第二十二話『こころ』
中田の彼氏――田中をいなしてクラスを後にした俺は、小走りで購買へ急ぐ。
適当にサンドイッチを買って、保健準備室の鍵をチャラチャラと鳴らしながら、先に向かった三人を探していた。
流石に、三人の昼食が立ち食いになるなんてことは避けてあげなければ申し訳ない。しかし、保健準備室が見ても、三人の姿は見えなかった。
「あれ、俺のが早いなんてことあるか……?」
俺は一人呟いて、疑問に思いながらとりあえず貰った鍵で保健準備室を解錠し、中へと入る。
ガララというドアの開閉音が、重なって聞こえた。
「おー、此処が準備室かー! って遅いよ葦名くん!」
「……なるほど、皆は向こうにいたわけか」
保健室側のドアから、ヒカリと稲穂が顔を出す。一瞬ヒラヒラと手を振っていたのはノア先生だろう。
「せっかく焼きそばパンをかっさらって来たのに! もう葦名くんの分は買ってこないよ?!」
「ヒカリちゃんも、少しは待って良かったんじゃないかな……? 世利華ちゃんもまだ来ていないし……」
稲穂は焼きそばパンを持ったまま、クラスの中よりもずっと素直な表情で笑っていた。
ヒカリも、同じようにクラスにいた時に比べて元気が良いようで、俺は表情に出さないように気をつけながら、安心する。
「あれ? 世利華も稲穂と同じくらいに出てったけどな」
言いながら俺は、なんだかんだ買っておいてくれたらしい焼きそばパンをヒカリから渡され、代金を払う。サンドイッチより美味しいのは確かなので、ありがたくはあるので、素直に感謝を告げた。
しかし、この様子では毎日の昼食が焼きそばパンになってしまう、それに数が少なく競争率も高い焼きそばパンが、ほぼ毎日ヒカリの正々堂々とした強奪により、四人分奪われていくのも可哀想なので、焼きそばパンの買い占めはなるべく早めにやめさせておこうと思った。
「むむむー……入れ違うってこともないだろうし、まさかまたアイツらなんかされて……っ?!」
ヒカリが妄想を膨らませて一人相撲をしはじめようとしたのを、俺は諌める。
「いや、それはない。ただ田中は俺に喧嘩を売ってきたな。何もなかったってことにして、強引に納得させてはきたkれど」
俺の言葉に、二人が不思議そうに首を傾げる。
「「田中……?」」
あぁ、全員友達判定みたいなヒカリにすら、アイツはもう名前を忘れられているのか。
確か名前は稲穂かヒカリに教えられた気がしたのだけれど、正直いえばアイツの役回りは『中田の彼氏』でしかなかった。何とも可哀想な男だ。なんというか、色々な意味で。
「ほら、中田の彼氏。というかヒカリか稲穂は知ってただろ」
そういって、稲穂がハッとした顔で手をポンと叩く。
どうやら彼女の中ですら、薄らいでいた名前だったようだ。
ヒカリも、今思い出したようで、少し低めの声を出す。
「あぁー。そういえば、中田中だったね」
「うん、田中田でもあるよね。なんというか……引き寄せられるの、かな?」
稲穂はやんわりと会話に乗っかってはいるけれど、印象としては、彼女からしてもかなり良くないのはその内容からしてすぐ分かった。
「それで、大丈夫そうだった? 葦名くん喧嘩売られたんでしょ?」
「あぁ……喧嘩売ってきたっていうか。俺のアザを先生に言われるのをビビってたんだろうな。実際ノア先生は見て見ぬふりしてくれたけど、授業中の先生たちは変な顔で俺を見てたし」
俺へと向けられる先生たちの視線を、田中自身が気付いていたからこその、さっきの圧力だったのだろうと思うけれど、それにしてもやはり、思い出すと笑いそうになってしまう。
「逃げんのか? だってよ。だからさっさと逃げてきた。もうアイツらと関わるのは面倒だしな」
「うーん……なんかさ、すっごい小物! でも難しいよね。だからって、力で何とか出来るわけじゃないんだもん、だからやっぱり葦名くんは凄いよ……まぁ昨日のことは納得してないけどさ!」
相変わらず、ヒカリの俺への過大評価は続いている。
「昨日も言ったろ? あの時の立役者は間違いなくお前らだよ。俺はあくまで馬鹿みたいに立ち回っただけ、お前が、動かずにいてくれたってのも一つの選択だったんだと思う。それに、俺を助けてもくれたしな」
ヒカリは、何もしないことを、歯を食いしばってでも選んだのだと思う。
これは、俺が母さんとつい最近、問答した時、俺が返した答えに似ている。
