第十六話『謝らせてなんかやらねえよ』
中庭での一件の後、一人で教室に戻った俺を、何人かの生徒が不安気な目で見つめている。
そんな有象無象の目を、俺は気にもとめずに、自席に座る。
ただ、一番不安気な目をした接触者だけは、別だ。
「ご、ごめんね。葦名……くん? 彼氏とふざけてたらつい、さ」
「……何の話だ?」
流石に、俺が水をかぶるという事までは想定していなかったのだろう。
中田は下らない誤魔化しを挟みながら、今更になって、体裁を守る為に俺にすり寄ってくる。
それをクラスメイトたちは各々、複雑な表情で見ていた。
――正直、反吐が出る。
、ヒカリたちが教室に戻ってくるのが見えたのと同時に、中田は明らかな作り笑顔で、周りにも見えるような仕草をしながら、俺に一万円札を手渡そうとしてきた。
「いやぁ……お水、かかっちゃったよね? これ、クリーニング代……!」
他の言葉は何を言っているのか聞き取れないくらいなのに、彼女は『クリーニング代』の声だけを大きく強調していて、喧しい。
「必要ないな。俺に謝ることなんて、一つもないよ」
静まり返った教室は、悪意のない悪意という静寂を保っていた。
俺と中田の言葉だけが、クラスに響く。
俺の言葉の表層をなぞった中田が少しだけホッとしているように見えて、俺は机の下で拳を握る。
ヒカリが思わずこちらに近寄ってくるのを、稲穂が引き止めているのが見えた。
「……そう? 全然良いんだよ? 私が悪かったんだし……」
よくもまぁ、今朝のアレをやっておいて、さっきのアレをやっておいて、こんなことが言えるものだと、感心すらする。だからこそ、俺はそっと首を横に振る。
「謝られる必要なんかないさ。あの水は俺が勝手に被ったんだ。だから、謝るなよ――というより」
俺はスーッと、息を吸う。
声を張り上げる必要なんてない。
クラスメイトたちは、このことを対岸の火事だと思っている。
なら、対岸で燃えている火に、少しだけ息を吹き込めばいい。
――その火事を、黙って見てはいられないくらいに、してやればいい。
彼女は決して、俺の為に謝っているわけではない。
自分の立場や、自分の満足のために、謝っているにすぎない。
「謝らせてなんかやらねえよ」
この話の火蓋を落とすのが俺になるだなんて、想像すらしていなかった。
だけれど、これで明確に平穏は終わりだ。
俺は、この発言の責任を取ることになるだろう。
――これは、放課後の前の、前哨戦だ。
クラスメイトたちがざわめくのが聞こえた。山岸がこちらに向かって来るのが見える。
だけれど、それでも、これが問題になるのだとしても、俺は言葉を止めなかった。
「中田よ。お前さ、謝る相手を間違えちゃいねえかな。謝るってんなら、こう言ってほしい。"水をかける相手を間違えてすみません"ってな」
「……は? 何……それ、何が言いたいの……?」
「だからよ、謝る相手と、内容が違うだろって言ってんだよ。世利華に向かって、当たったら死んでもおかしくなかったような距離から、水が詰まったバケツを落として、本当にごめんなさいって言うなら。それだったら俺は、適当に愛想笑いせずに、ちゃんと答えてやるよ。"許さない"ってな」
「……ッ! 葦名!」
山岸が焦ったように近づいてきて俺の机を叩く。口を挟まれてももう遅い。
バケツを落とすのを防げなかった時点で、彼のやり方では、間に合わなかったのだ。
クラスメイトから、各々の感情が漏れ出る。
未だに茶化している者、明らかに目を背けている者。そうして、状況の悪化を増長させる者。
「ねぇ、アンタ何言ってんの? 中田ちゃんがここまでいってんだよ? あれは事故だって言ってんじゃん?」
俺の発言を聞いた中田の取り巻きが、中田がまだギリギリこちらに譲歩している態度を取っているというのに、勝手な感情で状況を悪化させにくる。
フォローをしていると思っているのなら、随分と残念なフォローだと軽く笑った。
「事故だぁ? それは聞いてないな。なぁ中田、お前が窓を開けて水入ったバケツを人めがけて落としたのって、事故だったのか?」
「それは……」
気まずそうに中田は目を背け、取り巻きも静かになる。
この、中田の取り巻きはアドを持っているのだろうか。
察知にも、思考にも長けていないなと、それだけの事を思った。
もしそうならば、沢里も同じだっただろうに、努力をしただけの沢里に対して、こいつがのうのうと加害者側に立って、どうして沢里が被害者側にならなければならないのだろうか。
そうしてターゲットが世利華に移った今でさえ、こいつらはこんな態度を取る。
クラスの端から「やめさせなよ」という声が聞こえるが、誰も動く様子はない。
言うのは簡単なこと、だけれど自分がやめさせる立場には、誰もなろうとしない。
俺だって、そうだったからよく分かる。
