第二十一話『舐めてんのはお前の方だよ』
自分のしでかしたことの重大さを実感するには、やはり実際の風景を見る必要があるようだった。
クラスで大立ち回りをした翌日、俺は通学路でヒカリと合流し、あえてお互いに昨日のことには触れないまま登校はしたものの、クラスメイトたちはそういうわけにはいかなかったようだ。
俺たちがクラスに入った瞬間、空気がスッと冷たくいくような気がした。
――なるほど、これも責任ってもんか。
これを引き受けるべきは俺だけであるべきだと思うことには変わりない。
ただ、そう都合良く俺のみに責任がのしかかるということもないようで、気まずそうな視線たちは、俺とヒカリの二人に向けられているように思えた。
木梨さんたちについても、昨日は協力こそしてくれたけれど。クラス全体の空気には飲まれてしまっているようで、一瞬目が合ったものの、すぐに逸らされてしまった。
「おはよー」
ヒカリはそれを気にしていないのか、それとも気にしないフリなのか分からないけれど、集まった視線を散らすかように、誰に向けてとも言えないような軽い挨拶をして自分の席に座る。
俺もそれに半分ならい、挨拶はせず自分の席に座ると、ヒカリが稲穂の方に手を振っているのが見えた。
稲穂は少し困り眉をして笑いながらヒカリに手を振り返し、そうして俺の方を向いて、やはり少し困ったような表情のまま、それでも小さく笑いながら、手を振っていた。
クラスを眺めると、世利華も中田たちも既に登校していた。
だからこそ、緊張が走り続けていたのだろう。
つまり、昨日と状況こそ違えど、この淀んだままの空気は、俺たちが来る前にはもう殆ど完成していたのだろう。
それを、このクラスの中で一番身を持って感じてしまうのは、稲穂に他ならない。
「……これが結果だってんなら、報われねえよなぁ」
思わず、俺は誰にも聞こえないように愚痴をこぼしてしまう。
結局、誰もが傷ついたとはいえ決着はした。
ただ、決着のために、誰もが傷ついたとも言えるのだ。
考えようによっては、傷つく必要のない人を巻き込んだとも考えられる。
しかし、ヒカリや山岸のように義勇心みたいなものを持っていない俺でも、あのイジメを見て見ぬふりをしていたクラスメイトたちは、昨日の騒動の傍観者になるくらいの傷を引き受けさせられても、文句は言ないだろうとも思う。
ただ、どうやらこの空気の淀み具合を見ると、不服なクラスメイトは少なくないらしい。
勿論、誰が不満を言っているわけでもない。
イジメだって起こりそうな様子はない。
むしろ中田は昨日の去り際に見た時よりも余程しおらしく、憔悴しているように見えた。
中田の彼氏は俺達がクラスに入った時からギロリとこちらを睨んでいたけれど、わざわざそんな挑発に乗る必要はもうどこにもない。
俺とアイツらの関係も終わったのだ。
昨日の時点で、一旦イジメに関することは終わった。
ただ、それぞれが分けた大なり小なりの痛みを癒すまでの時間が必要なのだと、この淀んだ空気が教えてくれていた。
「おはよう! 葦名」
しかし、この淀んだ空気すらを読まない男が、わざわざ俺の元まで来て、話しかけにくる。
「おぉ……おはよう山岸。しかしお前は……本当に空気を読まないな」
「あぁ、読むべき時は読むが、読む必要がない時は読むつもりもない。俺も俺なりに、変わることくらいは出来るつもりだからな!」
誰もが傷つき、誰もが何かを考えただろう。
その量が多かれ少なかれ、痛みは時に誰かを変える。
山岸は、その一人目だったのかもしれない。読むべき空気を、あえて壊しにかかっている。
「あぁ……そりゃ結構だ。その調子で頼むよ。こんな終わってる空気はさっさとぶち壊してくれ。俺らはとりあえず、昼休みあたりにゃどっかに行ってるから」
「今度は君たちが空気を読む番だとは、何とも言いがたいが……しかしまぁ、それも妥当かもしれないな」
山岸が溜息を吐いてから、深呼吸をする。
このクラスで循環している空気が彼にとっても美味しくないのは、その表情で分かる。
そもそも、俺と山岸が話しているだけの光景にさえ、視線が集まっているのだ。
ただ、それも悪意というよりは、恐れのようなものなのだろうと思う。
