表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
百瀬ヒカリは正義を謳う  作者: けものさん
第四章『激情にて、正義が揺れる』
PR
20/25

第二十話『待ち望んだ成長さ』

 状況は、変わった。

 だけれど、事態は終わったわけではない。


 俺は立ち上がり、気まずそうにしている山岸の方に向かって、歩き出す。

 それを支えるわけではなかったのだろうけれど、隣にいた世利華も同時に、俺と一緒に立ち上がって歩き出していた。


 俺は山岸に、そうしてきっと世利華は沢里さんに要があるのだろう。

「悪いな山岸。とびっきりの暴動を起こしたのに、綺麗に解決されちまったよ」

「理解も、納得もするつもりはない。ただ……助かった。助けられた。水引くんにも――葦名、お前にもだ」

 深々と頭を下げる山岸に、俺は少し茶化しながら返事をする。

「お前――お前らみたいな良いヤツには理解も納得もいらねえよ。お前は知らないかもしれないけどな、俺はお前らと違って気の短くて、喧嘩っぱやいヤツなんだから。それなりのやり方をしただけさ」

「そんな言葉で納得するほど、俺が馬鹿だと思ってるとは、葦名も俺――俺らのことをよく知らないのだろうな」

 山岸は苦笑しながら、それでも真剣に俺の目を見る。

 そこには、もう狼狽も何もない。正しくあろうとする人間の目だと、そう思った。

 彼はきっと、正義を執行する人間ではないのだろう。正しくあろうとする、人間なのだ。


「なら山岸、次はお前みたいなヤツらの番だからな? 正しいことと間違ってることは同時に起きるかもしれないけどさ。俺にはその正しさみたいなもんが欠けてる。だから――俺は、お前らが羨ましい。言っちまえばそれだけだったんだろうな……だから、しばらく俺には構うなよ? 多少は煙たがれなきゃこの傷の甲斐がいよいよなくなる」

「それは同意しかねるな。空気を読めというなら、煙は上手く逃がすべきだ。そうだろ?」

 本当に厄介な事を言う。しかし、それほど悪い気もしなかった。


 隣にいたはずの世利華は、いつの間にヒカリと稲穂の所に戻っていた。

 沢里さんは少しだけ嬉しそうな顔をしていて、どうやら本当の意味で俺たちは解決に至ったらしい。

「世利華は、なんだって?」

「えっと……ただ、悪かったってそれだけ。『キミが満点を取った時にその努力は正しく合理に基づく』んだってさ。なんだか、分かんないや」

 きっとそれは、世利華なりの励ましだったのだろう。

「……満点か、アイツは本当に、アイツらしい」

 ただ何にせよ、沢里さんが笑っているなら、それで良いとも思った。

「……結局、何も悪くなかったはずなのにな」

「そう、だね。……私はさ。お母さんがギフト用投薬はしてくれてたみたいなんだよね。だけどほら、いくら投薬をしても、産まれた子の三割はギフトを持てないって言うじゃない? 私は産まれた時から失敗した三割だったんだと思うんだ。でも、だからこそ頑張ったのに。難しいね、ギフトって」

 沢里さんもまた、彼女の心に従って、俺とは似ているようで違う選択をして歩んだのだ。

 彼女から見れば、ギフトは欲しかったのに手に入らなかったもので。

 俺から見れば、アドはいらなかったのに手に無理やり持たされたもので。


 彼女は、だからこそ努力をして。

 俺は、だからこそ抵抗をした。


「誰が言い出したんだかな……『ギフト』だなんて」

 その言葉に沢里さんはくすっと笑う。

「でも、葦名くんは格好良かったよ? やっぱり、ギフトには憧れるなぁ……」

「……お互い、隣の芝は青いみたいだな」

 二人で軽口を叩いていると、ヒカリが大きな声で何かを言おうとするのを、世利華に押さえつけられていた。

 だけれど、ヒカリの腕力に世利華が敵うはずもなく、ヒカリはわざわざ大きい声で言わなくてもいいことを、もう俺たちしかいないクラスで嬉しそうな顔をして、恥ずかしげもなく口にした。

