第十五話『隠していて本当に良かった』
明確な悪意によって、世利華の机周りが、雑草と土にまみれていた。
それに、ご丁寧に机の上には汚れた軍手まで置かれている。
「これは、随分と精が出るもんだな……」
ヒカリは俺の呟きに返事をせず、呆然とその光景を見ていた。
イジメなんてものは、身の回りにあるものでやるようなことだと何となく思っていた。
イメージとしては、花瓶に菊なんてものがあるけれど、あんなのはご丁寧にご丁寧を重ねた象徴的イジメのイメージでしか無いと思っている。
何故かといえば、イジメるためにわざわざ生花店で菊の花を買って、クラスに花瓶が無ければ花瓶を用意するだなんて、花が違えばプレゼントでもおかしくない。
だが、軍手一つで土ごと雑草をむしって、それを袋か何かに詰め込んでイジメの標的の机にばら撒くくらいなら、胸糞は悪いものの悪意としては実に分かりやすく、手っ取り早い。
軍手代と、草むしりの賃金を考えても、ハッキリとお釣りが来る程度には、明確な嫌がらせだ。
こんな実害になるのは、もう少し後だと思っていたのだけれどなと思い、先に登校して、席に座って青い顔をしていた稲穂を見る。
彼女は小さく首を横に振った。つまり中田たちは、わざわざこのイジメのために多少の用意や早起きをする程度には、世利華に嫌がらせをしたいということに他ならない。
「あー……とりあえず片付けてくるね?」
ヒカリは稲穂の席まで軽く駆けていき、少し稲穂と何か話したあと、雑巾を持って廊下へと出ていく。
稲穂はちりとりを用意して、まだ登校してきていない世利華の席の方へ、歩く。その姿を、中田たちが視線で追っていたのが、不快だった。
「あー、水引さん? わざわざそんなの、しなくていーよ? 別に水引さんがやったわけじゃないっしょ?」
「あはは……でも、誰かがやらないと、ね?」
実際、まだ世利華が登校してきていないのだから、中田たちとしてはその前に片付けられては嫌がらせの意味はないというものだろう。
しかし、片付けの妨害までするものかと思い、俺は自分の席の椅子を、いつでも立てるようにずらしながら座る。
補助はすると言った手前、流石に何をするにせよ目は光らせておかなければいけないなと、状況を改めて飲み込む。
あくまで稲穂はターゲットではないのだから、今この瞬間の状況は激化しないだろうけれど、もしもの時を考えておいて動けるようにしておくのは問題ないだろう。それに、中田の隣には彼氏もいる。
「しかし誰がやったんだろうな? これ、酷いもんだよ。なぁ?」
「いやいや、まぁあれじゃない? 園芸部の子がなんかしちゃったんでしょ」
白々しい二人の会話を、クラスにいる殆どが、聞こえていないフリをしている。
ただし、一人だけその会話に入り込む。空気の読めない男がいた。
「いや、このクラスに園芸部の子はいないぞ」
山岸が少し語気を強めながら、袋を持って稲穂に近づく。
空気の読めなさは相変わらずだけれど、こういう時に彼の純粋さは少しだけ助かる。とはいえクラスの空気は若干冷えていたにせよ、それ以上に中田とその彼氏の表情は苛立ちは熱を帯びているようだった。
これは、山岸の無意識的な宣戦布告だ。
そうして、中田たちからも、イジメはやめないという立場の提示に見えた。
「これを使ってくれ、あとで処理しておこう」
中田の彼氏からチッという舌打ちが流れると同時に、バケツと雑巾を持ったヒカリと、世利華がクラスの別々のドアから入ってきて、中田の目がギラっと嬉しそうに光ったのが見える。
――間に合わなかった、しかし間に合わない事も、おそらく必要になる。
結局、この状況に対して世利華がどう動くかで、俺たちのやることは大きく変わる。
しかし、当の世利華は、自分の机周りを見てから、教卓の上にカバンを置き、掃除をしている三人と、中田たちを不思議そうに見つめていた。
「世利ちゃん座って座ってー! 片付けちゃうからー!」
ヒカリがやかましげに言いながら、こちらに視線を向け、俺はすかさず立ち上がり、ぼうっとそれを眺めながら席に座った世利華に声をかけた。
「おはよう、難儀だな」
