第二十四話『ヒカリちゃんは、手強いよ?』
稲穂と穏やかな時間を過ごしているうちに、俺も少し心に余裕が出来て保険準備室を見渡す。
椅子が四脚に大きめの机が一つということは、少なくともノア先生が気を利かせて用意してくれたと思って良いのだろう。
なんだかんだ、あんな調子でも、優しくて気配りが出来る先生なのだと思っている。
混ぜてくれと言う割に、俺と稲穂の会話くらいは多少漏れ聞こえているだろうにこちら側に入ってこないあたりも、おそらく空気というか、なんらかを察知してくれているのだろうと思った。
「しかし、さっき言ってた通り、明日からは片付けだろうな。放課後はどうする? 集まる理由があるかと言われると、今はなさそうだけど」
「放課後はー……どうかなぁ。とりあえず世利華ちゃんが今日来られなかったし、明日のお昼集まった時に決めたらいいかもね。おしゃべりしたい時に使うのは丁度いいし、お掃除はー……うん、せっかくノア先生が部屋を使わせてくれているわけだし。定期的にお掃除するのは大事だと思うな。でも、よく見るとちょっとだけ散らかっているだけで、普通に綺麗だよね。埃とかもなさそう」
ノア先生の印象から考えると雑な所もありそうだと思っていたけれど、確かに多少の備品が出たままになっているだけで、埃という埃は見当たらないように感じた。
片付けとして、俺たちがやるべきは、このそう広くはないスペースで、お互いの席やら、使っていいと言われた冷蔵庫の使い方やら、幾つか空いている棚の空きスペースをどう使うかを決めるだけで済みそうだ。
ただ、その辺りは全員揃っている時に、ノア先生も混ぜて話しながら決めても良い。
「ふふふー。なんだか秘密基地みたいで楽しいね?」
今日の稲穂は随分とテンションが高い。グループチャットでの彼女を彷彿として、いつもより可愛らしく見えるのは気のせいじゃないはずだ。
「ま、確かに悪くないな。部室って感じでもないし、この狭さも丁度いい」
言葉にはしにくいが、稲穂はニュアンスを拾ってくれたようで、クスっと笑う。
「きっと、ここは何をするって場所じゃないんだと思うんだよねぇ。きっと、何もやらなくていい場所、なのかも?」
アドに振り回されながら、ある程度敷かれたレールに乗って生きてきた俺たちが、そのことを少しだけでも忘れられる場所がこの場所だっていうのなら、確かに、それは本当に悪くない。
「……うまくやれると良いな」
彼女は「ん……!」俺の言葉に小さく首肯して、スマートフォンを見ながら無邪気な笑みを浮かべている。
やっぱり電子世界の『おこめ』は、稲穂の素かどうかは分からないにせよ、彼女の静かなイメージの中にある、もう一人の彼女なのだろうと思った。
『窓の幽霊』、『水引稲穂』、『おこめ』。そのどれもが彼女の一つで、どれもきっと本当の彼女なのだと、そう思える。
ただ、どの彼女も、人の感情を察知してしまうということからは逃げられない。
「うん、そだね。うまくやっていこ。だけどね? どうやらその前に葦名くんは、一人でうまくやらなきゃいけないこと、あるかもよ?」
「あぁ……通知の音が鳴る度に、少し身構えてるよ」
彼女はスマートフォンの画面をこちらに見せて、やっぱり楽しそうに笑う。
陽雁『世利ちゃん確保ー!』
俺たちが思っていた通り、世利華はヒカリに捕まっていたらしい。
稲穂も、俺も、同じ場所にいるなら話せばいいものを、無言でスマートフォンに文字を打ち続けていた。
pica『確保というか連行だ。葦名から話は聞いてないのか?」
おこめ『すれ違いだったみたいだよー。でも昼休み終わっちゃうし、このまま解散でいいんじゃないかな?』