「葦名くん! 世利ちゃんがね! 『ありがとう』だって!」

 真っ赤な顔をしている世利華を見て、稲穂が微笑む風景、それを見てホッとした表情の山岸と沢里さん。


 そうして、クラスの悪意は、それぞれの正義によって、そうしてそれぞれの謝罪と感謝によって、終わった。

 きっと、誰も本当の意味では納得出来ないまま。

 それでも、終わりが来たと、理解することは出来たはずだ。


「少しは素直になったようで、何よりだよ」


 だから、俺もまた、やっと素直に笑えたような気がする。



――しかし、俺が受けた傷は、そのまま帰宅して終わるというものではなかった。


 怪我は怪我。その後、俺はしっかりと保健室に連れて行かれ、治療を受けるハメになる。

「随分と絵に描いたような怪我ねぇ……喧嘩でもしたの? えーっと……」

「葦名です。まぁ、転んだって言っても、嘘になりますよね」

 保健室の先生に根掘り葉掘り聞かれたが、稲穂とヒカリ、世利華まで着いてきたのを見て、美人で有名な保健室の先生は、それで勤務しても許されるのだろうかと思わんばかりの綺麗な金色の髪を揺らしながら、楽しそうに笑っていた。

「これはー……ヒカリちゃんと修羅場かしら?」

希有(ノア)せんせ?! 何言ってんの?! 」

 どうやらヒカリと先生は顔見知りのようだ。

 稲穂と世利華とは初対面だったようで、ノアという名前でもなんとなく不思議に思っていたけれど、どうやら名前を聞く限り、外国の血が混じっているらしい。

 ノア先生は稲穂と世利華に対して、随分とラフな自己紹介をしたあと、微笑ましそうにこちらを見る。

「まぁ、これだけ女の子に心配されてるんだったら、このくらいの傷、なーんてことないわよね? 葦名くん?」

 妙に言葉圧――というより癖が強い。

 ただ、最近こんな感じの、癖が強い年上の女性を何処かのBARで見たような気がしないでもない。

 とにかく、どうしてか俺の周りにいる人間は癖が強い。


「あぁっと……まぁ、大丈夫です、はい。というか鼻、折れてなかったんですね……折らせた気がしてたんだけどな……」

 殴られた時は確かに折れたような気がしていた鼻も、どうやら俺の錯覚だったらしい。

 つまり、実質俺は鼻血を撒き散らして、左目と首筋に軽いアザをつけただけの滑稽な男だ。

「あーんまり、心配させちゃ可哀想よ? 何を狙って鼻を折りたかったのかは、聞かないけどね?」

「葦名くんは……狙うというより狙われる側だよね?」

 稲穂が少しイタズラな笑みを浮かべて、話に混じる。


 実際、ある意味で俺を狙っているであろうヒカリが「えへへ」と照れているが、全く照れるようなことではない。

 逆にスカウトを思い出させてしまったかもしれないと思い、軽く稲穂に視線をやって肩をすくめると、彼女はペロっと舌を出す。

「狙われる側なの~? 同類見つけちゃったなー。私も男の人に追いかけられてばっかりでね? 聞いてくれる?」

 美人だからそりゃあ、追いかけられることはあるだろうけれど、なんというか先生の場合、自業自得な気もする。とりあえず、聞きたくはない。


 ヒカリに何とかしてくれと目配せすると、彼女は嬉しそうに先生に同調する。

「ノアせんせ、私でよければいつでも聞いちゃうよー?」

 お前が良ければいつでも聞いてあげて欲しいと思いながら、俺は遠い目をして、窓の外を見る。

 窓越しに、いつかの幽霊の微笑んだ横顔が見えて、目が合わないことに、少しだけホッとした。


「んでさー、その代わりと言っちゃなんだけど、お昼とかにシケ込める場所とかってないかな? 部活……とまではいかないんだけど。私たちってギフトのせいで色々と、ねぇ……」

