第十九話『ありがと、二度とやらないでね』
ヒカリの怒りに満ちた声に、俺の深呼吸は溜息へと変わる。
「いい加減に、しようよ」
俺がほんの少しの休憩から目を開くと、ヒカリは中田の彼氏の手を、腕ごと床へと押し付け、強く掴んでいた。
ギリリという音が聞こえそうなほどの圧力が目にも映る。
中田の彼氏は、抵抗すら出来ていない。
――明らかに、ヒカリは力の加減を間違えている。
だからこそ彼は、悔しそうに唸り声をあげていた。
だからこそ俺は、ヒカリに怒鳴り声をあげていた
「お前は手加減出来ねえだろ!」
俺はヒカリの腕を掴み、中田の彼氏の腕を解放させる。
「……ッ!!」
手加減出来ていなかったのは俺も同じだったようで、ヒカリが一瞬痛みに顔を歪める。
それを見て、俺は彼女の腕をそっと放し、言葉を小さくこぼした。
「俺らが、アイツらの心以外を傷つけちまったら、負けだろうよ」
それでも、彼女は言葉の熱を緩めない。
俺が痛んだように、彼女だって痛んでいるのは、分かっていた。
「だからってこんなの、許せるわけないじゃん! 葦名くんが一番馬鹿だよ! それで誰が喜ぶのさ!」
ヒカリは涙混じりに訴えている。確かにこんなことをしても、誰も喜ぶはずがない。
だけれど、だとしてもこの問題は、これで終わる。
確かに、実際に俺が傷を負ったのだから、痛む人間が変わっただけかもしれない。
――それでももう、誰かが痛み続けることはなくなる。
この生傷たちが、イジメの証明になる。
誰かが何かを言わずとも、自然と教師たちの目には俺のこの状態自体が問題に見えるはずだ。
だけれど、それでいい。それだけでいい。もう、誰も何も言わなくていい。
ただ、俺が傷付けば傷付くほど、誰も何も言えなくなる。
それは、中田たちも同じこと。何も言えないほどに、俺を痛めつけたらいい。
後悔で戻れるような場所は、もうとっくに過ぎている。
「お前は、良い子でいなきゃ、駄目だろ。だから、な? こいつの相手は俺がやるんだよ」
俺は、腕を抑えながらも未だに怒りにその目を燃やしている中田の彼氏に、哀れみの視線を送る。
ヒカリは下を向き、小さく震えていた。
「痛ってえなぁ……茶々入れてんじゃ、ねえ!」
いい加減鬱陶しくなってきた痛みを、もう少し受け入れる覚悟を決めて、俺は彼の拳を受けようとする。
だけれど、殴る相手すら選ばないとは、考えなかった。
彼の拳が向かったのは、俺ではなく、下を向いていたヒカリ。
――それをされたら、俺が手加減出来なくなる。
俺は必死に身体を動かし、ヒカリと拳の間に入り込もうとするが、それを思い切り突き飛ばされる。
突き飛ばした人が誰かも分からないまま、視界に入った窓に、その人物のシルエットが映る。
それは、いつか手を触り合った窓の幽霊。
彼女が、少しだけ宙に浮く瞬間が、窓に映っていた。
「ケホッ……ゴホッ……」
強く咳き込む彼女は腹部に拳を受けたらしく、机に手をついて辛そうな顔をしていた。
中田の彼氏も、何が起こったのか全く分からないような表情で、突然の介入者を見ている。
殴られたのは、俺でもヒカリでもない。
「……なんで、なんで? 稲穂ちゃん!」
ヒカリは涙を流しながら、稲穂を抱きしめた。
どうやら、血は流れていない。拳が稲穂に当たったのは見えた。それでも稲穂がヒカリとの間に入ったことが幸いしたのか、当たりどころとしては最悪を免れたようにも見える。
だけれど、俺の拳は、今すぐにでも自分の爪で手のひらから、そうしてその拳で誰かから、血が流れてしまいそうになるほど、握りしめられていた。
ただ、その怒りをおさめようとするように、稲穂が口を開く。
「だ……って……さ……!」
彼女は未だに辛そうな咳をしながら、ヒカリの手を握って、必死に声を張る。
怒りに身を任せ続けていた中田の彼氏も、無関係に見えていた稲穂を殴ってしまったことで、少しだけ我を取り戻したのだろう。
稲穂は、ヒカリの抱擁からそっと離れて、黙り込んでいる中田の彼氏へと、少しずつ近づいていく。
「こんなの、悲しいから。駄目、だよ」
稲穂は、震える手で拳を作り、そっと中田の彼氏の顔に向かって、優しく触れるようにその手を置いた。
そうして、それを見て呆然と立ち尽くしていた俺の胸に向かって、細く流れる涙を拭いながら、一発、拳を当てた。
「これでみんな、痛い、よね? もう、いいよね?」
――クラスのざわめきが、止む。
このクラスの中で、一番苦しんでいたのは、誰だっただろうか。