pica『同感だ』
陽雁『だと思って、私達はもう教室にいるよー』
葦『というか俺に任せろって言ったのに』
陽雁『だってなんか走りたくて!』
葦『廊下は走るな。お前の全速力にぶつかったら下手すりゃ事故じゃすまん』
陽雁『(頭身が高い奇妙な動物がぶん殴りたくないような顔でニヤついているスタンプ)』
葦『グループ抜けようかな』
陽雁『冗談でもそんな事言わないの! 大丈夫だよ、走るからには止まるようにしてるし、コーナーで差をつけるつもりはないからね!』
おこめ『ヒカリちゃんもだいぶ気をつけるようになったもんね……』
葦『そもそも、走らないという校則に基づこうとする意思はないのか?』
陽雁『必要であれば駆けつける。それがヒーローの鉄則だよ! 校則より鉄則なの!』
pica『私を見つけるのは鉄則ではない』
おこめ『とりあえず怒られないようにね? 部屋を貸してもらってる手前、お行儀は良くしないと、ノア先生にも迷惑かけちゃうよ?』
陽雁『うーん、じゃあ頑張る』
陽雁『そだ』
おこめ『?』
陽雁『世利ちゃんはなんでpicaなの? 電気でも出せるの? ネズミなの?』
pica『いや、これはカササギから取った、日下と字面が似ていたからな、それだけだ』
葦『カササギ……っていうと、Picapicaってやつか』
陽雁『ズルい、葦名くん調べたでしょ?』
pica『分かりにくいのも仕方ないさ。名付けってのも不思議なもので、私の名前も漢字で書けば世利華だが、両親曰くsericaだそうだ。まさにP.sericaはカササギの学名の引用だ。人に鳥の名前をつけるとは、どうにもやはり理解出来ないがな』
葦『往々にして、親ってのは分からんもんだよ。俺らから見れば、尚更』
陽雁『えー、そうかなぁ? 私は割と好きだよ。モネのカササギとか凄い綺麗だし、世利ちゃんっぽいよ?』
「えぇ?! アイツってそういう教養とかあんの?!」
俺は思わずスマートフォンから目を離して、稲穂に問いかけてしまった。
「あはは……人は見かけに寄らないよ? 陽雁ちゃんは色んな事に熱心だしね、知ってもおかしくはないかも。ちなみに私は分かんないから今調べたけど……確かに世利華ちゃんっぽい綺麗な絵だよ、ほら」
いつのまにか稲穂も世利ちゃん呼びになっている事は置いておいて、稲穂のスマートフォンに移されたモネのカササギとやらの画像を見る。
――目を奪う白、流れていく白、影に隠れている白、白だらけなのに、全て違う白だ。
その中で、小さく、一羽だけ描かれている黒い鳥が、カササギなのだろう。
それは寂しそうで、だけれど今すぐに白の中へと飛び立ちそうで、静かで、その小さい一羽の鳥の持つ黒色が、絵画の世界の白を全て巻き込んでいるような、そんな錯覚すら覚えた。
「あぁ……確かに、世利華っぽいかもな」
「ね? ヒカリちゃんはさ、そういうの得意なの。人の良いところを見つけ出すのが上手いっていうのかな。だから葦名くんもほら、信用していいの……かもよ?」
pica『そう言ってもらえると、なんとも、答えにくいが、悪い気はしないかもしれないな』
おこめ『こういうときは、きっと嬉しいって言えばいいんだよー? 好きだなって言われて、悪い気がしないなら、きっとそれは嬉しいんだと思うな』
pica『そうか、では百瀬、嬉しいぞ』
直後、連投。
pica『ヒカリ、嬉しいぞ』
俺と稲穂は、目を合わせてクスッと笑う。
お互い、たった今クラス内で起きた事が想像ついたのだろう。
「しかしヒカリも、強引だなぁ……」