「ああ、おはよう。難儀なのは彼女らでは? どうやら私の机周りが汚されているようだが、私が何かした記憶はないな」
昨日も言っていたが、彼女にはイジメの動機になるような感情も、それを引き起こしたり、激化させるような感情も理解していないように見える。
「あぁ……まぁ端的に言えば。沢里さんのイジメのターゲットがお前に変わったんだよ。面倒な話だが、どうするつもりだ?」
世利華はそれを知ったところで動じないだろうと思い、俺は中田たちに聞こえないように、彼女にこの状況の成り立ちの推測を伝える。
「ふむ……どうもこうもない、かな。実際、今不利益を与えられているのは私ではなく、掃除をしている彼女たちだ。私は同情、でもされているのだろうか。別に、頼んではいないのだけれどな」
やはり、今の彼女に、中田たちの行動原理も、稲穂たちの行動原理も、感情として理解して貰うのは難しそうだ。俺は小さな苛立ちを抑えながら、世利華に改めて問いかける。
「どうもこうもしないとなると、これからもっと面倒になるぞ? お前の言う不合理が、お前に降りかかり始めてる。それに稲穂は……山岸も同情ではやってない。この状況を嫌って、お前を想ってやってる……って言っても分からないか。とにかく、今はあの程度で済んでるけれど、昨日の今日でこれだ。出来るならどうもこうもしてくれ」
「状況を嫌うと言われてもだね、状況を起こしているのは私ではない。確かにこんなことをされるのは不合理だと思うが、中田も思考系のギフトを持つのだろう? であればそのうち意味のなさに気づくだろうさ。何、君達が気にするようなことじゃあない。考えるだけ、無駄だよ」
結局の所、俺の彼女との会話は、彼女の軸が簡単にはブレないという事を証明しただけだ。
「まぁ、お前には分からん話だよな」
俺は溜息を付き、中田の鬱陶しい視線から逃れるように世利華から少し距離を取った。
一瞬、片付けをしている山岸と目が合うが、何も言わずに席に戻る。ここで掃除に協力してしまうのは、線を繋げ過ぎる。
やはり、幾つかルートは作っておくべきだ。
――まず一つは、世利華自体に中田をその合理で叩き潰して貰うルート。
これは、あまり期待出来ないように思える。実際にそれが通用するのなら、昨日の時点でこの話は終わっていて、イジメのターゲット変更は、俺達の杞憂だったというだけで済んでいた。
ただ、実際はすぐに実害が出始めてしまっている。
――もう一つは、中田側を説得するか、世利華の言う通り諦めるまで待つルート。
これが一番現実的ではある。
少なくとも世利華は気にしないだろうけれど、ヒカリと稲穂、そうして山岸の三人は表立ってイジメを否定する動きをしている。続けていけば、もしかすると本当に諦める可能性はありそうだ。
――そうして最後の一つは、あまり考えたくはないが、イジメの状況に直接介入するルート。
実際に、イジメ側と、イジメ反対側で、集団戦が起きてしまうパターンだ。
世利華を抜きにして、イジメという状況自体を否定し、潰してやるという。
当事者の要望すら気にせず、イジメの圧力に対して、無関係の外部圧力が戦いはじめてしまうという理由を持てない構図。
どう転ぶかは分からないが、どれに転んでも結局は面倒なことに変わりはない。
掃除が終わった状態の席で、世利華は何も言わずにカバンから小説を出し、それをパラパラとめくっていた。
ヒカリあたりは気まずそうに笑い、稲穂は何も言わずに席に戻る。
「日下くん、何かあれば言ってくれよ? 協力はするからな?」
クラスに聞こえるように、山岸が宣言する。チッという舌打ちの音が、今度は二つ重なって聞こえた。
「いや、何も問題はない。気にする必要もないよ。こんなくだらない行動に時間を割くほど、人間は暇じゃないものだからね。そのうち、この行為の愚かさには、どれだけ馬鹿だろうと気がつくというものだろうさ」
ハッキリと返したその言葉が、この状況をどれだけ悪くするかということについて、山岸はともかく、おそらく世利華は理解していない。
一見、山岸からは正義感のようなものだけが見えて、状況が良くなっているようには見えるけれど、実際問題、それは解決には程遠い。