 シケ込めるとは何事かと思いつつ稲穂を見ると、彼女もコクコクと頷いていた。


――ギフトのせいで、色々、か。

 言っていることは間違っちゃいない。

 だけれど、難しそうにノア先生は首を捻る。


「うーん、この学校はギフト持ちの子も多いし、貴方たちだけを特別扱いってわけにも……」

 先生が言っていることは尤もだ。ヒカリの気持ちは分からないでもないけれど、俺たちが特別扱いされるというのもおかしな話。

 ただ、先生は俺の顔をじっと見てから、何とも言えなさそうな顔をして、小さく頷いた。

「ま、いいか。ギフトの辛さは私も分かるし、ね? 葦名くん?」

「えぇ……俺ですか? 俺に話を振られても……」

 軽く誤魔化しはしたが、先生の意味深な笑顔を見るあたり、何も誤魔化しにはなっていないのだろうと思った。


 先生は俺の鼻柱をパチンと指先で弾く。やっぱり折れてはいないのだろうけれど、ここまでされると少し痛い。

「そ、キミだよ。稲穂ちゃんも世利華ちゃんも、さっき見た感じだと腫れてはいるけれど、アザになるほどではなさそう、かな? だけれど、次は守ってあげるのよ?」

 俺は、保健室に連れ込まれてすぐ、驚く先生を尻目にまず二人の治療を優先してもらっていた。

 俺は受けるべくして痛みを受けたが、二人は実際の痛みを受けるべき人間ではなかったはずだ。

 

 俺の治療を優先する周りを説得して、先に二人を見てもらった。

 だからこそ、先生も何かしらの意図を察したのかもしれない。

 

――次があるとしたら、その時の俺はどうするのだろうと考える。


「皆で、転んじゃっただけ、なのよね? それで、葦名くんはより盛大に転んだだけ。そういうことよね?」

 先生が、俺の通用しない誤魔化しを汲み取って、茶化しながら笑う。

「だったら、次はもっと上手に受け身を取らないと。鼻だけをぶつけても、良かったんじゃないかしら?」

 やっぱり、見抜かれているのは当然だろう。

「受け身……ですか」

「だって、私なら鼻から転ぶと思うわよ? それで狙いは済むじゃない?」

 それを聞いて、先生が保険医になった理由、なれた理由を、何となく察した。

 俺は表情をなるべく崩さないように努力しつつ、頭に浮かぶ思考を流そうと努力する。


 俺だけが酷く傷ついて見える理由を、先生は正しく『察知』しているのだ。

 アザとなって痛み続ける目元が視界を揺らす度に、思考もまた揺さぶられている。

「どう、でしょうかね。結果なんてのは、転ぶまで分からないもんですから」

「ふふ、まぁ保険はかけるべき、なのかもね?」


――次があるとしたら、その時の俺は、何が出来るのだろう。


 先生が言った通り、偶然の言葉の一致ではあったにせよ。俺がさっきやっていた事は、自分から煽り立てた上での、徹底的な受け身で、保険だ。

 それも、自分が傷を負う事で成立するという保険。

 痛みを減らす受け身とは、全く逆の意味での、受け身。


 あの時、俺が誰の事も殴らなかったからこそ、俺は今、自分のアドの存在を許せているのだと思う。

「葦名くんのこと、私まだなんにも知らなかったんだなって、思うんだ。だから今度はちゃんと受け身とってよ? お願いだかんね、じゃないと私が一本決めちゃうからね? 相手――じゃなくて床に!」

 ヒカリが少しだけ真剣な顔をして、俺の鼻先でピンと指を弾く。

 先生がやったそれとは違い、実際には当たらなかったが、鼻にかかった風圧が、彼女が使わずにいてくれた力の強さ表していた。

「ヒカリちゃん? 貴方は逆に上手な攻め方を覚えた方がいいかもね? そんなんじゃ葦名くんに逃げられちゃうわよ? ねえ?」

 どうしたって、いくらノア先生が若く見えても、先生から見れば俺たちはまだ子供だ。

 しかも、常に一枚上手にいる。だからこそヒカリがたじろいでいるが、俺は苦笑した。

「いや、どうあれ逃げますけどね、俺は」

「んー? それは逃げた子の傷じゃないわよ?」

 その言葉に、俺もまた何も言えなくなる。

 

