸ばす姿。
あれを見上げた時に思った事は、きっと眩しいという言葉に落ちるのかもしれない。
それが、太陽の眩しさだったのか、彼女の行為の眩しさだったのか、そんな事を考えていると、ふとまた視線を感じた。というよりも、窓越しに目が合っている人がいる。
さっきは気の所為だと思っていた。ピースしてるヒカリ蟹も出没していたし。
だけれど、今の彼女は一生懸命濡れたタオルで制服を拭いている。ヒカリの友達達は、せめて二枚目のタオルを貸してあげて欲しい。ヒカリは多分、蟹じゃなくて人間だから。
ともあれ、同じように青空を見ながら物憂げな事を考えている人がいるのかと思いつつ、少し目を逸らすと、向こうも少しだけ視線をずらす。
ただ、窓越しだから誰だともわかりにくい。
軽く後ろを向いてみると、さっきと同じく誰もこちらを向いていない。まさか俺は幽霊とでも目が合っているのだろうかと思いつつ、窓に目をやって、軽く手のひらを窓の幽霊に向かって振ってみる。すると窓の幽霊はパッと視線を外して、消えた。
――やはり幽霊だったか。
今日は不思議な事が山のようにあったし、山岸にも今日の俺は珍しいと連呼されていたし、そういう事も起こるのだろう――とは思わずに、俺は幽霊の正体を見る為に、視線を逸らした主の方向を見て、誰が窓越しに視線をあわせていたのか探す。
しかし、それを見つける前に、朝礼を女生徒の声が遮る。
「先生、ヒカリちゃんにこれ、渡していいですか?」
例のペットボトル少女が、静かな空気の中、おずおずと手を上げていて、俺はそちらに意識が向いてしまった。
幽霊の正体見れず、ペットボトル少女。
同い年なのに少女とは何とも失礼な印象だが、彼女のその幼気な横顔と、小動物のような動きから、どうにも少女らしさを感じてしまった。
結局幽霊の正体が分からなかったのは少し悔しいが、これからも出没するようであれば、その度に窓に手でも振っていたらそのうち振り返してくれるだろう。それがもし窓に映った自分自身だったならあまりにも痛々しいので考えたくはないが。
それよりも、今は俺を同好の士とでも勘違いしていそうなペットボトル少女だ。
彼女がヒカリに渡そうとしていたのは、タオルだった。
やはり彼女はヒカリのファンか何かだろうか。あの微笑みから考えると、俺に構っていたのを見て、俺もヒカリファンか何かだと勘違いされたな、これは。などと思いながら、ペットボトル少女の健気な優しさに心が少し温まる。
彼女の机の上には、それぞれ水の内容量が違う状態で封が閉まっているペットボトルが四つも並んでいる。ファングッズとしてはなかなかに珍妙な光景だ。
担任の先生に許可を貰ってタオルを渡されたヒカリは、嬉しそうにタオルを受け取っていた。
「稲穂ちゃんありがとー!」
逆にヒカリが感謝する側になっている事について、正義の味方ヒカリさんに見解を伺いたいが、流石に朝礼中だ。テンション高めの感謝は、担任の咳払いがかき消した。ペットボトル少女の顔も赤くなっている。
ただ、俺のピンチを救ってくれたペットボトル少女の名前は、どうやら稲穂さんというらしい。
それだけは、何となく心の中に留めておく事にした。
結局、窓越しの幽霊の正体は分からなかったが、代わりにペットボトル少女の名前が判明したので良かったという事にして、俺は机に肘を乗せて、今日の事を思い出しながらぼんやりとヒカリを目で追う。
もうスカウトはやめてほしいなという念を込めつつ、新しいタオルで身体を拭いているヒカリの背中をジトッと眺めていると、すると彼女はこちらに気づいて、小さくピースをしてみせた。
どうやらこの教室には、窓越しの幽霊もいれば、自己主張の強い蟹もいるようだ。
俺は彼女のピースに、またも曖昧に頷きながら、何とも厄介な友達が増えてしまったものだと、窓から改めて青空を仰いだ。
幽霊の姿は映っておらず、そこには思ったより眩しくない太陽が浮かんでいて、そのふとした現実に少しだけ声を殺して、小さく笑った。
「……俺も、ああなれりゃ楽なのかもな」
結局のところ、眩しく見えたのは太陽なんかじゃなくて、別の光だったのかもしれないだなんて。
そんな事を思ってしまった自分が、ほんの少し悔しかった。




