第三話 君が忘れた約束
雨の匂いは、夜になっても店の中に残っていた。
忘れもの屋の窓ガラスには細かな水滴が張りつき、外の路地に灯る明かりを滲ませている。古びた棚に並ぶ無数の瓶は、雨音に合わせるように、時折かすかな光を揺らしていた。
三枝春斗はカウンター席に座り、冷めかけた茶を前にして、奥の棚を見つめていた。
そこに置かれている一本の瓶。
銀色の光を閉じ込めた瓶。
札には、ただ一言。
『約束』
そう書かれていた。
「……あれ、まだ気にしてるんですか」
白瀬灯が急須を片手に言った。
いつもと同じ穏やかな声だった。
けれど春斗には分かる。
彼女は平気なふりをしている。
第二話で結衣に「祖母の名前」を返したあと、灯はあの瓶を見た瞬間だけ、確かに表情を変えた。ほんの一瞬だったが、その顔は忘れられない。
寂しさ。
諦め。
そして、怯え。
人の忘れものを扱う店主が、自分の棚に並ぶ一本の瓶に怯えている。
それが春斗には引っかかっていた。
「気にするだろ。あんな顔されたら」
「どんな顔ですか」
「昔の黒歴史ノートを親に見つけられた顔」
「随分と具体的ですね」
「俺なら死ぬ」
灯は少し笑った。
だが、その笑みは長く続かなかった。
「……あれは、届け先のない忘れものです」
「持ち主が分からないって言ってたな」
「はい」
「でも、忘れものって持ち主と繋がってるんだろ?」
「普通は」
「普通じゃないのか」
灯は答えなかった。
代わりに、春斗の湯呑みに温かい茶を注ぎ足す。
その手つきは丁寧で、静かだった。
けれど、ほんの少し指先が震えているように見えた。
「灯」
「はい」
「あれ、お前のものなんじゃないのか」
店内の音が消えた気がした。
雨音さえ遠ざかる。
灯は急須を置いた。
春斗を見る。
琥珀色の瞳が、店の灯りを映して揺れていた。
「どうして、そう思うんですか」
「勘」
「根拠が薄いですね」
「でも当たってるだろ」
灯は困ったように微笑んだ。
「三枝さんは、時々ずるいですね」
「よく言われる」
「誰にですか」
「言われたことはない」
「でしょうね」
いつもの軽口。
けれど今日は、それで流せなかった。
春斗は銀色の瓶を見つめた。
「話したくないなら、無理には聞かない」
それは本心だった。
誰にだって、触れられたくない過去はある。
春斗にもあった。
辞めた会社のこと。
親に何も言えなかったこと。
自分で選んだはずの人生を、どこか他人事のように扱っていたこと。
忘れたいことなら、いくらでもある。
だから灯が黙るなら、それ以上踏み込むべきではない。
そう思っていた。
けれど灯は、静かに首を横に振った。
「いいえ」
そして、棚の方へ歩いていく。
「そろそろ、話さなければいけないのかもしれません」
灯は銀色の瓶を手に取った。
その瞬間、店内の明かりがわずかに揺れた。
窓の外の路地が遠のく。
雨音が深くなる。
まるで店そのものが、どこか別の時間へ沈んでいくようだった。
「三枝さん」
「何だ」
「少し、昔話をします」
灯の声は、とても静かだった。
けれどその静けさの奥には、長い長い夜が横たわっていた。
「私がまだ、人だった頃の話です」
春斗は息を呑んだ。
人だった頃。
その言葉の意味を尋ねる前に、銀色の光が瓶の中で弾けた。
視界が白く染まる。
次に目を開けたとき、春斗は見知らぬ町に立っていた。
空は夕暮れだった。
古い瓦屋根の家々。
細い土の道。
遠くで子どもたちの笑い声がする。
車の音はない。
電線もない。
現代ではなかった。
「ここは……」
「記憶の残り香です」
隣に灯が立っていた。
ただし、いつもの白いシャツ姿ではない。
淡い色の着物を着ている。
髪も少し短く見えた。