それなのに、世利華がわざわざ喧嘩を売るようなことを言っては、対立構造というよりもこの二人の対話がイジメの助長のようなものだ。それも無意識に自分をイジメている相手を煽るようなことを言っているのだから、タチが悪い。
それに世利華だって、今の状態を見れば何一つイジメについて問題視していないのは確かだろうけれど、彼女を知らない人から見れば、いわゆる効かないアピールをしているように見えないわけでもない。
だからこそ、俺は少しだけ気を引き締める。
俺は自席でずらした席を戻して、軽く机に突っ伏し、グループチャットにメッセージを送る。
葦『世利華は、多分アレ何も分かってないぞ。なんならお前らが片付けたのをありがたいとすら思ってない』
おこめ『まぁ……そういう人だろうとは思ってたからそれは大丈夫かな。実際勝手にやってるだけだしね。ただ空気は昨日より重いね……まさかもうこんなのが始まっちゃうなんて』
陽雁『んー、中田さんをぶっ飛ばしたら駄目なんだもんねぇ。分かっちゃいるんだけど、なんだかなー』
葦『ぶっ飛ばしたらもう二度と口効かないから、そこんところはよろしく頼む』
おこめ『ぶっ飛ばせるなら私だってぶっ飛ばしたいよ……』
気持ちは分かるにせよ、稲穂はそっち側に転ばないでいてほしいと思うのは、単なる俺の願望だ。
陽雁『とりあえず様子見しかないよね。皆でやれそうなことは、とりあえず明日からも続けて行こ?』
おこめ『ん、それが良いと思う。次何かあるとしたら、お昼とか、放課後、かな?』
陽雁『先生に言うってのは、やっぱなし……だよね?』
葦『イジメは当事者がどう思うかに寄るって言うしな。当の世利華があれじゃ、問題にはしにくいだろうな』
陽雁『(頭身が高い奇妙な動物が地団駄を踏んでいるスタンプ)』
葦『とりあえず昼は中庭に集合かな、多分世利華もそうするはず』
おこめ『その間に机にいたずらとかされないかな?』
葦『そこは山岸に任せよう。俺らがいなきゃどうせアイツが目を光らせるさ』
陽雁『良い人だよね、山岸くん。仲間に入れるってのは?』
葦『アイツはアイツでクセが強すぎるからなぁ……自由にさせといた方がいいぞ?』
おこめ『私もどっちかと言えば様子見したいかな。山岸くんはちょっとだけ、私たちがやろうとしてる事とズレてる気がする』
陽雁『二人がそう言うならまぁいっか。とりあえず昼休み中庭、了解だよ』
やっとグループチャットが目的のために動いて俺は少しホッとする。
実際、世利華自体も昼に話しかけたなら会話の応答くらいはしてくれるだろう。
ヒカリはともかくとして、何かしら稲穂が察知してくれると状況は少し進むのだけれど、正直あまり期待はしていない。
察知以前に、世利華が話している内容にブレがなさすぎて、何を察知すればいいのか俺自身見当もつかない。
そうしてやってきた昼休み、俺はヒカリに食料調達を任せて、稲穂と先に中庭へと歩く。
「世利華はすぐに席を立ったし、いるなら多分、今日もここだと思うんだよな」
「葦名くんも、結構良く周りのこと見てるよね?」
なんとなしに褒められるが、稲穂ほどじゃないだろうというのは、流石に野暮だ。
「まぁ……普通にしてても目に入るもんはあるよ。ただ、この場所だと思ったのは昨日同じ場所で会ったってだけだぞ? それに今日は、昨日より根拠は薄い」
可愛らしく頭に疑問符を浮かべているように首をかしげる稲穂を横目に、俺は空を見る。
今日は予報通りに、曇り空が続いていた。
だから、昨日のようにセロトニンを目的にして世利華が中庭を選ぶかと言われたら、理由は弱い。
ただ、クラス以外で食事をする場所なんざ、大体限られている。彼女がなるべく静かな場所を選びそうだということくらいは、分かっていた。流石にトイレにいるということはないと願いたい。
「あ、でもやっぱりここで正解みたいだよ?」
中庭のひらけた両扉の向こうでは、昨日と何も変わらない様子で、世利華が本を読みながら食事を摂っていた。
また本をゴミ箱に捨てる所は見たくないなと思いつつ、俺は昨日のように世利華から一瞥されたのを確認してから、彼女に近寄る。稲穂はベンチに腰を下ろしていた。