何せ、俺の顔はアザが目立つ。そうして男同士で何か話していたなら、また何か起きるのではないかと思われてもおかしくない。
それでも、逆にそれでいいと思っている自分もいた。
この空気は、完全にイジメへの抑止力になっている。
こんな状態では、中田たちも余程のことがなければ身内同士でつるんでやり過ごすしかないだろう。
「流石に、ここまで冷えついているとは思ってなかったんだけどな。丁度昨日、ヒカリが避難先を確保したもんだから……アイツの言葉を借りて――昼は皆でシケ込むとするよ」
俺は肩をすくめて笑って見せると、山岸も苦笑して、珍しく肩をすくめてみせた。
少なくとも理解者はいる。考え方は違えど、そのズレを合わせていくことくらいは、いつか出来るはずだ。
クラスメイトだって、いつか分かってくれる日は来るだろう。
ただ、それをわざわざ期待して待つほどの気持ちはない。
人間はどうしようもないものではないというのは、今の山岸を見ていれば特に良く分かることだ。
それでも変わることに必要な時間が、変わるということ自体が、誰もになっている共通していて、誰もに必要なわけでもない。
それでも目の前にいる山岸は、変わらず単純で真っ直ぐでも、無難な行動で空気を整えようとしていた学級委員長ではなく、空気を壊すことで整えようとする学級委員長に変わってくれた。
「俺たちのいない間に、演説なんてやめてくれよ?」
「どうせなら一回くらい、教壇を叩くのも良いと思うのだけれどな? しかしまぁ、きっと皆そのうちに元に戻るだろうさ。七十五日を越えるまでは、俺も我慢するとしよう」
人の噂もなんとやらと言う。
実際問題、ヒカリは気にしない素振りをしているし、稲穂も心穏やかではないだろうけれど、困り眉以外に雰囲気は変わらない。世利華に至っては何一つ気にしない様子で本のページを捲っている。
「ま、問題の片方がいなくなりゃ、空気も和らぐってもんだろ。俺たち側は、昨日の決着で満足している……はずだしな。お前はとりあえず沢里さんがまた何かされないか見といてくれたら助かる」
「あぁ、任された。特に、バケツには目を光らせるさ……」
俺の逆鱗に触れた発端の、バケツ。
あの時点で、俺たちと山岸は既に考えを違えていたから、共有が出来なかったことについては、双方ともに仕方ないにせよ。彼にはそれなりに思う所があるようだった。
「しかし葦名、良いのか? その傷を先生方に訴えれば、問題提起になると思うが……」
「いや、そこまではもう良い。俺も元々はそのつもりだったけど、稲穂の手前……な」
本来は俺も、あからさまに殴られたというアザを元に、教師に訴えてどうにかするつもりではあったけれど、それは中田たちを糾弾したかったわけではなく、単純にイジメをやめさせるためだ。
怒りは確かにあった。だからこそあんな手段に出たというのも大きい。
あのまま状況が進んでいだなら、結果として糾弾することにはなったのだろうけれど、実際問題として、俺の怒りは個人的な怒り、俺たちが本当に求めていたのは事態の解決だけだ。
だから、稲穂の説得で事が済んだのならば、逆にやり返す必要など、もう残ってはいない。
「それに、もう一度やるほど。アイツらも馬鹿じゃないさ。中田だって、あの時自分で言ってたろ? 私は馬鹿じゃない! ってよ」
「……それも、そうだな。気にしすぎるのも問題、だな!」
そう言って、山岸は改めて肩をすくめながら、固まっている男子生徒の中に混ざっていった。
「思考系だからだとかって、ああだこうだと決めつけるのも、違うのかもな……」
小さく呟き、ほんの少し弛緩したクラスの空気を感じつつ、俺はいつものように机に顔を半分、突っ伏しながら窓を眺めていた。
窓の幽霊と目が合う。
稲穂とは妙にガラス越しに目が合うものだなと思い、俺は小さく手を上げてから、その視線の優しさが変わらずにいてくれることに、少しだけ心を和ませていた。
チャイムが鳴る度に、空気が弛緩していく。
しかし、昨日の騒動の当人の誰かが動く度に、空気が緊張する。
そんな下らない乱高下が繰り返されていくのを、いい加減に鬱陶しいと思いはじめた頃、やっと昼休みのチャイムが鳴った。
ヒカリが一番に立ち上がり、クラスメイトの視線を浴びながら、一切それを相手にせずクラスを出ていく。
昨日は保健室で、自分からクラスにいるのがしんどいと言っていたくらいだ。