その姿は、店主というより、どこかの家に暮らす普通の少女のようだった。
「本物の過去じゃないのか」
「ええ。もう失われた場所です。瓶に残った記憶が、形を作っているだけ」
灯はゆっくり歩き出す。
春斗は黙って後を追った。
通りの先に、一軒の家があった。
小さな庭。
縁側。
干された洗濯物。
その縁側に、一人の少女が座っている。
灯によく似た少女だった。
いや、灯そのものか。
ただ、今の灯より幼く、頬は少し痩せていた。
少女は咳をしていた。
苦しそうに胸を押さえながら、それでも庭の向こうを見つめている。
「身体が弱かったんです」
隣で灯が言った。
「幼い頃から、あまり遠くへは行けませんでした」
縁側の少女のもとへ、一人の少年が駆け寄ってきた。
年は十五、六くらいだろうか。
春斗より少し幼いが、目元に灯と似たものがある。
「兄です」
灯が言った。
「名前は、暁斗」
少年は少女の前にしゃがみ込む。
『灯、また外に出てたのか』
『縁側は外に入りません』
『入るだろ。半分外だ』
『兄さまは細かいです』
少女がむくれる。
少年は呆れたように笑いながら、手に持っていた包みを差し出した。
『土産』
『またですか?』
『今日は飴だ。町の店で売ってた』
少女の顔が明るくなる。
その表情を見て、春斗は胸が詰まった。
今の灯が見せる笑顔とは違う。
警戒も諦めもない。
ただ嬉しいときに嬉しい顔をする、普通の少女の笑みだった。
少年は縁側に腰を下ろし、少女と並んで空を見上げる。
『灯』
『はい』
『俺、今度遠くへ行くことになった』
少女の笑顔が止まった。
『遠く?』
『都の方だ。仕事を覚えに行く』
『いつ帰ってくるのですか』
『すぐだよ』
少年は笑った。
けれど、その笑みには少しだけ迷いがあった。
『本当に?』
『本当だ』
『約束ですか』
『約束だ』
少年は小指を差し出す。
少女も細い小指を絡めた。
『必ず帰ってくる。灯が元気になったら、海を見に行こう』
『海……』
『見たことないだろ』
『ありません』
『じゃあ俺が連れていく』
少女は小さく笑った。
『忘れないでくださいね』
『忘れるわけないだろ』
その瞬間、夕暮れの空が銀色に揺れた。
景色が滲む。
春斗は何も言えなかった。
ただ、その約束が守られなかったのだろうということだけは分かった。
次に景色が変わったとき、そこは夜だった。
同じ家。
同じ縁側。
けれど少女は布団の中にいた。
息が荒い。
部屋の中には大人たちが慌ただしく出入りしている。
少女は何度も戸口を見る。
誰かを待っている。
『兄さまは……?』
か細い声。
誰も答えない。
『兄さま、帰ってきますよね』
答えはない。
少女の手が布団の上で何かを探すように動く。
その指先には、小さな銀色の鈴が握られていた。
「兄が旅立つ前にくれたものです」
灯の声がした。
「帰ってくる目印にしろ、と」
春斗は隣を見る。
灯は昔の自分を見つめていた。
その顔には涙はない。
涙が枯れるほど長い時間が過ぎた者の顔だった。
『忘れないで……』
布団の中の少女が呟く。
『約束、したのに……』
景色が崩れる。
夜が砕け、雨音が戻ってきた。
春斗は気づけば、再び忘れもの屋に立っていた。
灯は銀色の瓶を両手で抱えている。
「私は、その夜に死にました」
あまりに静かな声だった。
「兄は帰ってきませんでした」
「……何かあったのか」
「分かりません」
「分からない?」
「はい。兄がどうなったのか、私は知りません。死んだのか、生きていたのか、忘れたのか、忘れなかったのか」
灯は瓶を見る。
「ただ、約束だけが残りました」
春斗は言葉を探した。
けれど、見つからなかった。
大丈夫だとか、きっと理由があったとか、そんな薄っぺらい言葉は言えなかった。