「それに救われたりもするんだけどね? 私だって、ヒカリちゃんと友達じゃなかったら、昨日みたいなことに関わろうとなんて出来なかったし」
イジメの実質的な解決を成した本人が、ヒカリの事を嬉しそうに語る。
「ヒカリちゃんが言う正義はあんまり分からないんだけどさ。それでもヒカリちゃんが正しいって思うことを頑張ってるのって、私からは凄くキラキラして見えるんだよね。そりゃ、間違っちゃうこともあるみたいだれど」
やっぱり、稲穂は素直な子なのだと思った。
何故なら、俺もヒカリについては概ね似たようなことを思っている。
だけれど、それを言語化するには、少し自分の人生が邪魔をしてしまう。
「なら、昨日のあれは稲穂の正義ってヤツだったのかな」
「どうだろ? 私にヒカリちゃんがいう正義みたいなものは分からない、かな。きっと、私には分かってあげられないんだと思う。たださ、あそこで何も言えない自分が嫌だったってだけなの。私だって別に、優しくなんてないんだから」
優しくないなんて言葉は、優しいからこそ言えることのような気がしたけれど、俺はそのまま彼女の次の言葉を待つ。
「……だからね、ごめん。葦名くん。昨日のこと、二度としちゃ駄目だよなんて言っておきながら、私がした事も、葦名くんと同じなんだ。ただ痛む所が違っただけ」
「いや、違うさ。何度も言うと価値が下がりそうだから、あと一回だけ言っておくよ。あれを解決したのは、稲穂だった。実際、今日のクラスの空気と視線はお前に向いてなかっただろ? それはお前が一番分かってたはず」
少し、ズルい事を言ってしまったと思った。
だけれど、このことは、彼女も事実として、気づいているはずだ。
俺とヒカリは視線に晒された。だけれど、稲穂と世利華はそれに該当していなかったのだ。
「動機は似てたって、やっぱりやったことは別だ。あの場でこれ以上誰も痛まずに終わらせられたのは、これ以上何を言われたって、お前の手柄だと思うよ」
「ん……そこまで言われたら褒められてあげよう、かな。でもさ、私があれを出来たのは、やっぱりヒカリちゃんと一緒にいて、ヒカリちゃんを見てきたお陰で、そうして葦名くんがボロボロになろうとしてまで頑張ってくれたお陰だと思うんだ」
結果から見るならば、結果だけを見るならば、彼女の言う通り、誰の行動が欠けていても成立しなかった。ただ俺は、俺達は、最後のピースとして動いた稲穂を、その代表として掲げている。
彼女は自分をそう捉えているのかもしれない。
「だから、だからね。ありがと、葦名くん。私にぜんぶぜーんぶ、吐き出させてくれて!」
彼女はそう言いながら、器用に髪を後ろでまとめていき、髪留めのパチンという音と共に、いつもの彼女の姿に戻っていく。
そのままでも十分すぎるほど似合っていたけれど、もしかすると彼女なりのスイッチのようなものなのかもしれない。
俺が返す言葉を考えているうちに、予鈴のチャイムが鳴る。
それと同時に、スマートフォンにもポコンと一つのメッセージが飛んで来る。
『じゃあ葦名くん。放課後は屋上で勝負だからね? 全部済んだんだから、これからの話をしよう?』
俺は小さく溜息をつきつつ、声を殺して笑っている稲穂の背中を目で追った。
「頑張ってね。葦名くん? ヒカリちゃんは、手強いよ?」
そう言って、稲穂は保険準備室のドアを開ける。
少し小走りに見えたのは、わざと俺に考える時間を作らせようとでもしてくれていたのかもしれない。
そうして、意外と無邪気で、意外と意地悪で、本当に優しい彼女との昼休みが終わる。
俺は小さく溜息をつきながらも、スマートフォンに表示されたままの、ヒカリからの挑戦状とも取れる言葉を、じっと見つめていた。