「曇り空なのに、セロトニンか?」
「室内よりはマシさ。曇天でも幾らかの光量はある。それに、教室にいると中田が喧しそうだったからね」
「分かってるならどうにかすりゃいいじゃねえか」
彼女は昨日『こころ』を捨てていたにも関わらず、相変わらず何かの本のページを捲る手を止めず、サンドイッチを齧っていた。
「彼女が思考系のギフトを持っているということは理解している。が、今朝あんな事をしたのを見る限り愚かではあるな。それでも彼女の行動には、彼女から見た合理があるのだろう? 私にとっての不合理だが、それが彼女にとっての合理であるなら、それを阻害というのも、な。しかし普遍的な合理は私の側にあると、私は譲るつもりはない。だからこそ、そのうちに彼女も自分のしていることの愚かさにくらい気づくだろうさ」
俺は溜息混じりに、稲穂の方を振り返るが、彼女は申し訳無さそうに首を横に振っていた。
「合理だの不合理だのと、お前も随分と喧しいんだけどな……じゃあ俺たちの合理に付き合う義理もないのか?」
「二度も言うのも面倒だが、確実に普遍的合理は私の側にある。君たちの都合で私の思考を曲げるつもりはないよ」
彼女は少しだけ語気を強めて、サンドイッチを食べ終え、俺にそのゴミを手渡した。
「どうやら、私を説得をして状況を変えたいように見えるね。しかし無駄だと忠告しておく。私も、何度も同じことを言うのは疲れるからね」
俺はゴミを捨てて、そのことにはもう何も触れず、本に目を落とした世利華の隣に座る。
「今日、読んでるのは?」
「太宰治のヴィヨンの妻、だね。最近はこの時代の文豪とやらの本を読むことにしているんだ」
「よりにもよって、一番不合理なタイプの文豪を選んでるじゃねえか……今日もゴミ箱行きか?」
「いいや、まだ読み終わっていない。それに、だ。またキミに何か言われるのも面倒だからね、キミに見られる所では捨てないことにしたよ」
その判断基準もどうなのだろうと思いつつ、読んでる本にしても、やはり少しズレているように思える。
「それは有難いことで……しかし、お前は随分と人間臭い話ばかり選ぶもんだな」
俺はぼやきながら、向こう側から両手一杯に昼ご飯を抱えて走ってくるヒカリを眺める。
多分教師たちが、彼女に廊下は走るなという注意を諦める日は近いだろう。
「おまたせー! 焼きそばパンと、焼きそばパンと、焼きそばパンと、焼きそばパンね!」
「つまり焼きそばパン四つ、だよね?」
我が校人気の焼きそばパンを、彼女はおそらくその瞬発力で四つもひったくってきたらしい。
「……此処も急に賑やかになったな」
呟く世利華の視線は、言いつつも焼きそばパンを貫いている。少しだけ驚いた表情。
「まぁ、分かってやってほしいもんだな。俺はともかく、だ。二人はお前が心配なんだよ」
俺はヒカリに焼きそばパンの料金を渡すが、俺の手には二つの焼きそばパンが乗っていた。
「いや、二個も頼んでないぞ?」
「私たちは一個でいいよ。だから葦名くんに二個あげる! 一個はサービスだい! 受け取れい!」
ヒカリからは加点狙いの空気を感じるが、実際の所、我が校の焼きそばパンは結構ボリューミーなので、一つで構わないというのが本音だった。
「いや、俺も一個でいいんだけどな……」
二つの焼きそばパンを押し付けられながら、どうしたものかと考えていると、やはり世利華の視線がこちらを貫いている。彼女は俺を見ていない。焼きそばパンを見ている。
「ん? いるか?」
「んんっ! 我が校の焼きそばパンは美味しいと評判だっただろう? ただ競争率が高い事でも有名だ。皆々がこぞって取り合う食べ物というのに、興味が湧くというのは当然のことだとは思わないかい?」
彼女は驚くほどの爆速早口で理由を説明するが、要は食べたいという事でいいのだろう。
回りくどい、非常に回りくどいが、それを突っ込む気も失せて、俺は世利華に焼きそばパンを渡す。
「……感謝する。支払いは、百瀬にするべきだね?」
彼女がポケットをまさぐると、ヒカリはややコミカルにそれを遮る。