長すぎる時間の前では、慰めは形を保てない。
灯は続けた。
「死んだ後、私はどこにも行けませんでした。兄を待っていたからです。約束があったから。忘れられなかったから」
「それで、忘れもの屋に?」
「気づいたら、この店にいました」
灯は店内を見回した。
「ここは、人の心からこぼれ落ちたものが流れ着く場所です。忘れたくないのに忘れてしまったもの。捨てたくないのに手放したもの。言えなかった言葉。戻れなかった日。そういうものたちが、夜の隙間を通ってここへ来る」
「じゃあ、お前も……」
「私は、この店に流れ着いた忘れものなのかもしれません」
灯は微笑んだ。
それは冗談の形をしていたが、春斗には笑えなかった。
「誰かに忘れられたまま、誰かの忘れものを預かっている。変でしょう?」
「変だけど」
春斗はゆっくり言った。
「笑うことじゃないだろ」
灯の笑顔が少しだけ揺れた。
春斗は胸の奥がざわつくのを感じた。
灯が長い時間を一人で過ごしてきたこと。
誰かの後悔や思い出を預かりながら、自分の約束だけは返せずにいること。
それを想像すると、どうしようもなく腹が立った。
誰に対してなのかは分からない。
帰ってこなかった兄にか。
灯を一人にした時間にか。
それとも、何もできない自分にか。
「その約束、届ければいいんじゃないのか」
「届け先がありません」
「兄さんのところに」
「どこにいるのか分かりません」
「探せばいいだろ」
灯は首を横に振った。
「もう遅すぎます。時代が違います。兄を知る人も、私を知る人も、誰もいません」
「でも、瓶は残ってる」
「はい」
「なら、完全に消えたわけじゃない」
春斗は銀色の瓶を指差した。
「忘れものが持ち主を呼ぶんだろ。だったら、それもまだ誰かを呼んでるんじゃないのか」
灯は驚いたように春斗を見た。
「三枝さんは、本当に無茶を言いますね」
「よく言われる」
「誰にですか」
「今言われた」
灯は少しだけ笑った。
だがすぐに目を伏せる。
「これは、私が抱えていればいいものです」
「違うだろ」
春斗の声は、自分でも驚くほど強かった。
「人には返すのに、自分のは抱え込むのかよ」
「私は店主です」
「だから何だよ」
「忘れものを届ける側です。受け取る側ではありません」
「そんな決まり、誰が作ったんだ」
灯は黙った。
春斗は息を吐く。
言い過ぎたかもしれない。
だが止まれなかった。
灯の顔を見ていると、昔の自分を見ているようで苦しかった。
助けてほしいと言えない。
苦しいと言えない。
平気なふりをする。
誰かに迷惑をかけるくらいなら、自分一人で抱えていた方がましだと思う。
そうやって、気づけば誰にも届かない場所に立っている。
「……俺さ」
春斗はカウンターに視線を落とした。
「会社辞めたんだ」
「知っています」
「知ってるのかよ」
「なんとなく」
「怖いなこの店」
苦笑しながら、春斗は続けた。
「半年で辞めた。別に大きな理由があったわけじゃない。上司に殴られたとか、そういう分かりやすいやつじゃなくて。ただ毎朝起きるのがしんどくて、電車に乗るたび息ができなくなって、気づいたら何もできなくなってた」
灯は黙って聞いていた。
「辞めたら楽になると思った。でも全然ならなかった。今度は、辞めた自分が嫌になった。親にも言えない。友達にも会えない。何がしたいのかも分からない。だから全部、見ないふりした」
春斗は自嘲するように笑った。
「忘れたことにしたんだよ。自分が情けないってことも、誰かに心配されてるってことも」
灯は静かに言った。
「でも、昨日お母様に連絡しました」
「うん」
「あれは、忘れものを一つ拾ったんですね」
「たぶんな」
春斗は灯を見る。
「だから、お前も拾えばいい」
灯の瞳が揺れた。