「まぁ、いいや! キミたちはまだ若い! でも平気かしら、三人で葦名クンを取り合うんじゃギスギスしない?」

「ん? うん。ギスギスしないよ! ね?」

 ヒカリの言葉に溜息をつく俺、そうしてゆっくりと首を傾げる稲穂。圧倒的に噛み合っていない会話に、世利華までが苦笑していた。

「クラスにいたほうが、しんどいし!」

 そうして彼女は、明るい口調で、現実に落とす。

 つまりは、明日以降のことを、彼女も彼女なりに整理しているのだろう。


「まぁ……これだけ派手に転んだなら目立つわよねぇ。葦名くんの今後に期待ということで、保険準備室、使っていいわよ?」

「結局葦名くんじゃん。なんだろ、なんだろ?! みんな葦名くん贔屓しすぎじゃない?」

 ヒカリが文句を言って、そうして周りが苦笑する絵に、俺もいよいよ慣れて、混ざりはじめてしまっていた。


「まぁまぁ……追われるような男の子が好きなのよ、私もね! 準備室は半分倉庫だけど、冷蔵庫もあるし、暇だから私も混ざっちゃおうかな!」

 パチンと俺に投げられたウィンクを交わして、俺は保健室の奥にある扉を見る。

 ヒカリたち三人が改めて彼女たち同士で殴られた場所を確認していたので、俺は目を逸らしながら、妙に近いノア先生から距離を取る。


「あぁ……隣の部屋。廊下からも入れるヤツですね」

 気まずさ回避で続けた会話でも、案外先生は乗り気のようだった。

「普段は締め切ってるけど、綺麗よ? ……多分ね。はい、スペアキーは葦名くんに預けとくわね? ヒカリちゃんは失くしそうで怖いし」

 先生の視線を追うと、稲穂と世利鼻の背中越しに、こちらを見て首を振っているヒカリが見える。

 彼女にもそういう自覚はあるのだなと思っている間に、俺は手に鍵を握らされてしまった。

「というか、そもそも三人で使えばいいんじゃ……」

 俺は今後もクラスで気まずさを覚えるつもりはない。

 そもそも、俺はずっと一人でボウっと過ごしていたのだから、煙たがられたところで変わりがないのだ。


「うーん……そこは分かってても察してあげなさい? それに君、自分のギフトのこと嫌いでしょう?」

「……持ってるなんて話、しました?」

 俺がアドを持っているということまでは気づかれていているだろうと思ってはいたけれど、まさかアド嫌いまで見抜かれているとは思わなかった。

 先生は間違いなく察知系のアドを持っている。

 それに、俺たちのような年頃を乗り越えて、成熟にまで至った察知系のアドの持ち主を俺はそこまで多く知らない。

 俺の父が、好めない一例だっただけで、稲穂も然り、先生も然り、実際には良い一面として花咲くこともあるのだろう。父も、昔はそうだったのかもしれない。

「その顔は、ふふ。感心と……驚愕? びっくりしてる理由は聞かない方がいいわね? でも、君がギフトを嫌いなのは、私のギフト――アドで察知したせいじゃないわよ?」

「あぁ……なるほど」

 俺の口癖を、聞いただけで分かるほど俺は自分のアドを嫌っていたんだなと気付く。


「自分の力が嫌いな子は君が思うほど少なくはないし、それは言葉にも滲むの。ただ、自分のギフトと向き合うのは大変な事だし、ね? まぁ頑張ってみなさいな! あの子たちもきっと、そうなんだろうし」

「そう、ですね……すみません。次はちゃんと、受け身を取ってみます」

 頼れる大人もいるのだと、少しだけ安心する。

 俺の家族のことを思えば、こういう人とももっと早く出会いたかったなんて、思ったりもした。

「あら……葦名くんも意外とセンチな年頃? 悩みがあるならいつでも頼っていいのよ?」

「それは遠慮しておきます」

 これを、温度調整とでも人は呼ぶのかもしれない。

 意図的に手のひらの上で踊らされている気がするのは、やはり先生が察知系のアドを持っているからなのだろう。稲穂もそのうちこうなるのかと思うと――ならないで欲しい、本当に。