選ばないことも、また選択。
ヒカリは昨日、俺と田中がやり合っている時に、いくらでも介入することが出来たはずだ。
俺の忠告はあったとはいえ、それでも彼女はあえて介入しないという選択を取った。
それは、どの程度かまでは分からないせよ、彼女にとってひどく苦しい選択だったはずだ。
最後に、堪えきれず田中の腕を止めたのは、限界が来たのだという風に考えていた。
だからこそ、あの時は力加減もいつもより上手くいかなかったのかもしれない。
ただ田中の様子から考えて、流石に折れているようなこともなさそうだったし、俺が助けられたことも事実。
つまりは、俺が状況を始め、世利華が状況を揺らした。
それを俺と田中が荒らして、ヒカリが限度を見て状況を壊したところで、稲穂が終わらせる。
そうして、山岸が、その後を引き受けた。
結局のところ、全員が全員のやり方で、動いた結果だったのだと、そう思う。
特にヒカリは、何もしないということについて耐え抜いてくれた。
稲穂のように、正確な状況を察知出来るわけじゃなくても。ヒカリのように義勇心の塊のようなヤツがよく耐えたものだと思う。彼女の言う所でいう友人である俺を守ろうとしてくれたのは、彼女にとっての限界だったということくらい、すぐ分かることだ。それだって、数発殴られるまでは耐えてくれていた。
「見守ってくれてありがとな、ヒカリ」
俺が純粋に感謝するのを、稲穂が心底嬉しそうに見ていた。
ヒカリはくすぐったそうに、少し身体を捻る。案外感謝されなれていないのかもしれない。
「んんっ! それで、世利華ちゃんはどうしたんだろ? 流石に遅くないかな?」
ヒカリが強引に話題を変えるが、確かに言っている事は尤もだ。
というか良く考えたら、昨日の流れでは皆で集まるという感じではあったものの。
世利華がその全員に自分自身を含めていたかということまで考えると、疑問が生まれる。
「もしかして、もしかしてなんだけれどさ。アイツ、自分も此処に集まるんだって思ってない可能性ないか?」
「あははー、もう葦名くんったら、そんなまさかぁ……あり得る、ねー……」
稲穂が乾いた笑いと共に肯定する。実際世利華は、人間の感情というモノに対しては少しは理解しようとしているように見えるけれど、自分のことは感情に入れずに会話していたような節がある。
ただ、それならば分かってもらうだけだ。
俺達は結局もう、四人で一つの、まとめた名前もまだつけられないような、未熟なアド持ちの集まりなのだから。
だからこそ、彼女だって、ここにいるべき人間だ。
「どする……? 私が探しに行ってこよっか?」
ヒカリの提案に、俺は首を横に振る。
――丁度、用事もある。
「いや……俺に心当たりがあるから、二人はゆっくりしていていいよ」
俺にはもう、彼女がここにいない時点で、向かっている先は分かっていた。
「ん、じゃあ葦名くんに任せるよ。この焼きそばパン、持ってってあげて?」
ヒカリに焼きそばパンを渡され、俺は頷いて保健準備室を後にする。
「しかし、あんなことがあっても行くもんなんだな。天気が良い方が合理的ってやつなのかね……」
俺は中庭へと真っ直ぐ、昼休みの残り時間を考えながら、小走りで向う。
せっかく初めて四人が隠れ家的な場所に集まれる最初の機会なんだ。
中庭で一人、サンドイッチを齧っているよりも、そちらの方がいい。合理不合理など関係もない。
彼女にとって、きっと必要になることだ。たとえそれが彼女にはまだ分からなかったとしても。
案の定、中庭には世利華の姿があった。
昨日と一昨日とも変わらない。伸びる綺麗な背筋に、風に小さく揺れるポニーテール。
そうして手元には一冊の本と、太ももの上にはサンドイッチ。
「よ、ヒカリと稲穂が待ってんぞ?」
「あぁ……保険準備室の話、か。やはり私も行くべきだったのか?」
彼女は少しだけ不安げな目で俺に語りかける。
「まぁ、そうだと言えばそうだよ。当たり前だと言うには、少し酷だな。ただ、あいつらは待ってるよ。 セロトニンを取り込む理由より、あいつらと一緒にいた方が、多分合理的だろうよ」
彼女は少し考える素振りをしてから、パタン、と文庫本に指を挟んで閉じ、俺の方をジッと見た、
「どうして、キミたちは、そこまでしようとするんだ? こんな、ロクに感情の機微も読めない私などに構うなんて……暇なのか?」