彼女の性格からして、何か言いたくても強くは言えない感覚が気持ち悪いのかもしれない。
稲穂と世利華も各々立ち上がって、教室を後にしようとしている。稲穂が一瞬こちらを見た事で、そういえば鍵を預かっていたのは俺だったことを思い出し、俺もゆっくりと立ち上がった。
しかし、俺が教室を出ようとした時、背中に声がかかる。
瞬間、一気にクラスが静まり返り、緊張が最高潮まで高まった気がした。
「おう、逃げんのか?」
中田の彼氏が挑発的な笑みでこちらを見ている。
「はぁ……イジメ役と、イジメられ役は交代制なのか?」
溜息をつきながら中田と取り巻きを見る。
しかし、奴らは各々の席で、クラスメイト側の立ち位置になっていた。
「あ? 何言ってんだ?」
中田の彼氏は、少し大きな声を出し、その声に遠くの席にいる中田が身を固くしている。
つまり、中田と取り巻きも、この状況に怯える側に変わっているようだ。
――なら、これは単純な私怨か。
「あぁ……逃げるよ。この傷を見りゃ分かるだろ? お前にゃ降参だ、降参」
俺自身が何か言われる分には問題ない。
それ以上に、またクラスに面倒ごとを増やすのが本意ではない。
それにしても、昨日の俺はしっかりと彼に負かされたという印象を与えられたと思っていたのだけれど、案外彼の中ではそういうことでもなかったらしい。
「チクったら分かってんな? それだけ忘れんなよ」
「……なんだ、そんなことかよ」
本当に言いたい事はこれなんだろうなと思い、笑ってしまった。
教室に入った時に彼が俺を睨んだことも、今かけてきている圧力や挑発も、結局は彼なりの怯えの表現だったのだと思うと、随分と意地っ張りなことをされたものだ。
しかし、俺と彼が相対したなら、視線は勝手に集まる。
目の前から睨みを効かせた視線が一つ、そうしてクラス中からの視線は、沢山。
だからこそ、俺は一歩、彼の前に足を強く踏み出す。
俺は彼の睨みを受け止め、圧力を圧力で押し返し、俺に集まった視線を全て、クラス中に通るような大きめの言葉で、握りつぶした。
「なぁ? お前は一体、何の話してんだよ? つーか、お前は誰だよ」
「……は?」
彼が素っ頓狂な顔をしているのを見て、滑稽だと思った。
だからこそ、俺の口角は勝手にあがる。
――こいつが、こいつらが聞きたい言葉を、言ってやればいいだけ。
「悪いけど俺。あんま関わったことないヤツの名前、覚えてないんだよなぁ。だから改めて名前、教えてもらっていいか? 話すのは……今日が初めて、だよな?」
声を張りつつも温度を和らげた俺の言葉に、彼は面食らったようで、気まずそうな顔をする。
「……田中だよ。そんくらい覚えとけ」
興味なんてなかったから忘れてしまいかけていた彼の苗字を思い出す。そういえば、こいつは合わせて中田中なんだった。ピッタリ組み合わさったまま、これからは人に迷惑をかけず、自分たちだけで幸せになってほしいものだ。
「そうか、俺は葦名だ。ということで、おつかれさん」
俺は握手を求めて、自分の手を差し出す。
「……舐めてんのか、よっ!」
やはり、彼は短気なのだなと思いながら、俺が差し出した手を殴りつけようとする。
――ただ、もう痛みを受けてやる必要は一つもない。
俺は彼の振り落とされる腕を、自分のもう片方の手で掴み、差し出した手で強引に拳を開かせる。
そうして、無理やり握手を成立させて、離れようとした彼の手を固く握りながら、俺は彼を俺の近くまで引き寄せて、耳元で小さく呟いた。
「舐めてんのはお前の方だよ。これからは……仲良くやろうな?」
俺は彼の肩を二度ほど、少し強めに叩いて、彼を解放する。
何か言おうとしている彼を無視して、俺は保健室の鍵をポケットで握って歩き出した。
再度向けられた悪意に対して、当事者の俺がこれだけ無関係を装ったんだ。
俺たちの握手を、クラスメイトたちは見ている。
昨日のことがなかったことにはならない。
それでも、今後ろでゴチャゴチャ言っている中田の彼氏を引き留めている、田中の彼女のように。
それを一緒になってたしなめている学級委員長のように、ほんのすこしでも、皆が変わっていってくれたならばいいな、と。
俺は保健室で待っている三人のことを想っていた。