「私には……」
「できないって言うなよ」
「怖いんです」
灯の声は、初めて震えていた。
「もし、兄が私を忘れていたら」
春斗は息を止めた。
「もし、約束なんて兄にとっては些細なものだったら。もし、私はずっと、誰にも届かないものを抱えていただけだったら」
灯は銀色の瓶を胸に抱いた。
「それを知るくらいなら、分からないまま待っていた方がいい」
その言葉は、春斗の胸に深く刺さった。
分からないままなら、まだ希望でいられる。
確かめなければ、壊れずに済む。
そういう臆病さを、春斗は知っていた。
だから、すぐには何も言えなかった。
店内に雨音だけが響く。
やがて春斗は立ち上がった。
「じゃあ、俺が探す」
「え?」
「その約束の持ち主。兄さんでも、兄さんに繋がる何かでもいい。探す」
「無理です」
「だろうな」
「分かっていて言っているんですか」
「分かってる。でも、無理かどうかはやってから決める」
灯は呆然と春斗を見つめた。
「三枝さんには関係ありません」
「関係あるだろ」
「どうして」
「お前が、俺に茶を出したから」
「……はい?」
「まんじゅうも食わせた」
「それは報酬です」
「あと、俺を不審者にした」
「それは不可抗力です」
「とにかく関係ある」
春斗は言い切った。
理屈としては無茶苦茶だった。
けれど不思議と、今の自分にはそれで十分だった。
誰かと関わる理由なんて、最初から立派である必要はないのかもしれない。
迷い込んだ店。
出された茶。
交わした軽口。
それだけでも、人は誰かの孤独に手を伸ばしていいのかもしれない。
灯はしばらく黙っていた。
そして小さく息を吐いた。
「本当に、変な人ですね」
「忘れもの屋の店主に言われたくない」
「それもそうですね」
灯は少し笑った。
その笑顔はまだ寂しげだったが、さっきよりほんの少しだけ柔らかかった。
そのときだった。
銀色の瓶が強く光った。
店内の棚が一斉に鳴る。
からん。
ちりん。
しゃらん。
無数の小さな音が重なり、忘れもの屋全体が震えた。
「何だ?」
春斗が身構える。
灯の顔色が変わった。
「店が……」
「店?」
「揺らいでいます」
窓の外を見る。
路地の景色がぼやけていた。
石畳の道。
古い建物。
看板。
その輪郭が、水に溶ける墨のように薄れていく。
「おい、これ大丈夫なのか」
「分かりません。こんなこと、今まで……」
灯の言葉が途中で途切れる。
棚の奥から、黒い影が滲み出していた。
人の形をしているようで、していない。
煙のように揺れながら、低い声で何かを呟いている。
春斗には最初、それが言葉だと分からなかった。
だが耳を澄ませるうちに、同じ言葉を繰り返しているのだと気づいた。
『忘れろ』
影が囁く。
『忘れろ』
灯が瓶を抱きしめ、後ずさった。
「灯?」
『忘れろ。約束など。名前など。後悔など。すべて』
影はゆっくり近づいてくる。
店内の瓶の光が次々と弱くなった。
春斗は本能的に分かった。
あれは、忘れもの屋にとって良くないものだ。
人が忘れたくて捨てたもの。
思い出すことを拒む力。
過去をなかったことにしようとする闇。
それが形を持ったもの。
「灯、下がれ」
「駄目です。棚が」
灯はふらつきながらも、瓶の並ぶ棚を守ろうとした。
影が腕のようなものを伸ばす。
その先が銀色の瓶へ向かう。
春斗は考えるより先に動いていた。
影と灯の間に飛び込む。
冷たいものが腕を掠めた。
痛みではない。
だが、頭の中に黒い水が流れ込んでくるような感覚があった。
忘れろ。
声がする。
会社を辞めたこと。
逃げたこと。
親の顔。
自分の名前。
全部忘れれば楽になる。
全部なかったことにすればいい。
「っ……!」
春斗は歯を食いしばった。