その言葉には、世利華にしては珍しく自信の色がなく、純粋に気にしていることのように思えた。
だから俺も、真正面からその問いに答える。
「俺個人の考えで言うなら、俺はお前に興味を持ってる。あいつらは、仲良くなりたがってるだけだろうよ、多分な。お前は感情の機微が読めないなんていうけどさ、それを読もうと必死じゃねえか。俺は、それを感情だって思うんだよ。まぁ、お前の言葉は冷たいけどさ」
世利華は、心底驚いたように、読んでいた本を閉じて、こちらを見ている。
まるで、次の俺の言葉を待っているかのように見えたのは、考えすぎかもしれない。
「お前は確かに感情がよく分からんし、言葉もきつい。けどさ、それだけでイジメが起きるなんて、不合理だって思ったんだよ。少なくとも俺らはな」
「……不合理、か」
彼女は小さく呟いて、答えを見つけようとしているのか、スーッと息を吸っては、吐く。
静かな時間だった。そうして、綺麗な時間だとも、思った。
「俺らは、俺らなりに感じた不合理を見ていられなかった。それは結局、お前のためというより。俺らのためだったってのは、きっと変わらない。けどさ俺らの中では、確かに合理が通って、合意出来たんだよ。感情なんざ合理不合理だけじゃ測れない。だからお前だって、中田のビンタを避けなかった……だってお前は中田の合理を見ちまった、だろ?」
「……それも、そうだな。あの時は私も自分が何をしていたのかよくは分からなかった。ただ、そうしていたんだ。中田の顔を見ていたらな」
「だから今日も、セロトニンを浴びたくなった、と?」
「……そう言われると、そうだな。気まずいというのはこういうことなのかもしれないな」
結局、彼女は未だに悩んでいる。終わった今も考え続けている。
それはきっと、合理不合理なんていう、彼女が作った枠組みにはおさまらないことなのだろう。
「……こういうことは、私にとっては初めての経験だった……だから、考えても考えても分からない。どうしてだろうな、どうも今になって急に、心がかき乱される」
本当に感情がない人間なんて、そうそういるわけじゃない。世利華だって、思うこと自体はきっと、沢山あったのだ。
だけれど、それを上手く理解は出来ない。それでも、絶対に理解をしたい。
だからきっと、彼女は毎日のように、人の遺したこころを――本を読み続けていたのだろう。
今も尚、彼女の手には、誰かの感情が乗せられた小説がある。
「きっかけなんて、いつ降ってくるか分かんないもんだと思うよ。それがたまたま今だったんだ。それ、読み続けてきたんだろ?」
俺は目線を彼女が持っている小説にやると、彼女もそこに目を落とし、頷く。
ずっと、彼女が自身の中に取り込み続けていた感情の種が、やっと発芽した。
きっと、それだけなのだ
「だからさ、迷うこたないと思うよ。お前は分からんまま、分かろうとして、分かっていけばいいんじゃねえのかな。あいつらなんて、感情の塊みたいなもんだ。だから一緒にれば、感情なんていうよくわからんも飲み込めて、少しでも理解出来る日が来るんじゃないか? 一人で考え続けるより、その方が合理的、だろ?」
自分らしくない、真面目なことを言ってしまったように思える。
だけれど、俺の言葉が今、間違っているとは思わない。
感情で動こうとするヒカリも、感情に向き合おうとする稲穂も、感情を知りたいと願う世利華も、結局は全員、感情によって前へと進んでいる。
全員が少しずつズレながら、同じようで違う感情によって、進もうとしている。
それが、俺にとってはどうしても綺麗に見えてしまうのだ。
「合理、か。そうだな、それも、そうなのかもしれない」
彼女は呟いて、少し柔らかい表情で俺を見る。
「あぁ、そうかもしれないし。そうじゃないかもしれない。それでも、一人でいるよりかは、きっと良い。本もいいさ、けれどアイツらがお前を待ってる。それだけで、行く意味も権利もあるだろうさ」
「なら、行かないのも……悪い、でいいのかな?」
今更になっても臆病な彼女が目に映るのは、やはり少し意外だった。
本当の所、彼女が言い張る合理不合理は、彼女なりの防御か攻撃か、そんなものだったのかもしれない。
そうせざるを得ないことが、彼女の人生にあったのかもしれない。