だけれど、そんな俺が、結局誰もやめさせられない所まで状況を上げてしまった。
それは、こうなるまで誰もやめさせようとしなかった、クラスメイト全員の責任でもある。
だからそれを、クラスメイトたちにも理解してもらわなければいけない。
俺なんかが、矢面に立たなければならないほどのいびつさを、ここまで放置し続けたクラスメイト全員にも、巻き添えになって貰う。
「葦名、それ以上は良くな……」
「悪い、部外者は黙っててくれるか?」
俺は山岸を静かに睨みつける。既に、クラスの平穏というものを気にする段階は越えた。
ここから先は、なるようにしか、ならない。
「葦名くんさぁ……私もちゃんと謝ってるんだけど、それ、あんまりじゃない? だからあれは間違えたって……」
「そ、そうだよ……! それに中田ちゃんがやったんじゃなくて、やったのはアイツでしょ? 中田ちゃんが謝ることなんてないよ!」
取り巻きが、中田の彼氏を見る。急に話を振られて中田の彼氏が目を見開く。
「い、いや……アイツが悪いわけじゃ……」
中田のような下衆でも、彼氏のことは大事らしい。
その思いやりがあれば、こんなことにはならなかった。
こんなことには、しなかったのに。
ただ、中庭でのアレを考えたヤツは、中田ではないだろうとも思っていた。
この三階の教室から、水の入ったバケツを落とすなんて、俺が中田を糾弾したように、人を殺しかねない。
実際、そんな当たり前を中田のような思考系の人間が思いつかないわけもないのだ。
であれば、中田の彼氏が思いついたというのも、あながち嘘ではないのだろう。
そうであっても、それを止めなかったのも中田だ。
推論でしかないけれど、自分の手でなければ構わなかったなんて、そんな打算が見えないこともない。
「……とにかく、間違いだったのよ! あれはただの間違い!」
「なぁ、お前は思考系のアドなんだろ? 言葉が、少しも足りねえうよ。なら間違った理由を最初から説明してみやがれ、やってることが間違っているって、認めてみろよ」
まだ、前哨戦。
だけれど、この程度で終わるだなんて、思うわけもない。
ただ俺は、火蓋を切る。ありとあらゆる火蓋を切って、このクラスの出入り口を、その炎で出られなくすればいい。
「俺はお前に謝って楽にさせる気もねえし、許さねえって言ってんだよ!」
語気を強めた瞬間、クラスが強くどよめく。
普段は目立たない俺がこんなことを言い始めたのだから当然といえば当然のことだろうと思う。
ヒカリや稲穂ですら、目を丸くしているようだった。
ただ、俺の言葉に唯一、悪意を持って反応する相手がいた。
「ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃあ、うるせえなあ……っ!」
中田の彼氏が思い切り自分の机を叩きつけて、勢いよく立ち上がってこちらへ向かってくる。
流石に、中田と付き合っているだけあるのだろう。
なんであれ、お互いのことは気にし合っているようだけれど、この彼氏の方が中田と比べて単純そうで良いなと、そんなことすら俺は思ってしまっていた
怒りに任せて立ち上がり、グングンとこちらに向かって来るような短絡さが、凄く分かりやすく、好ましさすら感じてしまう。
――拳を振り上げている所なんか、最高じゃないか。
だけれど、それを受け入れてやるのは今じゃない。
「ごちゃごちゃと悪いな。それで、謝りにでも来てくれたのか?」
あえての挑発に、彼は怒りで染まった真っ赤な顔のまま、俺に向かってまっすぐに拳を突きつける。
――早いけれど、追えないほどではない。
俺は彼の拳を、濡れたままで抱えていた制服の上着で受け止める。
俺はそのまま下に重心をかけ、彼の拳を包んだ制服を机の上に軽く叩きつける。
痛みは殆どないだろう。だけれど、俺は立ち上がって彼の目を睨む。
「知ってるか? 殴られると痛いらしいぞ?」
言いながら俺は、動き出しかねないヒカリに視線を送って首を振る。
今は俺が立ち回る時だと、最初から決めていた。
だからこそ、先に教室に戻ってきたのだ。
「この制服ずいぶん冷たいだろ? 落ちてきた――事故だって言ったか? あのバケツは氷も入ってたみたいでよ。さぞかし重かっただろうに、わざわざ一生懸命にバケツを運んで、窓を開いたあとに落としちまった馬鹿がいるらしい。お前、昼は教室にいたか? ならどいつがやったか、知らないか?」
「チッ、うる……せぇな……っ!」
振りほどかれた手で、俺の制服の上着が床に叩きつけられる。
べチャリという音に、近くにいた女生徒が少しだけ机を横に寄せるのが見えた。
最早、強いていうならもう、このクラスメイトの全員が俺の敵みたいなものだ。
「あぁ、悪い悪い。確かにお前が無関係ならうるさかったな。しかし、俺もやっと世利華の気持ちがよく分かったよ」