「いいよいいよ! お友達の証って事で! 食べて食べて!」
「……ふむ? だが、そういう事なら有り難く……」
これは、流石にヒカリのファインプレーだ、世利華だって人間なのだから食欲はあるし、好みもあるだろう。
とはいっても、彼女がわざわざ焼きそばパンの争奪戦に挑むようなタイプだとは思えない。だからこそちょっとした懐柔のチャンスだと思い、考えを巡らせる。
思考を崩すか、納得してもらうという点のみで何とかしようと思っていたけれど、実際の所、食べ物で距離感が詰まってしまった。
なんだかんだ、一番人間臭いやり取りが有効になる事もあるのだなと思いながら、焼きそばパンに齧りついて少しだけ頬を紅潮させている世利華を見る。
――こう見れば、普通の女の子なんだけれどな。
当然の事ではあるが、世利華は鉄面皮のイメージが先行していて、少し驚く。
世利華も、美味しい物を食べる時くらいは表情が和らいでいる。
いつもこんな風に、表情くらいは穏やかでいればいいのにと思いながら、俺は三人よりも先に焼きそばパンを食べ終わり、ゴミを捨てに立ち上がった。
俺は、何となく心地良い空気を感じながら、同じ空間で、同じ食べ物を齧りながら、なんとかなるような気持ちを感じ始めていた。
――しかし、そんな気持ちを裏切るかのように、ガララと窓が強く開かれる音が聞こえた。
焼きそばパンをカジカジと可愛げに食べていた稲穂が思い切りむせ返る。
「大丈夫?! お水お水!」
ヒカリが、彼女に水を渡そうとするが、稲穂はそれを受け取らず、焦ったように頭上を指差す。
そうして彼女は、ひどく申し訳なさそうな顔で、俺の目を見た。
彼女の指の先――その見上げた先には、銀色の物体と流れる液体が、曇り空の下、俺たちではなく、世利華に向かって落下していた。
「随分と早く……ラインを、超えたもんだな」
ヒカリが運動系のアドを持っていることは、クラス全員の知るところだろう。
だからこそ、距離を見られていた。
だからこそ、ヒカリでは間に合わない場所を、選ばれた。
そうして、イジメている世利華の近くにいる人間ならば、被害にあっても構わないという安易な発想。
「どうもこうも、なくなったか」
ヒカリが咄嗟に動き始めるが、稲穂と一緒に、俺と世利華と別のベンチに座っていたヒカリは、窓からの落下物のスピードには、間に合わない。
――だから、もうこれしかなかった。
決して、こういう時のためにしてきたことでは、なかった。
俺は俺の意思で、アドを隠してきたのだ。
「……あぁ、隠していて本当に良かった」
上階から、中庭にいる人間をめがけて、水が入ったバケツを落とすなんていう愚行にまで走られたならば、もうこの状況は、簡単に限界値まで達する。
「選択することもしないことも選択、か」
怒りに伴った興奮からか、落下してくるバケツがゆっくりに見えていた。
俺の頭の中に、昨日母に投げかけられた言葉と、好まずにいた生まれの力の嫌悪が、脳裏を走る。
それでも、だとしても、俺の身体はその思考を塗りつぶすかのように、勝手に動いていた。
「もう遅えや、俺は選択しちまったよ」
俺は、世利華に水がかからないように彼女の上に覆いかぶさりながら、思い切り拳をバケツに叩きつけた。そのままの軌道であれば、確実に世利華の頭に直撃していただろう。
上階から驚愕したような声が聞こえたけれど、そんな事はもう気にしない。
気にしていられるような状況じゃない。
「アドだのなんだの。もう、知ったことじゃ、ねえな!」
昨日、ヒカリが屋上で見せたホームランボールのキャッチに比べたならば、このくらいのこと、俺だって造作もない。自分で自分のアドを否定しながらも、多少の鍛錬だけは欠かさなかった。
自分のアドが嫌いだったとしても、使わないと決めていたとしても、持っているということは事実。
だけれど、嫌うだとか、嫌わないだとか。
持っているかだとか、持っていないだとか。
「もう、そんな話じゃねえよな」
ガラン、と地面に転がるバケツを、俺は踏み潰す。
俺には、目を丸くして、焼きそばパンを握りしめている、一人の少女だけが目に映っていた。
――あぁ、やっとその目をしてくれた。