それを聞く野暮はせずとも、俺もまた自分のアドについて悩みはある。だからこそ、少しだけ彼女の逡巡に思いを馳せていた。
「さぁなぁ……行かなくてもアイツらはまた誘ってくるぞ? 要は、お前が行きたいと思うかどうかなんじゃないか? ちなみに俺はあんまり行きたかないがなぁ……スカウトは面倒だ」
「行っても、行かなくてもいいのか?」
「いいよ、そんなもん。好きにすりゃいいさ。俺は付き合いで行くつもりだったけれど、流石にクラスにいても、視線がダルいからしばらく通う。クラスの奴らは俺を人だと思っちゃいねえしな」
世利華の、鋭くも優しい目がゆらりと揺れて、俺のアザを辿っているように見えた。
「人非人でもいいじゃないか。この本に、そう書いていたよ」
人非人とはまた、随分な事を言うと思ったが、見せられた小説のタイトルを見せられて、俺は苦笑した。『人非人でもいい。私達は生きてさえいればいい』だなんて、小説の中にあったくだりを思い出す。
確かあれは、主人が悪事を働いた末、なんとなしに全てが解決したあと、旦那の言い訳に妻がそう言い放ち、話を締めくくる時の一節だ。
「手厳しいが、まぁ……そうなのかもな」
その言葉を引用した彼女からは、もう合理の匂いも、不合理の匂いも感じなかった。
――ならやはり、この用事は済ませておくべきだ。
俺は胸ポケットから、一冊の小説を取り出す。
「キミ……それって……」
みるみる内に、世利華の顔が驚きに染まっていく。
それもそのはず、俺は彼女と出会った日から、ずっとこの瞬間のために、彼女を見てきたのだから。
「ほら、返すよ。今ならきっと、少しは分かるだろうさ」
俺が手渡したその小説は、彼女があの日不合理だと言いゴミ箱に捨てた。夏目漱石の『こころ』だった。
驚いた顔のまま、すっと手が伸びて、彼女は恐る恐る、俺の手から『こころ』を受け取った。
「こころ……か」
「実際に書きゃ巻物になるくらいに長い手紙も、もう一度読んでみれば変わるかもしれないだおr?」
そう言って笑いかけると、彼女も小さく声を殺して笑っていた。
「あぁ、そうだな。確かにあの、先生とやらの手紙は、どうやって郵送されたのだろうと思っていたよ、私も」
二人で小さく笑い合う。彼女の中にある。感情というものが、どういう風に動いていくのかは分からない。
だけれど、初めて見た時の鉄面皮より、今の笑顔の方が、ずっと無邪気で、妙に子供っぽく見えて、彼女の言う感情のように、人にはまだまだ簡単には分からない事ばかりだな、なんて事を考えていた。
「それで、どうする? 焼きそばパンは、預かってきてるが……」
「そうだな、それは……うん、有り難く貰っておこう。しかし今日は、少しだけゆっくりと考えたいことも出来た。言伝を頼めるかい?」
彼女は嬉しそうに焼きそばパンを俺からバシっと力強く受け取り、サンドイッチのゴミを手渡す。
「ま、二人はそれでも大丈夫だろうさ。それに、確かに今日は、良い天気だしなぁ」
眩しい空を仰ぐ、もう降ってくるのは陽射しだけ、バケツなんざ降る日は来ない。
「明日からは、ちゃんとお邪魔させてもらうよ」
「ん、分かった。伝えとく。じゃあ俺は、先に行くよ」
世利華に背を向けて、お代を貰い忘れたがまぁサービスでいいかと、俺はポケットの小銭を確認して歩き出す。
中庭と廊下を繋ぐ開かれたドアをまたぎかけた所で、ベンチにいるであろう世利華から、少し焦ったような声が聴こえて、俺は足を止めた。
「葦名!」
「ん? まだなんかあったか? 俺はそいつも返せたし、文句ももうないぞ?」
「じゃなくて、私の方がまだだ。葦名……キミも、改めてありがとう。私を、助けてくれて!」
まさか、直接感謝なんてものをされるとは思っていなかった。
俺は結局、俺の選択に彼女を巻き込んだだけに過ぎない。
だけれど結果的に、彼女がこうやって笑えることが増えたなら、俺の選択も、もしかすると間違いではなかったのかもしれない。
「……助けたつもりはないさ。その方が、俺の中で合理的だと思っただけ」
「……そうだな。それでも、だよ。礼を言わなきゃ、不合理ってものだからね……!」
その言葉を背中に受けて、俺は軽く手を上げた。
振り返ることはしなかった。何故ならきっと、彼女も、俺も、自分の顔を見られるのが、きっと恥ずかしかっただろうから。