楽になりたい。
それは本当だった。
今でも、ときどき思う。
何もかも最初からなかったことになればいいのに、と。
けれど。
結衣が泣きながら祖母の名前を呼んだ声を思い出した。
母に送った短いメッセージを思い出した。
灯が震える声で「怖い」と言った瞬間を思い出した。
忘れた方が楽なものはある。
でも、忘れてしまったら進めないものもある。
「勝手に……決めんな」
春斗は影を睨んだ。
「忘れるかどうかは、こっちが決める」
その瞬間、カウンターの上に置かれていた空瓶が光った。
昨日、結衣に名前を返した瓶。
空っぽだったはずのそれが、淡い青色を放っている。
灯が叫んだ。
「三枝さん、それを!」
春斗は空瓶を掴み、影に向けた。
青い光が広がる。
影が苦しむように身をよじった。
『忘れろ』
「うるさい」
『忘れろ』
「断る」
春斗が叫ぶと、青い光はさらに強くなった。
影は雨煙のように薄れ、やがて店の床へ吸い込まれるように消えていった。
音が戻る。
雨音。
棚の軋み。
春斗の荒い息。
灯が駆け寄ってくる。
「三枝さん!」
「……何だよ、今の」
「忘却の影です」
「名前が物騒すぎる」
「人が強く忘れたいと願う心が、忘れものを壊すことがあります。それが形になったものです」
「先に言え案件、多すぎないかこの店」
「すみません。私も、ここまで強いものは初めてで」
春斗は床に座り込んだ。
腕に傷はない。
だがひどく疲れていた。
灯は春斗の腕にそっと触れた。
「痛みますか」
「痛くはない。でも、嫌な感じがした」
「忘れさせようとしたんです。あなた自身の記憶も」
「最悪だな」
「はい」
灯は目を伏せた。
「私のせいです」
「何でそうなる」
「私が約束の瓶を揺らしたから。私が、思い出すことを怖がったから。だから影が入り込んだ」
春斗はため息をついた。
「お前、何でも自分のせいにするタイプか」
「事実です」
「それなら、俺が不審者になったのもお前のせいだな」
「それは……少しだけ」
「認めるのかよ」
灯が小さく笑う。
春斗もつられて笑った。
笑うと、店の空気が少しだけ軽くなった。
だが、問題が消えたわけではない。
窓の外の路地はまだ揺らいでいる。
灯はそれを見て、静かに言った。
「忘れもの屋は、長く持たないかもしれません」
「どういう意味だ」
「約束の瓶が揺れたことで、店の均衡が崩れました。私自身が忘れものなら、私の未練がこの店を支えていた。その未練が動き始めた以上、店も変わらざるを得ない」
「変わるって」
「消えるかもしれません」
春斗は言葉を失った。
灯は穏やかに続ける。
「元々、永遠にある場所ではないんです。忘れものは、いつか持ち主へ返るものですから」
「でも、お前は」
「私は長く居すぎました」
その声は諦めているようで、どこか安堵しているようにも聞こえた。
春斗は立ち上がった。
「探すぞ」
「三枝さん」
「約束の持ち主。兄さんのこと。手がかりはあるんだろ。名前も聞いた。暁斗だっけ」
「でも」
「でもじゃない」
春斗は銀色の瓶を見た。
「店が消えるなら、その前に届ける。そういう仕事なんだろ、忘れもの屋は」
灯は何かを言おうとして、やめた。
そして、ほんの少しだけ頭を下げた。
「……お願いします」
初めてだった。
灯が春斗に、はっきりと助けを求めたのは。
そのことが、春斗の胸に静かな火を灯した。
店の奥で、銀色の瓶が淡く光る。
札に書かれた『約束』の文字が、雨に濡れた月のように揺れている。
夜明けまでは、まだ遠い。
けれど春斗はもう、帰り道だけを探してはいなかった。
誰かの忘れものを届けるために。
そして、灯自身をこの長い夜から連れ出すために。
彼は初めて、自分の足で夜の奥へ進もうとしていた。