彼女の表情に、初めて怯えが見える。
「なぁ、世利華。俺は、今の俺の行動を『不合理』だったとは、思わない。認めない。お前は、どうだ?」
「そう……だな、せっかくの焼きそばパンに水がかかっていたら、台無しになる所、だった」
俺はその言葉に苦笑して、少しだけ水がかかった彼女から、身体を離して、ずぶ濡れになった自分の学生服を一枚脱いだ。
上を見上げると、開け放たれた窓は見えるものの、誰が落としたか分かるように、犯人が顔を出しているわけはなかった。
「ねぇ! これ、落としたよ!」
ヒカリが、俺が踏み潰したバケツを拾い上げ、フワッと上へと放り投げる。
無茶なことをすると思ったが、その放物線は綺麗に開かれた窓の方へと吸い込まれ、ガシャン! という音と、聞き覚えのある驚きの声が聞こえた。
「ヒカリ……気持ちは分かるけれど……」
「大丈夫だよ。あの子の彼氏は運動系、分かるように大声も出した。それに、こっちは手加減くらいしてる」
確かに、投げるにしては緩やかな放物線、ギリギリ窓枠を滑るような軌道だった。
しかし、初めて聞くヒカリのひどく冷たい声色は、それでも強い怒りを抑えているように聞こえる。
「それでも、それでもだ。俺らが同じく暴力で返して解決しようとしちゃおしまいだろ」
「だからって……! ここまでされて黙ってられる?」
見開かれた鋭い目に、正義とは呼べないほどの、強い怒りを見た。
「黙るかどうかは、俺らが決めることじゃない、だろ?」
俺は世利華に視線を移す。ヒカリも不満足げに、彼女を見た。
稲穂は、この状況に酷く胸を痛めているのか、何一つ喋らない。
「なぁ、世利華。イジメってのはさ、結局こういうもんになったりもすんだよ。ここまで膨れた人の悪意ってもんは、合理や不合理じゃもう、語れない」
「あぁ……どうやら、そうらしい。私も少しは考えを改めるべきなのかもしれない……だが、それでも中田が不合理なのは、変わらないよ」
彼女が、手に持った焼きそばパンをギュッと握りしめる。
そうして、俺の顔を真っ直ぐと見た。いつも何かをしながら、俺の顔を見ない彼女が、俺の目を見ていた。
「その考えは、私の思考は、どう考えたって、変えることが出来ないんだよ……っ! 私だって痛いのは嫌だ。殴られるならば怖い。それでも、言ったところでどうにも出来ない相手を、どうすればいいと言うんだ?!」
「それは、それで構わないんだよ。お前の思考が変わるかどうかはお前が勝手にすることだ。それでも、俺たちだってここまで不合理的なのは頭に来る。だからさ、世利華。一つ俺達と手を組もうじゃねえか」
少し震えている彼女は、小さく頷いて焼きそばパンを口に運ぶ。
それを、俺は了承だと受け取った。
俺たちはもう、外部の人間ではない。
俺が考えていた幾つかのルートの最後、イジメに介入するルートには、分岐がある。
――外部としてではなく、世利華の望みでイジメに介入し、イジメを壊すルート。
「もう、これ以上やられるのは御免だ。悪化する前に、さっさと終わらせなきゃ間に合わなくなる。今日の放課後、ケリをつけよう」
皆に聞こえるように呟いて、俺は冷たい制服のまま、皆を残して一人で中庭を後にする。
その途中で、稲穂の肩をポンと軽く叩いて「助かったよ」と呟いた。
彼女は、無理をするように小さく笑う。
実際、ヒカリが間に合う可能性だってあった。だけれど彼女は俺の目を見たのだ。
稲穂は、俺に助けを求めていた。それはきっと、さっきのバケツの事だけではない。
この、本当に不合理な悪意の渦から、助けて欲しいのだと、俺は受け取った。
――目が、語っていた。
ヒカリの怒り。
稲穂の悲しみ。
世利華の怯え。
俺はもう、全てを見てしまった。
だから俺は、選択をするしかない。
責任を負ってでも、もう、選ぶことを決めた。
分かりやすかったり、やっと見せてくれたり、無理をして隠していたり。
それでも俺の目の前にいた三人の、それぞれの感情が、強く伝わってきた。
だから俺も、静かに目を開かなければいけないと、そう想ってしまった。
もう、俺は無関係を装いながら、眠っている場合では、ないのだと。




