第四話『なんか蟹だなぁって』
学校が見えてきた俺は、少しずつヒカリと距離を取る。
何処からが友人で、何処からが他人かの区分は分からないものの、どうにも女生徒と登校しているというのは照れくさい。しかし彼女は何も気にしないようで俺が一歩横にずれると彼女も一歩俺の方へと横に一歩進む。
どうか、日陰者の理解もしてもらいたいと思いながら、数回同じ事を続けると、流石に察したようにヒカリは口を開く。
「分かるよ。うん、その気持ちは私も分かる」
「そうか分かるか……分かるか? まぁ気持ちが分かるってのは意外だけど、察してくれてありがたい。という事で俺は先に行くから」
流石にシャツを全部出して学校の玄関前にいる強面の体育教師にどやされたくないので、俺はシャツを制服にしまいながら前へと早足で歩き出した。
すると、せっかくしまったシャツをもう一度しっかりと引き抜かれる。
「なんでさ?!」
「いやこっちの台詞だよ。なんでさ?」
「いや、学校もたまには面倒になるし、逃げたくてカニ歩きにもなっちゃうよねって話だよね? 私ちょっと恥ずかしかったけど付き合ってあげたんだよ?!」
――この人、結構ほんとに馬鹿だなあ。
でも善意は少しだけ受け取っておこう。
「あぁ……そうだな。俺は毛蟹よりズワイかな、蟹は美味いけど面倒だもんな」
「私は毛蟹かなぁ……ちまちま取って、一気に食べるの良くない?」
ヒカリについてのいらない知識が増えてしまった。ズワイをまとめて取って一気に食べた方が幸福ではないだろうかという些細な幸福論については喧嘩になりかねないので言うのをやめた。
もうなんでもいいやと思いながら、俺はシャツを仕舞って玄関をくぐる。
ちなみに、ヒカリはしっかりとシャツを出しっぱなしにしていて体育教師にドヤされていた。なんとなく気づいてはいたが、結果的に歩幅が変わるだろうと思って黙っておいた。
俺は今日何度目かのジトッとした視線を背中に感じながら、教室に向かう。百歩譲って玄関口までは良いにせよ。一緒にクラスをガラっと開けて「「おはよう」」なんて事は、面倒事の種に成りかねない。
それに、教室に入った時の第一声は「おはよう」だなんて決まっているものだが、俺の場合は無言で構わない。よく見る顔と目が合ってしまえば言わざるを得ないが、無言を言うのが正解という生き方もあるのだ。
俺が自分の席について一息ついていると、そのよく見る顔が近づいてくる。
「おはよう、葦名。今日はまた、随分と疲れ顔じゃあないか」
「あぁ、おはよう山岸。……向こうは良いのか?」
俺は山岸の顔から目を逸らして、クラスの中心を眺める。彼は本来そこにおさまるべき人間だ。
体育会系のノリに見える、思考系のアド持ち。
要は非常に上手く集団に馴染むという事に長けているのが、山岸山岸功生という、俺にとって本当に面倒な――友人だ。
彼は俺の上位互換どころか、ある意味では作り方のベースすら異なっている。アドを持つ人間だって、性格は違うものだ。
だから俺みたいな日陰側にいたい人間にもわざわざ挨拶をしにくる。
「向こう? 何かあるか?」
「いや、お前今までアイツらと話してただろ」
「それは構わない! 会話はいつでも出来るが、挨拶は今しか出来ないからな!」
確かに、挨拶は大事なのだろう。挨拶は大きな声でと教えられたっけなと思っていると、さっきまで隣で話を聞いていた誰かさんの「おはよう!」という元気な声がクラスに軽く響いていた。
目の前の山岸も、そこそこの声量で「おはよう! 今日も元気だね百瀬くん!」と、クラスの端と端で長距離挨拶を行っていた。
自分で言うのも皮肉な話だがけれど、なんともアド持ちは変わっている人間が多い気がする。とはいえ、生まれからしていわゆる普通と違うのだから、それも当然なのかもしれない。
「挨拶ねぇ……思想を持つってのも大変なもんだな」
「それほどまでじゃないさ。生まれてから当たり前にしてきた事だからな!」
『当たり前』だとか、『当然』だとかいう、自分にしか当てはまらないような言葉は、あまり好きじゃなかった。俺の当たり前は、学校についたら挨拶をせずに机に顔を突っ伏すことだ。
ただ、彼が悪意で言っていない事くらいは分かる。
だから俺は苦笑して、彼の『当たり前』を受け流した。
「ほら、お前の居場所はあっちだよ。行った行った」