自尊心を踏みにじられた中田だろうか。
彼女を馬鹿にされ激昂した中田の彼氏だろうか。
イジメに立ち向かおうとして頬をぶたれた世利華だろうか。
自分の正義を押し通せずに黙り込んだ山岸だろうか。
俺を守ろうとして、叫んだヒカリだろうか。
痛みを背負うことで、悪いヤツになることで、解決を望んだ俺だろうか。
この状況を無理矢理見せられたクラスメイトたちだろうか。
きっと、もう皆、痛んだ。
――だけれど、その痛みを全て引き受けてしまった人間が、一人だけいる。
俺の拳に爪が突き刺さり、血が滴る。ただ、その拳はどこへも振るわれることはない。
俺と同じように、気付いてしまったヒカリの、泣きじゃくる声が聞こえる。
稲穂は、もう一度、自身の涙をグッと拭い、誰もに伝える。
宣言を伝え、終止符を打つ。
「だから! もうこのお話は! これでおしまい!」
彼女のその声は、もう震えていなかった。
強く、クラスの静寂を壊す。
「みんなが傷ついたことを、私のギフトは知っているから。もう、やめよう?」
その言葉に引きずられて、クラスに蔓延していた気持ち悪さが、少しずつ。沈んでいく。
「水引さんって、察知系だったんだな」
「彼女がそう言うなら、そうなんじゃない?」
俺は、自分のアドを隠し続けることで、解決しようとした。
だけれど稲穂は、自分のギフトを叫ぶことで、解決しようとしている。
稲穂は、未だにしゃがみこんで泣いている中田の所に歩いていって、彼女を見下ろす。
「中田さん? こっち向いて?」
その優しい声に中田が顔を上げた瞬間、バチンという音が聞こえる。
「これは、これだけは、お返し。私の友達に、二度とあんなことしないで。ちゃんと、謝って」
「……ご、めんなさい……」
稲穂から滲む、小さくも確実に存在している静かな圧に、誰もが息を飲んでいた。
ただただ、今の稲穂は、この場の空気を完全に、飲み込んでいる。
もはやそれは掌握と呼び替えたいほどだった。
誰も目を奪われていた。呆然と、するしかなかった。
「世利華ちゃん……?」
「……なんだ」
世利華すら、少し怯えた顔で、稲穂を見ている。
「世利華ちゃんだって、言い過ぎ、だよ? 中田さんが悪いのは勿論そうだけど、世利華ちゃんも、言わなきゃいけないこと、あるよね?」
「この状況で言うべき言葉は、流石に分かってはいるが。私も……そうだな、葦名と同じように、納得はしていないぞ? いいのか?」
その言葉に、稲穂は軽く吹き出して、もう一度目尻を拭い、笑った。
「うん、それでも多分、いいんじゃない?」
「あぁ、なら言うには問題はない。中田、気を悪くさせて悪かったな」
――これが、俺では思いつきもしなかった、正しい解決だった。
クラス中から、悪意が完全に抜ける。事態は、謝罪と共に収束へと向かっていた。
中田は憔悴しながらも、世利華の言葉に小さく頷く。
俺の目の前にいた彼氏は居心地が悪そうに俺を睨んでいたが、俺が肩をすくめると、舌打ちをして中田の方に戻っていった。
そうして、やっと泣き止んだヒカリの目配せで、クラスの閉じ込め状態は終わり。
クラスメイトたちは各々、言葉を零しながら帰途についていく。
中田たちも、場所を移したようだ。
だから、残ったのは、この件について何かをしようとしていた人間たちだけ。
「結局、殴られ損だったかぁ……」
一人で毒吐く俺に、ヒカリが涙を拭きながら、近づいてくる。
「あじなぐん、なんであんなごと、じだの」
「理屈じゃ通らん程度に痛めつけてもらえりゃ、教師に話も通るだろ。それで強制シャットダウン。思考系アドだろうが、何のアドだろうが、結局は見ていられないレベルの実害を受けちまえば、こっちのもんだと思ったんだよ。俺に出来そうだったのは、そんだけ」
ヒカリは、稲穂からもらったティッシュペーパーで勢いよく鼻をかみ、制服の裾で涙を拭った。
「……それ以外、なかった? 私に自己犠牲するなって、言ってたよね?」
「俺は馬鹿だからなぁ、見つからんかった。それにお前は良いヤツだろ? 良いヤツは自己犠牲なんてするもんじゃない。俺みたいな……まぁ、なんかよくわかんないヤツがやるくらいで丁度いいんだよ。どうせ、どいつもこいつもすぐに忘れてる」
ヒカリが何か言おうとするのを遮って、稲穂が首を振って俺の目を見て、俺の胸を軽く叩く。
「それでも、私は――私たちは、忘れないんだよ」
稲穂の言葉は、殴られるよりも、痛い。
「でも、葦名くんがあれだけやったから、空気が完全に壊れたのも確かだったの。それでもね、私は納得してあげない。でもありがと、二度とやらないでね」