俺は、いきり立つ中田の彼氏の顔を見て鼻で笑ってから、落とされた制服を拾って世利華の背中に声をかける。
「なぁ世利華」
彼女の表情からは、もう鉄面皮のような硬さは消えていた。
その代わりに、人間味が見える。ちゃんと心を痛めているような、一人の女の子の顔が見える。
「こいつら、ほんっとに、馬鹿だなぁ」
彼女に向かって笑いかけると、彼女は、始めて俺に笑顔を見せてくれた。
――それでいい。今はもう、それだけでいいんだ。
そうして後ろから、俺に近づく足音が、一歩、二歩。
「……葦名くん!」
稲穂の声が聞こえるが、俺だって、伊達に最高レベルの思考系と察知系を見てきたわけじゃない。
「大丈夫。そのくらいの事なら、俺でも分かるさ」
俺は振り返りながら、俺に向かってもう一発撃ち込まれた拳を、改めて制服越しに掴んで、少しだけ強く手前に引き寄せる。あくまで、転ばない程度の力。
全力なんて、まだ出してやらない。
思った通りにバランスを崩しかけた中田の彼氏が、机をズラしていた女生徒の机を掴んで、踏みとどまる。
忌々しげな目でこちらを見ているのを無視しながら、俺は自分の席に座り、時計の方へと首を振る。
「なぁ、放課後が終わったら、好きなだけやろう。なぁ? 皆!」
俺の声だけがクラスに響くと同時に、誰もが口を閉ざす。
「葦名! お前は本当に……!」
一人だけ口を閉ざせない、空気の読めない男が、俺を糾弾しようとする。
だけれど、それに付き合う必要は、もうない。諦めの悪い男だと思いながら、俺は彼を諭す。
「なぁ山岸。皆ってのはさ、お前もだよ。それに……俺もだ」
俺の言葉を聞いて、山岸は黙り込む。
彼の目は真っ直ぐとしていて、少しだけ、痛い。
「ほら、いいのかお前ら? こんな所を教師に見られちまっても? 俺は構わねえぞ? でもお前らは、困るだろ?」
言うと同時にチャイムが鳴り、俺に集まっていた鬱陶しい視線たちが、助かったと言わんばかりに散っていく。
「……後悔すんなよ?」
最後に、そんな言葉を残して中田の彼氏は席へと戻っていった。
流石に『俺は構わねえ』なんて荒い言葉はハッタリだったけれど、高校生が殴り合いをしている現場なんて、見る側も見られる側も困る。
ただ、制服を間に挟んでいたから力も分散していたけれど、彼は本気で俺を殴りに来ていた。
どうやらしっかりと、中田の彼氏は、正々堂々と純粋な悪意としてぶつかってくるらしい。
「後悔なんざ、とっくにしてるよ」
呟く俺の言葉をまだ聞いていた山岸に、肩を揺さぶられる。
「葦名……! お前は、それで良いのか?! こんな、こんな状況にして、どうなると……!」
「あぁ……じゃあ逆に聞くよ、山岸。お前は、どうなるのが良かったんだ?」
彼が掲げていたのは、想像するに、単なる理想論でしかない。
だからこそ、彼は俺の言葉に何も返せず、自席へと戻っていった。
そうして、教師が来るまでの間、俺は不安そうな顔をしている稲穂に、無理に小さく笑いかけた。
すると、彼女は少し不満げに、自身のスマートフォンを指さす。
おこめ『やりすぎだよ……!』
葦『悪い、流石に俺も頭に血が昇った』
打ち込みながら、自分のした事の責任が、もう既に背中に重圧をかけているようだった。
陽雁『でも、先延ばしに出来るようなことじゃなかったことも、確かだよ』
おこめ『それは分かるけど……放課後、どうするの?』
葦『あの感じだと中田の彼氏が狙い目だろうな。まぁ、どうにでもやるさ。ここまでしたからには』
Pica『啖呵としては様になっていると感じたが、しかし血が流れるのも不合理だぞ』
葦『不合理かどうかは、終わってから分かるさ』
知らない名前とアイコンがパッとグループチャットに紛れるが、相手が分かっているからこそ、俺はそのまま言葉を打ち続けた。
葦『ヒカリも仕事が早いな』
陽雁『うん、やっぱり当事者だしね』
葦『とりあえず、皆は中田の彼氏の動きにだけ気を配っといてくれ。相手は俺がする。ただ、世利華がグループチャットに来るのは意外だな』
Pica『君達がそこまで介入してくる意味は分かりかねるが、断る理由もなかったからな』
おこめ『私達がしている事の意味はさ。終わってから、最後に分かるんだと思うよ。きっと』
彼女たちの言葉を噛み締める度に、俺は集中が途切れ、いつの間にか授業が終わる。
放課後最後の授業前の休み時間も、誰一人として言葉を発するクラスメイトはいなかった。
ヒカリがせっせとスマートフォンを弄っているのを、ぼんやりと見つめているうちにチャイムが鳴る。
――あと、何回かで、チャイムはゴングに変わる。
そう思う度に、俺はゴングを待つように時計が鳴らす秒針の音が、やけに大きく聞こえるような気がしていた。