これだけハツラツと誰とでも上手くやろうとするなら、いっそ生徒会長にでもなって学園改革でもすれば良いと思いながら、彼を元の居場所へと帰らせる。
ただ、誰とでも上手くやろうとするのは、正直胡散臭くも感じる。悪い気がするという程ではなくとも、多少の鬱陶しさを感じないわけではないのだ。
「まぁ、良い奴だってのは分かるんだけどな……」
誰にも聞こえないように小さく呟いて、窓際席の独占所持であるところの外の風景をぼうっと眺める。
あのピンクの風船は、割られず飛んで行った方が幸せだっただろうかなんて事を考えてしまうのは、さっきまで聞いていた声が、意識せずとも耳に入ってくるからだ。
クラスの中でまでバディだどうのと言われたらどうしようかと思っていたが、流石にそこはヒカリも配慮出来るようで少し――いやかなり安心した。
しかし、あんな出会い方をしてしまった以上、どうしても耳に彼女の声は入ってくる。相変わらず元気そうに何かを話しているが、少しだけ俺と話していた時よりトーンが落ち着いているのが気になった。
ヒカリの普段のテンションをそもそも良く知らないが、意外と教室では普通に元気で明るいくらいのテンション感。となると、俺と話していた時のわけがわからないノリはなんだったのだろうと思うが、色々あって興奮でもしていたのだろうと、落ち着いた始業前の時間を空の青で癒やされていると、窓越しに誰かと目があった気がした。
ふと後ろを振り向くが、特にこちらを見ている人はいない。あえて言うならヒカリが視界に入って、こちらを見て小さいピースをしてみせていた。
きっと蟹が食べたいのだろう。俺は小さく頷いて、窓の方に視界を戻す。
――やはり、誰かと目があっているというか、誰かに見られているような気がする。
振り返る、誰も見ていない。
振り返る、やっぱり誰も見ていない。
振り返る、その誰かとは多分違うが、そこには蟹がいた。
「さっきの頷きは、意味があったのかな?」
反応したのがまずかった。
しかし明らかにこちらに何かアクションを起こして来た相手を、完全に無視というのは気が悪いと思って頷いた結果が、これだ。
俺に向けられていないと思ったなんて誤魔化すのも、やはり気が引ける。流石に、短い時間だとしてもヒカリとの登校時間が色々な意味で濃密だった事には代わりがない。
「いやまぁ、なんか蟹だなぁって思って。蟹は俺も食べたいから頷いただけかな」
ピースサインを向けられる程、仲良くなったという感じもしていないのは、どうやら俺だけらしい。
「なーんだ。私はてっきり……っていうかさ! 友達を玄関先に放置するのはあんまりだと思うんだよね!」
放置した時点では、まだ友達ではなかったような気もする。
友達の定義を問うのはあまりにも野暮すぎるので何も言わずに、彼女の中で、俺達は友達になっているのだな、と心の中で百瀬ヒカリという人間のおでこあたりに、ペタリと『友達』ラベルを張った。
「そうかぁ……うん、これからは気をつけような。シャツを出しっぱなしにすると怒られるしな」
「引っ張ったのは誰さ! まぁ、分かってくれればいいけど!」
「引っ張りはじめたのは誰さ……」
そんな事を話している間に、ヒカリが所属している元気な人達のグループが面白がってこちらへ近づいてくる。
――これがなんとも苦手なんだよなぁ。
そう思いつつも、溜息をグッと堪えて、何が始まるのかを見守る。妙な茶化しだけは面倒だからやめて欲しいが、この状況でそれ以外があるかと思えば、そんな事もなかった。
「珍しいね、ヒカちゃんが男の子と絡むの」
ヒカリと一緒にいた二人の女子のうち、大人しそうな印象を受けた一人が、意外そうな顔をしてヒカリに話しかけている。ヒカちゃんとはまた、可愛らしい呼ばれ方をしているなと思った。
その、なんとなくヒカリの世話をしていそうな印象を覚える女生徒の名前は……申し訳ないが覚えていない。
これが、さっきヒカリが俺に感じていた微妙な罪悪感というヤツなのかもしれない。ただ、俺の場合はその子とバディになろうとも、何かのスカウトもしようと思わないので、今後意識して名前を覚える必要もないのだけれど。
「そうなの、今日ちょっと色々あって友達になったんだー。えっと、葦名……葦名くん!」
「そっかぁ。ヒカリをよろしくねぇ葦名くん」
どうやら、やはりヒカリと俺が今日友達になったことは確定らしい。おっとりとした口調で何故か俺はヒカリの友人からヒカリをよろしく頼まれる。