「ま、実際のところ。無茶もほどほどにね? 私はキミがギフトをアドって呼んじゃう理由までは分かってあげられないけど、嫌ったからこそ出来るようになることも、きっとあるわよ? それが、君の本当のアドバンテージなのかもね?」

 先生に背中をポンと叩かれて、俺は優しい喧騒の中に押し込まれる。


 本当のアドバンテージ、俺が自身の力を嫌ったからこそ得られるものは、なんだろう。

 そんな事を考えながら、俺は貰った鍵を少しだけ、強く握る。


「じゃ、明日から勝手に来るねー!」

「勝手にどうぞー!」


 ヒカリとノア先生の軽口の言い合いを聞きながら、俺たちは先生にお礼を言って、とりあえず明日の昼は保険準備室に皆で集まる事を約束した。


 そうして、稲穂と別れ、世利華とも途中で別れ、昨日と同じくヒカリと一緒に、何気ないことを放しながら歩く。

 そのうちに、ヒカリの家の前に着き、彼女から当たり前のような「また明日!」を聞いて、俺が自宅に着く頃には、もう外はそれなりに薄暗くなっていた。


「……さて、どうしたもんかな」

 俺はしっかりと変色していた目のアザを擦ってから、自宅のドアを開く。

 黙って入ってもどうせバレるだろうと思いながら、いつも通り、誰も届かない「ただいま」を玄関に響かせる。


 誰の返事を待つこともなく、俺はそのまま自室に戻ろうとするが、珍しく母と鉢合わせてしまった。

「……ついてないな」

「親の顔を見て、開口一番に言う言葉じゃあないよ。しかし、うちの息子もヤンチャするようになったみたいだね?」

 母は、俺の顔を見て驚く素振りもなく、むしろ楽しげに、関心ありげに見つめてくる。

 その表情からは、心配など少しも読み取れない。

「ヤンチャ……ね。俺がヤンチャされた方だとは思わないのか? まず、母親として」

「そんなこと、思うわけがないだろう? キミはいざという時にはどうとでもやる子だろうからね。返り討ちにしたかい? それとも受けきってそれかい? だったらまだ鍛錬が足りてないね?」

 奇妙な信頼が、気持ち悪かった。それに、やったことを予想されているのも、悔しい。


「好きでこんな風に生まれたわけじゃないからな。それで、今日は何を答えれば良い?」

「いいや、その顔を見ただけで今日は十分だ。これで、私の子育ても少しは報われる」

 母の表情は、心底楽しそうに見えた。その笑顔が微笑んでいるようには見えなかったけれど、それでもあまりみたことのない顔だったことは、確かだった。


「そうかい……俺もアンタの実験動物でいるのに、飽きてきた所だよ」

 歪なまま固定され続けて、固まってしまった関係は、もう一度歪もうとした所で、綺麗には戻らない。

 楽しそうな笑みを見ても、いつもと違う反応を見ても、それでも俺は、母を好きにはなれない。

「キミが実験動物? まるで私が人でなしのような言い草だ。親を親とも思わないのはキミの勝手だけれどもね。私は単純に嬉しいんだよ。キミがとうとう、自ら選んだのだから」

「……ただ、選択をしない選択をしなかった。それだけだろ」

「やっと逃げ場がないことに気付いたのだろう? それだけでも、待ち望んだ成長さ」

 くだらない会話、意味のない会話。だけれど、毎日のように続けられる会話。

 それが、母なりの何かなのだとしたら、そう少しだけ考えて、俺は首を横に振って、自室に戻った。


――母なりの、父なりの何かだとしても、その意味を俺はまだ理解も、納得も出来ない。

 

 ただ、それでも選んだという言葉だけは、静かに胸に残っていた。

「……逃げ場は、確かになかったよ」

 小さく呟き、俺は気を紛らわすようにスマートフォンへ手を伸ばす。


 ヒカリ『また明日、家の前で!』


 そんな個人通知に、俺は小さく笑う。

 なんて返してやろうかと考えているうちに、いつのまにか母の言葉が少しだけ軽くなってことに気づいて、そんな少しだけ単純な自分に気付いた俺は、もう一度、今度は軽く声を出して、笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