手渡されたティッシュで、ヒカリとは違い、俺は鼻血を拭く。
稲穂の言葉は、蹴られるよりも、ずっと痛い。
沢里さんと山岸は、黙って教室の机を元の位置に戻していた。
鼻血を拭きながら、それを見ていると、世利華が声をかけてくる。
「やりたいことは分かっていた。しかし、葦名がやらずともよかったんだぞ?」
「何言ってんだよ。中庭でお前がビビってたの見てたんだからな? だからお前が最初にやりだした時は、肝が冷えたよ」
世利華だけが、きっと早々に俺の意図を読んでいたのだろう。
だからこそ、先回りされてしまった。
実際、中田の彼氏はヒカリにすら手を出そうとしていたのだから、状況が状況ならば、世利華が傷つくこともあっただろう。それを阻止出来たという意味でなら、この痛みも、俺としては悪くない。
ただそれは、ヒカリや稲穂の心を傷つけることになった。
だから俺の自己満足に過ぎないということも、分かっている。
「結局私は、何にも出来なかった。私だって葦名くんのやったことには納得出来ないけど、結局、葦名くんがヒーローみたいじゃん」
まだそんなことを言っているヒカリが、俺にはやはり少し、眩しく見えた。
「お前は、動いたじゃねえか。お陰で俺は、一発殴られないで済んだ。それに今回お前は、失敗してねえよ。それだけ、いいだろ?」
彼女は俺を想って、動いてくれたのだ。だからやっぱりヒーローは俺じゃない。
「それに、やっぱりヒーローは、お前らだよ。始めたヒカリと、終わらせた稲穂だ」
その言葉に、稲穂の目が驚きで見開く。だけれど、静かに首を横に振った
「私は……そんなんじゃないよ。ただ、葦名くんが完全に壊した空気の中で、息ができる場所を見つけられただけ。皆が頑張って、皆が傷ついたから、見えたこと。だから、きっと皆がヒーロー……だったんじゃないかな」
稲穂は、山岸と沢里さんの方をぼんやりと見つめていた。
二人はこちらを少し見てから、気まずそうにして、だけれど少しだけ安心した顔で、何かを話しているようだった。
「これから、どうなるんだろうな」
「わかんない。でも、何も出来なくなるんじゃないかな。というか、もう、させる気はないよ」
ヒカリが少し語気を強めにして言い切る。
彼女の中では、やはり彼女自身が何も出来なかったように思えているのだろう。
ただ実際は、誰もが誰もの役目を果たしていたという、稲穂の言葉の意味が、本当に正しい。
「それで、世利華ちゃんは、どうして私たちがこんなことをしたのか、分かった?」
稲穂が、そっと世利華に問いかける。
世利華は少しだけ考えてから、自信なさげに、口を開いた。
「私を憐れんだ――違うな。私を、救おうとした――のは結果だ」
それを聞いて、ヒカリは世利華の肩をポンと軽く叩いた。
「ヒントは多分、私をーじゃなくて、私がーだよ? 世利ちゃんが、私たちにとって」
「私が……? 私が何だ? 私が何だった? 間違っていたから? 不合理だったか?」
「いいや、不合理なのは俺たちだっただろうな」
俺が口を挟むと、稲穂がクスっと笑う。
「それもそだね」
この問題に最初に向き合い始めたのは、他でもないヒカリだ。
だから俺は彼女がヒーローだと、思った。
答え合わせも、そんな彼女の口からが聞くのが、一番いい。
「私が、世利ちゃんの友達だから、それだけだよ」
「友達? 私がか?」
やはり、ヒカリのような誰でも友達タイプは、分からない人には分からない。
俺も分からなかったのだから、世利華が特別というわけでもない。
そこは彼女も、安心していいだろう。
「まぁ、こいつに言わせりゃそれだけで十分なんだよ。友達ってのは、合理じゃ動かねえもんだ」
「そう……か。つまり、私を想って、不合理を選択したのか」
恥ずかしいことを言うものだとは思ったけれど、結局のところ、それが俺たちの動機としては一番おさまりがいい。
厳密にはクラスの空気の問題だったかもしれないが、俺個人としては、中庭から戻ってからは世利華を中心にものを考えていた節があるから、もはや何も言えない。
「人間ってのは、そういうもんだ。見返りも何も求めずに、何かしたがる馬鹿がいるんだよ」
「あぁ……それは、本当に良い馬鹿も、いたものだ」
そう呟いた世利華は、少しだけ紅潮した顔をしていて、まるで普通の女の子のようで。
嬉しそうに笑っていることが、特別かのように思えてしまうほど、いい笑顔に思えた。