当のヒカリは、友達ならば俺の名前もそのうち覚えてくれるだろう。とはいえ、呼ばれるのは御免だが。
俺からすると面倒だなと思ってはいる山岸あたりも、空気を読んでいるのかあえて俺の名前を呼ぶことはない。きっと何処かで俺の嫌悪感を見抜いたのだろう。
思考するというのも、立派なものだ。アドは嫌いだが、その努力は認める。
「葦名くんかー、よろしく~。あとヒカがごめんねー? この子ちょっと不思議なとこあるからさー」
ヒカリが連れてきた二人のうち、もう一人の、派手でテンションがやんわりアゲっぽい人が俺の机をポンポンと軽く叩く。
というか、当たり前にこの人達、自分の名前とか自己紹介とかはしなくてもいいと思っているらしい。勿論、クラスでしていた時に一切聞いていなかった俺が悪いのだけれど、一旦『おっとり子さん』と『ギャル子さん』という名前をつけておいた。
――しかし、ヒカリはクラスでは不思議ちゃんで通っているのか。
俺から見たヒカリは、不思議というよりは不可思議という印象なのだけれど。
結局は言い方の違いかと思って苦笑を続けた。
「私自分の名前好きだし! ヒカリって呼んで欲しいし! あと不思議じゃないからね?!」
どうやらヒカちゃん呼びは本人的に不服らしい。
個人的には、友人がほぼいない俺が聞いてもフレンドリーで良いと思うのだけれど、あだ名って意外と人を選ぶしなと思いながら、彼女の名前を考える。
それと、俺と違って自分の名前が好きなのも、本当に正反対なんだなと思い、ため息混じりの笑いが溢れた。
それだけ本名呼びに拘るなら、俺と違って名前の漢字も好きなのかもしれない。
「そういえば、ヒカ……百瀬さんってどういう字書くんだっけ」
「だからヒカ呼びはやめ……って、ん? 百瀬さん?」
流石に友達一日目、もとい一時間目くらいの俺が、彼女の友人の前で名前を呼ぶのはハードルが高い。
察して欲しい、実に察して欲しい。
けれど彼女が察しそうにないことは、蟹の件で俺が察しているので、勝手に話を進める。
「単純に光るって書いてヒカリ?」
「えーっとね、難しいんだよね。雁って鳥、分かる?」
何とか百瀬さん呼びについては誤魔化せたようだ。
しかし今日は誤魔化してばっかりいて、中々に悪い気がしてきた。ちなみに、ガンと言われてもピンとは来ない。
「ヒカちゃん、多分大体分かんないと思うよ、その説明……」
おっとり子さんが、こちらに同情した目線を送りつつ、ヒカリに突っ込む。
これはおそらく、俺がヒカリに絡まれているという、最初この子が言っていた通りの状況だと周りは判断しているらしい。ギャル子さんも、ちょっと困り顔でこちらを見て笑っていた。
それは、なんだかヒカリのことを考えるとほんの少しだけ寂しくも思う。ある意味で、俺は被害者ポジションに近い位置にいるように見られているのは、少し違う。
物は思いようというか、思われようなのかもしれない。
気づいていないにしろヒカリは大変なんだなと思い彼女に目を向けると、やはり当の本人は気にした様子もなく、俺の筆箱をガサゴソとまさぐっていた。
もう彼女の事は何となく分かってきたので、好きにやらせる事にする。それ以上に、とりあえずどういう漢字を書くのかは気になった。
「えっーと、書いていいものあるかな?」
「あぁ……これ使っていいよ。ノートだけど」
俺がカバンから授業用のノートを渡すと、ヒカリはそのノートを開く。
ノート一面。
ピンクの両面マーカー、太字側。
大きく書かれた『陽雁』という文字。
丁寧に『ひかり』というルビまで書いてある。
まるで書道でもするのかという勢いで、達筆な字が俺のノート一ページ分を埋めた。
ちなみにちょっとだけその筆圧で俺のマーカーの筆先が苦しそうな音をあげていたのは気にしない事にした。
「これでヒカリ、か……あれ、でもさっきガンって言ってなかった?」
「今の呼び方だとガンになるんだけど、昔の呼び方だとカリなんだよね。結構好きなんだ、この名前。太陽の陽に、渡り鳥の雁だよ!」
確かに、良い名前だと思った。その漢字自体も、読み方も含めて、彼女の性格を表していると思えるくらいには、似合っている気がした。
それに、あまりに達筆だったから圧倒されたのもあるかもしれない。
だけれど、純粋に綺麗な言葉の並びだなと思いながら、俺は少しだけ先が曲がっているマーカーを筆箱に仕舞いながら、ノートにデカデカと書かれた文字を見つめていた。




